第29話 コハル&サクラ・3
最近は、同じ夢を見なくなった。
起きてる間にやることが増えたからかな。
朝早くにいつもの看護師さんが壊れたカーテンを開けてくる。
変なアラームに眉をしかめて、まだ私が眠そうにしているとこれ見よがしに朝日を浴びさせて、勝ち誇ったような含み笑いをしている。
今までは私の起床のほうが早かったから、何だかちょっとだけ悔しい。
ベッドに伏せていても窓の端に色が見えるような季節になった。もう少しだけベッドを窓に動かせば枝葉が見るんだけど、変だな。
昨日『サクラ』でベッドを窓の方に動かしたはずなのに、元に戻されている。
看護師さんは窓を開けて深呼吸すると、朝の空気をこの鳥かごみたいな病室に取り入れてくれた。そうして窓の縁から私をちらりと見遣って口端を上げられた気がした。
ああ、犯人が分かった。この看護師さんは私が自力で歩くのを促しているんだ。
でも、その期待は私の焦燥感を膨らませる。
看護師さんは、ベッドの傍らに立っている機械人形を、あえて無視するように退室した。
白い扉が閉まったのを見て、私は足を投げ出した。
スリッパを無視して、ひんやりした床に足の裏を付ける。
ただそこまでの数歩の距離、でもそれが今の私の、外の世界なんだ。
我ながら仏壇みたいだなと、両開きのパステルカラーのタンスを開けた。
あまりに機械的な、というかそのものの装置には馴染めなくて、それはタンスに収納してもらった。
頭から顔までを覆う装置と、手袋みたいな装置を身に付ける。何本かの配線を弛ませて、私はベッドに戻って座った。スイッチを押すと耳のすぐ近くに蝿が飛ぶ音が聞こえる。
そして一瞬だけ意識がふわっと離れると、視界が別のものに替わる。
とは言っても、同じ鳥かごの病室なんだけど。
体が軽い。足を動かすだけのイメージで、サクラは歩いた。
正直言えば、この体で自分の、コハルを見るのは不気味にも思う。そして今の今まで座っていたベッドに力なく横たわった姿を抱えて姿勢を整えさせるのも。
シーツを自分へと掛けて、私の方は両手を伸ばした。
軽やかにスキップをするように窓に向かう。
遠くのはぐれた雲が少し速くて、枝葉の擦れる音が耳に集まってくる。
私は目を閉じて、外の世界を感じた。
春風はきっと頬を撫でているんだろう。
若い草や土の香りがするんだろう。
足の裏はひんやり冷たいんだろうな。
今の私には感じないものもあるけれど、それが逆に心地良かったりもした。
このサクラになることは自由だけど、まだ勝手に病室を出ることは許されていない。
歩行のイメージを養うため、という名目でこの体でリハビリをしているけど、考えるだけで歩けるサクラでは歩行訓練に意味がないことは分かっていた。
けれど自分の足で動いているという感覚は、やっぱり気持ちが良かった。
もう元のコハルの体は病院に置いて、このサクラで暮らしていきたいと言ったらみんなに呆れられた。
それは半分冗談だけど、本音でもあった。まあその本音の考えが声に出てしまうから、猶更コハルのリハビリを増やされたけど。
動かない足を動かすのが、どれだけ辛いのかきっと誰も分かってくれてはいない。
少し歩けてもすぐに膝が崩れ落ちて、回復を待っているとまた弱っていくんだ。
このまま一生、これが続くかもしれない恐怖もある。
訓練のための訓練を重ねて、頑張ればもっと歩けるって希望を抱かせて、結局は数歩の世界を行ったり来たり。私の心も閉じこもりそう。
でも今は違う。このサクラの瞬間は、歩ける、走れる。跳ねたりスキップだって出来るようになった。少しイメージから遅れる時もあるけど、この寝たきりのコハルとは違うんだ。
私は、ベッドに横たわった自分を見て、自分が成長したのだと思っていた。
扉のノックがなり、お姉ちゃんだと分かった。
「はい(お姉ちゃん!)」
気配を消すように静かに入って来たお姉ちゃんは真っ先にベッドに目を遣ったけど、すぐに私の方に顔を向けた。
サクラのまま動かずに居たら、ベッドのコハルに声を掛けるんじゃないかと悪戯をしてみたくもあったけど、きっと勘の鋭いお姉ちゃんには通じないんだろうな。それに心の笑い声が聞こえてしまうから。
「丁度いい、少し外を歩かないか?」
思いがけない言葉だった。私は心の声の方が先に出てしまった。
「(うん!)どうしようかな」
にやっとお姉ちゃんに笑われて少し恥ずかしかったけど、お姉ちゃんは私を先導するように廊下を歩いて行く。
私の足も軽やかだけど、お姉ちゃんの足も速い。
病院の中庭には、他よりも大きな樹が木漏れ日を作っていた。
「いい天気だな」
「うん、気持ちいい」
日差しは目に見えてしか感じない、他はふわふわした感覚だけど、やっぱり外は違う。
掌を木漏れ日に当ててみた。
親指の付け根にある円盤状の関節フレームがきらりと陽光を反射させた。
お互いに何も喋らなくて、それが心地良かった。もちろん心の声も出ない。
それくらい緑に、青い空に、体全体を浸していた。
深呼吸してみたけれど、空気を取り入れるような感覚はしなかった。そういえば電気で動いているんだっけ。呼吸も食事も要らないのか。
しばらく経って、お姉ちゃんは戻るぞ、とだけ言った。
この体は完璧な人間じゃないけれど、今も病室に居る私からしたらたくさんの可能性がある。特に何でもない病室に戻って、一層その思いが強くなった。
お姉ちゃんは大抵のように、特に何もすることなく帰って行った。
「次のコハルの帰宅許可はまだ先になるかも知れない」
残念そうに教えてくれたけど、今の私にはそれほど響くものではなかった。この体ならいつでも帰れるわけだから。
何ならコハルの治療中にサクラになっていればいいわけだし。
私はコハルに戻って、パソコンを開いた。
とりあえずは、この家事用アンドメイドとしての採用を待つだけだ。
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