彼女が居場所をくれたから

 最悪の出会いが、幸せにつながることだってある。オレ、リーゼがこの家で学んだのは、そんなこと。まあミレディアには、「オレ」ではなく「私」と言えと注意されるんだけど――




 小さな頃のことは、よく覚えていない。気づいた時には既に、地獄のような生活だったから。隙間風の吹く部屋で、いつもお腹を空かせて母親の帰りを待っていた。食べる物が何もなくて、一つしかない木の椅子をかじっていたことだってある。渋い味で臭かったけど、それでも少しは空腹が紛れる気がして。


 外に出てもバカにされた。ただでさえ子供の少ないこの地域で、オレは異質な存在だ。嫌われ者の母親の悪口を聞かされることには慣れていて、「父親もどうせろくでもない男だ」といつも言われていた。会ったこともないからわかるはずがなく、何の感情も湧かない。


 母親が酔って一人で帰るのはまだいい方で、酷い時には男の人を連れて来る。昼間から酒の臭いをプンプンさせた男に、母の安物の香水の匂いが交じり合う。ああ、またか……そう思うと吐きそうになった。そんな時はいつも、家を追い出されるのだ。


 冬は寒さに震えながら、地面を突っつきエサを探す鳥を見る。お前も一緒だな、と親近感を覚えていたら、ある日仲間が迎えにやって来た。鳥は仲良く飛び立って、灰色の空の向こうに消えていく。


 ――鳥だって犬や猫にだって親はいる。

 それなのにどうして人だけが、自分の子供を大切にしないんだろう? 


 我が子を大事にする親もいると話には聞く。だけど、オレの周りは生きるために必死で、そんなやつは見たことがない。子供は殴られるか蹴られるのが当たり前で、少ない賃金を得るため働きに行かされる。そう遠くない日に、オレの自由も無くなるだろう。


「お帰り、リーゼ。待っていたよ」


 帰るなり母親からかけられた言葉に、オレは面食らう。にこにこと何だか機嫌が良さそうだ。こんなことは久々だから、ほんの少し嬉しくなる。優しくしてほしいという、オレの願いが届いたのだろうか?


「さ、リーゼ。あんたもそろそろ仕事しなくちゃね? こちらにいらっしゃるのはカウフマンさん。いい人だし紳士だよ。金払いもいいしね」

「よろしく、リーゼちゃん。お母さんに似て美人だね。大丈夫、売れっ子になるよ。ちょっと早いけど優しくするから」

「旦那、ちゃんと払ってからにして下さいよ。大事に育てたこの子を手放すのは、そりゃあつらいんだから」


 親の顔したこの女は誰だ?

 オレはなぜ、いつまでもこんな所にいる?

 次の瞬間、きびすを返して駆け出した。決して後ろを振り返らずに。


 荷車に紛れて夜を明かし、気づけばオレは王都にいた。たくさんの人が行き交う街は、希望の象徴にも思えて。一生懸命働けば、まともな暮らしができるかも。いつか立派になったら、お腹いっぱいパンを食べよう。


 王都暮らしは甘くなかった。人の出入りが多い分管理が厳しくて、素性のはっきりしない者にまともな仕事はない。男の恰好をしているせいか、荷物運びや靴磨き、汚物の清掃が主だ。しかも売り上げは、紹介した者にほとんど取り上げられてしまう。

 それなら女の恰好をすればいいかというと、そっちの方が危ない。バレたら家にいた時のように、娼館に売りつけられるから。良くても酒場の仕事で、身体を触られるらしい。考えただけで、気持ちが悪くて吐きそうだ。夢も希望もあったもんじゃない。


 スリを始めたのは、偶然財布を落とした男に届けようとしたことがきっかけだ。追いかけたけど、姿がなくて仕方なく袋を開いたところ、一週間かかっても稼ぎ出せないほどの金が見えた。途端にオレは、バカらしくなる。貴族や金持ちだけが楽して幸せなのは、ずるいだろう?


 人混みを狙うのが一番だ。ちょうど双子の王子の誕生を祝う期間だった。浮かれ気分で街に繰り出す裕福そうなやつらから、財布を抜き取ればいい。

 盗み自体はちょろかった。警備の兵を回避するため、オレは慌てて向きを変える。ところが、もさっとした感じの使用人らしき女の人に、腕を掴まれた。力を入れてないはずなのに、コツがあるのか振りほどけない。彼女はオレを引っ張って、嫌な臭いの店に連れて行く。


「何すんだっ、放せよ」


 必死に抵抗したけれど、聞き入れてはもらえなかった。オレはけばけばしい香水の臭いが嫌いだ。母親とは呼べない女の行為を思い出すから。解放されたい一心で、乞われるままに語る……口下手だけど、真実を。

 地味な使用人のくせに、お嬢と呼ばれる彼女。銀色の髪をしたその人は、「目を見て誓えるなら信じる」と言い、眼鏡を外して前髪をかき上げた――


「は? バッカじゃねーの? 初めて会ったやつを信じるって……」


 現れた綺麗な顔と緑色の美しい瞳に、オレは思わず言葉を失う。世の中に、こんなに美しい人間がいるのかと驚いて。美人だと評判の母親面したあの女は、彼女に比べればクソみたいなもんだ。あ、クソって言っちゃいけないんだっけ。

 でもその時オレは、目を奪われて外せなかった。それほどミレディアは、特別で。



 *****



「立派になってないけど、お腹いっぱいパンを食べるという夢が叶っちまった。次はどうすりゃいいんだ?」

「そんなの、決まっているじゃない。ミレディア様のお役に立つことですよー」


 先輩のハンナが口を出す。彼女は一応ミレディア――お嬢の侍女だ。オレも彼女も、掃除の手は止めない。


「役立たずもいるけどな? お嬢は何でも自分でできちまう」

「役に立ってないって誰のこと? まさか私じゃないでしょうね。リーゼはまず、言葉遣いを直さないと。ミレディア様に相応ふさわしくないとヨルク様が判断されたら、お側にいられなくなるわよ?」

「それは困る。お嬢が隠居したら、ついて行くと約束したんだ」

「ええっ、私だけじゃないの?」

「そんなわけねーだろ。希望者は大勢いるって聞いたぞ」

「うう、じゃあもっと頑張らなければ……」

「オレも頑張る」

「違うでしょ? わ・た・し」

「チッ、直しゃいいんだろ。わたし。どーだっ」

「そんなことで威張いばられても、大したことないんだからね~。まったくもう、リーゼったら変なの」


 ハンナはどうだか知らないけれど、オレは彼女のことも気に入っている。オレをバカにせず、しょうもない話に最後まで付き合ってくれるからだ。


 つくづくこの屋敷のやつらは変わっている。街で拾われたオレを、ミレディアが認めたというだけで、あっさり受け入れてくれたから。次期伯爵だという、彼女ソックリの綺麗な男も怖くはない。ミレディアが寄り添ってくれたし、差し出された手は温かかった。


 ここは、貴族と使用人との間にほとんど距離がなく、食事も同じように同じ物を食べる。寝床はふかふかで、暮らしはまあまあどころかかなり快適だ。それもこれも、全てはお嬢が取り仕切っているため。


「あーんなに何でもできて美人なのに、顔を隠して隠居暮らしがしたいとはね? 一番の変わり者は、やっぱりお嬢だろ」


 彼女が居場所をくれたから。

 オレ……わたし、リーゼはどこまでも、ミレディアについて行こうと思う。

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