第31話 コハル&サクラ・5

 それからレン君の家で働くまで完全に外出禁止になったけど、みんなも分かっているんだろうな、それはわたしにとって意味がないものだって。六年間もほとんどそうしてきたんだから。

 でもそれも今日まで。

「今日からあなたのメイドです!(お好きになさってください!)」

 ……何かちょっと違うな。

「レン君、会いたかったです(ずっと、待っていました!)」

 うわ、恥ずかしい。

 やっぱり、マニュアル通りにしよう。頭の中にあるデータの海を探る。ふわふわした湖の上に浮かんだボートから飛び降りる。雲の壁を抜けて、魚の泡と泳いで、図書室の棚から本を取る。たくさんの数式の霧が竜巻のようにわたしの上に吸い込まれて、光の先の真夏のプールから顔を出した。一瞬の出来事なんだけど。

「この度は数ある中からご購入いただき……」

 姿勢をまっすぐに伸ばして、小鳥を隠すように両手を腰の前に据える。

 丈の長いクラシックメイド服は、エプロンの小さいフリルがくすぐったい気もするしスカートの中がスース―して何か落ち着かない。けれど、これで立派なメイドさんだ。

 よし、完璧だ。と両手を叩くと、ドアがノックされてお姉ちゃんと両親が見送りに来た。

「見送りというのも妙だがな」

 ここに居るんだもんね、と心の声で返すとお姉ちゃんの口元がにやりと歪んだ。

 わたしは知ってる。これ、お姉ちゃんが本当に好きな人にしか見せない笑い方だ。

 桜色のガラスのピアスが、新しくなったカーテンの隙間からの朝日にきらりと光って、あんまり似合っていないなって思ったらとても嬉しくなった。

 きっと心の声も同じなんだ。身体を飾るもので、本心だけど、目立ってしまうものだけど、それで何もかも決まるわけじゃない。お姉ちゃんの心の声が周りに聞こえたとしても、きっとお姉ちゃんを好きな人はずっと好きでいてくれる。

 似合わなくても、間違っていても、そこに物語があるんだ。わたしが迷っただけの小さな冒険みたいに。


「きっと覚えていないぞ」

「うん、でも、思い出してくれるかも(それまでまた、待ってる)」

「とんでもないダメ男の可能性もある」

「あ、そうかも……(ええ、お姉ちゃんの言うことって当たるからなあ……)」

 心配そうにお父さんもお母さんも、失礼のないようにと念を押してくる。大丈夫、何とかなる。


「それじゃあ、行ってきます」

 両親は、ベッドのわたしと『サクラ』のわたしとどっちに声を掛けていいのか相変わらず戸惑っていて、それが可笑しくなってどれくらいぶりかな、病室にちょっと秘密の笑い声が響いて、無機質な病室が小鳥の集まる花畑みたいに見えた。

 ドアを閉めるときにお姉ちゃんが、私も影から忍んで見定めよう、って言ってくれた。本当に秋津お姉ちゃんは心強いな。


 山手の坂道を上って、桜木からの贈り物を踏み鳴らす。緑の生命力を内に秘めた並木からは街の眺めが春風にきらめいて揺れている。まだ少し寒い、のかな。こんなに青空にお日様は暖かく見えるのに。桜が綺麗だな。


 頭に登録した住所は、山手の閑静な別荘地にぽつぽつと並んでいるうちの一つだった。これからのご近所さんに軽く会釈をして進んでいくと、一際と真新しい二階建ての家に辿り着いた。ここがレン君のおうち、ここで働くんだ。

 胸がドキドキする。アンドメイドなのに。

 そのくすぐられるような胸くらいの高さの門扉からちょっと覗いてみた。

 刈り取られた芝生の向こうに大きな窓が見える。カーテンを閉めていないので、少しだけ中が見える。琥珀色のフロアが見えた。そこに真っ白なピアノが浮かんでいて、今日からこの家で暮らせることに胸が弾んだ。

 ちらりと見えた段ボールが気になったけど、とりあえず第一印象が大切、と気を引き締めて用意した台詞を反芻しながら荷物のトランクを置いた。

 呼び鈴を鳴らして姿勢を正す。

 しばらくしても返事がないのでもう一度鳴らしてみた。

 ドタドタと音が聞こえた気がしたけどな、と首を傾げた。このまま待った方がいいのかどうしたものかと、つい身体が揺れてしまう。

 もう一度呼び鈴を鳴らして柵の向こうを見ていると、玄関が開いた。


 ああ、また会えたんだ。思い出の中のレン君だ。

 柔らかい陽光が二人の約束を繋げてくれた気がした。

 あの男の子が、歩いてきている。


 ちゃんと挨拶しなきゃと、もう一度しっかりと背を伸ばして、深くお辞儀をした。

「この度は数ある中からご購入いただき……」

 レン君は覚えていてくれてるのかな。

 わたしを見て気づくのかな。

 今、どんな顔をしているのかな。


 レン君が門扉を開ける音が聞こえて頭を上げた。

 ごく普通の、どこにでもいそうな男子が目の前に居た。わたしに気づいていない感じの表情で、ずっと会えなくて、これからももう少し待つんだろうか。

 でもそれは木漏れ日よりも明くて、きっとこれが、これからが、わたしに与えられた光なんだと思った。


「あなたのアンドメイド、サクラです!」

 わたしたちにはまだ早い桜が風に舞った。

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アンドメイド 繭水ジジ @gigimayu

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