目出し帽を買った
寒くてたまらぬ。
このクソ寒さは何だ。体は服を重ね着すれば何とかなるが、顔が寒い。冷たい。普通、顔にまで服は着られない(断固たるら抜き言葉反対派の俺は「着れない」などとは殺されても書かない、あ、今書いたのは除く)のは分かる。しかしこの顔の寒さ、冷たさはどうしたらいいのか。
方法は一つしかない。目出し帽を着用することだ。
しかし、目出し帽を着用するということは、世間では「一線を越える」ことを意味しているらしい。いったいどこの誰が、そんな偏見を広めたのかは知らぬが、その偏見のせいで、人々はどれほど顔面が寒くても寒気の中に晒したままの状態を我慢しているようだ。
次善の策として俺は、マスクを着用して外出してみた。
しかし俺は眼鏡をかけているので、マスクを着けるとたちどころに曇る。前が見えぬ。やむなくマスクを外せば寒気が口元を襲う。寒い。
俺は決心した。ひとつ、目出し帽を買ってみるか。
これは冒険だ。俺のような胡散臭い男が、胡散臭い物を買うだけで、否応なしに犯罪の臭いを漂わせてしまう。嫌な世の中ではある。だが、そういう嫌な世の中が最近になって急速に到来したわけではない。世の中とはそういう、本質的に嫌なものなのである。だから常に、男子たる者の行動は男子(だんこ)もとい断固としていなければならぬのである。
俺は近場のスーパーへ行き、衣料品売り場に目出し帽を求めた。ニット帽は数あれど、目出し帽というやつはなかなか見当たらない。やむを得ぬ。あそこに立っている妙齢の、俺好みな女性店員に聞こう。
「すいません、目出し帽はありますか」
女性店員は俺を疑う風もなく、「こちらになります」といって、それまで俺がうろうろしていたニット帽エリアに案内してくれた。確かに、そこに目出し帽はあった。
「これなんか可愛いんじゃないでしょうか」
猫の顔をデザインしたもの、アニメのヒーローを模したものなど、いろいろあった。俺の脳内には、覆面レスラーが着用する目鼻口に穴が開いたタイプのイメージしかなかったのだが、なるほど、これほどバラエティーに富んでいれば不審さも薄れるかもしれない。
しかし俺は、この女子店員が俺好みであればこそ愚問を投げずにはいられないのだ。
「やはり、これを被って外を歩いたら通報されるでしょうか」
「いやー、どうなんでしょうか。お店に入る時は外した方がいいと思います」
「でしょうね。お店や銀行は暖房が入っているから、外しても寒くないはずですね」
「はい」
結局俺は、オーソドックスでこそあれ相当に怪しげな覆面レスラータイプを買った。しかもデザインは、目鼻口の穴をオレンジ色に縁取りしてあるという気合いの入りようである。
俺はさっそく、買ったばかりの目出し帽を着用してスーパーの中を歩いた。店内では外した方がいいという可憐な女子店員の忠告を、俺は無視してしまった。
目出し帽姿のまま、店内に置かれたベンチに腰掛け、自動販売機のコーヒーを飲む。店内で着用していても、この暖かさはこたえられない。しかも口の部分に穴が開いているから飲食をするのに何の支障もない。鼻の頭が若干寒いのが気にはなるが、呼吸する上での支障を考慮すれば受忍せざるを得まい。
しかも、自分の顔を隠していることで生ずるこの安心感はどうだろう。自分の顔。コンプレックスの大いなる源である顔を、世間から、そして自分自身から隠しているというのは何と心が安らぐことか。言うなれば、厳しく冷え込んでいる時に分厚く重ね着をしているような安らぎだ。そう、肉身としての顔面を寒気から保護してくれるだけでなく、実存としての顔面をも「自意識」とか称する形而上的な冷気から守ってくれるのである。特に後者に関してはまったくの想定外だったがゆえに、お得感は半端ではなかった。
ああ……目出し帽を買って、本当によかった。
