ヒューマンドラマ〔文芸〕


「ヒューマンドラマ〔文芸〕を作成しなさい。今すぐここで! 1時間以内に」


 美女は厳しい表情でそう命じた。ぼくの目の前の机には、無地のB5判OA用紙と鉛筆、消しゴムがある。手書きでヒューマンドラマ〔文芸〕を、何の資料も無しに作成しなければならないのだ。


 なぜこういう状況になったのか、ぼくにはまったく記憶がない。気が付いたら目の前にこの、ゴージャスな美女がおり、ぼくはネクタイを締めたスーツ姿で事務用机の前に座っていた。そしてぼくは、ヒューマンドラマなど書いたことが無かった。


 そして何より、ぼくは自分自身が何者なのかを知らなかった。


 これは、人生経験というものを初期化された状態で、どの程度ドラマをでっちあげられるかという実験なのだろうか? ぼくに許された現実は、どことも知れぬこの殺風景なオフィスと机と紙と鉛筆と消しゴムと美女、そして自分しかない。この状態でヒューマンドラマを作れとは、無茶もいいところではないか。


 そんなぼくの胸中を知るはずもない美女は、固そうなヒールの音も高らかにオフィスの出入り口へ歩いていく。一か八かと思ったぼくは、「あの」とその背中に声を掛けた。


「何ですか」

「すみません、失礼かもしれませんが、その、お名前を教えていただけませんか」

「名前?」

「そうです」


 美女は驚いたようにぼくを見つめていたが、やがて「イズカタセツコといいます」と言った。


「すみません、漢字ではどのように」


 彼女は親切に教えてくれた。出方世津子というのだそうである。随分古風な名前だなと思った。


「ありがとうございました」

「いいえ。それよりいいですか? 1時間以内ですよ」


 ドアの閉まる音を背後に聞いて、ぼくはさっそく執筆にとりかかった。


 何を書くかはもう決まっていた。あの、出方世津子さんとの運命的な出会いから、お互いに打ち解け合い、理解し合っていく過程を、心温まる愛の物語に仕立てていった。そうだ。これこそがヒューマンドラマだ! 鉛筆を握るぼくの手には力がこもり、ストーリーが次から次へと湧き出るように紡ぎ出されていく。そして、……ぼくらは遂に結ばれた。


 海の見える教会で、ぼくと世津子は結婚式を挙げた。花吹雪が舞う中でぼくらは教会の階段を下り、オープンカーに乗る。ウェディングドレスのベールに包まれた世津子と、ぼくはキスを交わした。


「この愛は永遠だよ、世津子」


 オフィスのドアが開いた。1時間たったのだ。


「書けましたか」

「はい! 自信作です」


 ぼくは、出方世津子との愛のストーリー、いやヒューマンドラマ〔文芸〕を綴ったOA用紙を机の上でトントンと叩いて揃え、出方さんに差し出した。ぼくたちが結ばれるまでの物語を、彼女は一心不乱に読んでくれた。そして顔を上げた。


「気持ち悪いくらいの、出方世津子への思いが伝わってきました」


 「気持ち悪いくらい」という宣告に、ぼくの心は大変傷付いたのだがぐっとこらえ、「ぼくの愛情を注ぎ込んだつもりです」と、出方さんの顔を見つめながらきっぱりと言った。


「あなたの愛情」

「はい」

「注ぎ込んだのですね?」

「おっしゃる通りです!」


 2、3秒、無表情にぼくの顔を見つめていた世津子さんはくるりと背を向け、ドアの方へ向かう。そしてそのままオフィスの外へ出て行った。


 どうしたんだろう。ぼくが精魂込めた愛のヒューマンドラマ〔文芸〕に感激しすぎて、トイレへ行って人知れず涙しているのだろうか? だとしたら、かえって済まないような気持ちにもなる。


 とにかくぼくは、そのまま待った。やがてドアが開いて、出方さんが戻ってきた。しかし彼女はぼくの顔を見ようともせず、ドアの外に「どうぞ」と声を掛けている。誰かもう一人来るのか?


 ドアの向こうから、80歳をとうに過ぎているような腰の曲がった老婆が杖をつきながら入ってきた。そしてぼくの顔を見て、にんまりと笑った。


 出方さんが老婆の横に立って、ぼくに告げた。


「こちらが、出方世津子さん」

「え……先ほど、あなたが出方世津子さんだと」

「バカをお言い!」


 怒声がオフィスに轟き、ぼくは脳天に雷をくらったような衝撃を味わった。我に返ると、美女は憤怒の形相でぼくを睨みつけている。しかしその顔は美しかった。そうやってずっとぼくを罵倒し続けてくれるなら、どんなに幸せかとも思ったくらいに。


「お前はさっき、『名前を教えて』としか聞かなかっただろう? 『あなたの名前を』とは言わずに! ならば私が誰の名前を告げるかは、完全に私の裁量だろう? まさかお前、この私の名を聞いたつもりだとでも言うのではあるまいな? お前なんぞの分際で? 笑わせるな! とにかく、この人が出方世津子さんだ。81歳で独身。お前の書いたヒューマンドラマ〔文芸〕にいたく感激している。お前は彼女と結婚するのだ!」


 スーツを着た30歳くらいの男がオフィスに飛び込んできた。


「君はこの出方世津子さんと添い遂げるんだ! 彼女と夫婦めおとの契りを交わさなければならない!」


 すかさず美女が「夫婦めおとの契りを!」と唱和する。スーツの男と美女が並んで拍手している。


「おめでとう!」

「おめでとう!」


 老婆が杖をつきながらぼくに近寄ってきた。しわくちゃのシミだらけの顔でにんまりと笑い、よだれを垂らさんばかりに口をだらしなく開けている。


「この年まで生きてきてよかった……。こんな生きのいい、わけぇ男と夫婦になれるんじゃから、ああ、ありがたやありがたや……。可愛がってやるけえのう」


 おわり


(「小説家になろう」で2017年9月9日公開)

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