だが、他者の利益を侵害しない限りで安らぎを貪る権利は、やはり万人には認められていないのだろうか。青いユニフォームを着用した複数の人々が近づいてきた。それも、このスーパーと契約を結んでいる民間会社の従業員ではなく、官公庁の職員である。極めて憂慮すべき事態を招来したのは明らかだった。
「失礼します。ここで何をなさってるんですか」
俺はコーヒーの紙コップを示して、ベンチでひと休みしている旨を説明したが、彼らにそれはどうでもよいことらしかった。さらに「その被り物は何ですか」と聞くので、俺は衣料品売り場を指差し、そこで買ったと説明した。一番年配らしい警官が俺に向かって敬礼した。
「恐れ入りますがご同行願います」
どれほど寒かろうと、顔をこのような被り物で覆うのはリスクが伴っていたようだ。寒気から顔面を保護する、あるいは世知辛い世間の風当たりから恥ずべき自我を保護することには、相応の代償が求められるらしい。俺は、横断歩道の赤信号を無視する程度の軽い気持ちでこの暖かさを貪ったのだが、そんな幸福感を貪れる「隙間(ニッチ)」は思ったほど広くはない、否、広くは「なくなった」のを思い知った。
警察署で俺は調書を取られた。取調室で俺は、目出し帽を買った理由、金額、その金の出どころなどを聴取され、目出し帽とは関係のないことまで延々と調べられた。
「確かに今日は寒かったからねえ。それでつい、目出し帽なんか買おうって思いついちゃったんだ?」
つやつやした髪をオールバックにした四十歳ぐらいの刑事は、俺の顔を見ながらニヤニヤ笑っていた。俺と話をするのを楽しんでいる様子なのがたまらなく憂鬱だった。
「ところで知ってる? 目出し帽のことを『バラクラバ』っていうんだよ」
「はぁ……」
「クリミア半島ってあるでしょ。去年だったか一昨年にウクライナからロシアに併合されたところ。あそこで19世紀に戦争があったの。『クリミア戦争』っていうけど。その戦争のバラクラバっていう戦場でイギリスの兵隊さんが防寒用に被ってから、こういう目出し帽を『バラクラバ』っていうようになったんだよ。バラクラバ。ちょっと言ってみて」
刑事は至極真面目な顔で俺を見ていた。やむを得ず俺は従った。
「ばらくらば」
「そう。なんかさ、修羅場(シュラバ)と土壇場(ドタンバ)と鉄火場(テッカバ)と愁嘆場(シュータンバ)がいっぺんに来たような、もんのすげえ『
「はぁ」
「それだけ古い歴史があるんだから、戦前の日本でも銃後の女がね、千人針っつって、……千人針って知ってる?」
「いえ」
「そう。千人針ってのは、敵の弾丸に当たらないようにってマジナイで、千人に針を通してもらった布地を戦地にいる旦那や恋人に送るんだよ。満州とか北支那みたいな寒いところの兵隊さんには、こういう目出し帽に千人針をやって送ってたんだよ」
「はぁ」
「最後のは作り話だから本気にしないで。でも銀行強盗御用達みたいなイメージはさあ、間違ってると常々私は思ってるんだよ」
「そうですね、間違っていると」
俺が言い終わらぬうちに、刑事は突然「何を偉そうに」と大声を出した。そして鼻で笑った。
「お前さ、37歳にもなってガソリンスタンドのアルバイトで、職歴っていったら全部バイトだろ? そんな人間がよ、よくもまあ、目出し帽被って昼間っからスーパーのベンチでふんぞり返ってたもんだよな? いい世の中だと思うだろ、ええ? もういいよ。帰んな」
灰色の事務机の上には、さっきまで着用していた
一応「失礼します」と頭を下げて取調室を出ようとした時、刑事が言った。
「またよろしくな!」
高くついた目出し帽だった。俺はとぼとぼと家路についた。
目出し帽は捨てる気にもなれず、手に持っていた。寒気が顔だけでなく、身体中に染みた。
おわり
(「小説家になろう」で2017年1月17日公開)
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