第21話 &千冬ちゃん・3
校舎の玄関で待っていた相手は、良く言えば奥ゆかしそうに、悪く捉えたら誰の仲にも入れずに現れた。期末試験前で部活動がない中の帰宅の込み合いに、一人だけ寒空にぽつりと佇むような千冬ちゃんに声を掛けた。
「えっと、お店さ、一緒に行こうと思って」
千冬ちゃんは怯えたウサギのように全身を強張らせていたけど、黙って頷くと俺の後ろに付いてきた。
正直、頷いたのか顔を伏せただけなのかは分からないけど、少し距離を開けて歩いている。俺が振り返って止まると千冬ちゃんも止まって、歩き出すと後ろを追ってくるので、まあ一緒に帰っているのと同じようなものか。
緑の小波が囁き合う樹々の門をくぐって四つ葉の鐘が背に響く。高いフェンスを枝葉がくすぐって、揃った半袖のまばらな人影に道を分けていった。
ただ俺としても、自分から何か話題を振るのは苦手なので隣りに並ばれて歩いても変に沈黙が続くだけだし、逆にこの距離を保っている分には気楽だという思いもあった。千冬ちゃんは足音すら立てないように静かに歩くので、たまに付いてきているか後ろを見遣ったりカーブミラーや商店街の店のウィンドウに映る小さい姿を目にして確かめた。
明日から試験が終わるまでの間『魔王』のバイトは休みなので、十日ほどお店では会えなくなる。その今日くらいはと帰りに誘ったんだけど、嫌に思っていないだろうか。
引っ込み思案で口下手な部分に、自分を見ているようであって放っておけない。もしも俺が千冬ちゃんだったら、声を掛けてくれる人を待っているんじゃないかと勝手な想像もあった。
「あ、千冬ちゃん、試験勉強はどう?」
数歩ばかり後ろに声を掛けてみた。クラスでよく耳にする挨拶みたいなものだけど、俺にはこれ以上気の利いたことが思いつかない。
千冬ちゃんは少しだけ小走りになってちょっと斜め後ろまで距離を縮めて来ると、コーヒーに角砂糖を落とすくらいの声でもごもごと呟いた。
「……自信ない……」
「そっか、俺もだ、ははっ」
会話が終わった。ああ、サクラならどう会話を繋ぐんだろうか。太陽が嘲笑うかのように雲から顔を出した。金魚でももっと口を動かしているじゃないか。こんな頼りない先輩をこの後輩はどう思っているんだろうか。千冬ちゃんの心の声も聞いてみたいような聞こえない方がいいのか。辛辣な言葉が飛び出しそうでもある。
ドラゴンバスケットとやらの話題なら暴走するほど喋ってくれるんだけど俺の方が全く付いて行けないし、と思いながら、いつものブロック塀に蟹になって入っていく。落ち着いた格調ののれんの掛かる表とは違って勝手口はプレハブのねずみ色のドアがガタガタと悲鳴を上げる。まあ飲食店はこんなものだろうと、最初は千冬ちゃんも驚いていたけど、ドアを閉めるといつもの温かい匂いに包まれた。老年の紳士がコーヒーに眼鏡を曇らせていそうな雰囲気だ。出迎えたのは六つ年上の百合の花のような店主なのだけど。
千冬ちゃんは、甘夏さんとだと割と話せている。声量としては紙をめくる程度だけど常連客からも可愛がられて一生懸命に仕事を覚えようとしている。
甘夏さんも楽しそうに話を弾ませるけど、ただ料理に関しては意外と厳しく指導をしていて今も卵焼きの特訓中だ。いきなり卵焼きから教えるかとも思うけども。
「巻くタイミングがずれてるの。均一な層にならないでしょ?」
「はい……もう一度お願いします」
なんでもカレーに入れようとする口が教えているのは腑に落ちないし、口調が厳しくないかと心配したけど、当の千冬ちゃんはめげずに努力を重ねている。俺が気を揉むことでもないのかもしれない。おかげで最近は卵焼きのまかないが続いていて、家に帰ってからのサクラの色とりどりの料理がなおさらに愛おしく感じていた。
「あ。卵が……もうありません」
「あら、いけない。買って来てくれる?千冬ちゃんと行って教えてあげて。急いでね」
ああ今日も卵焼きかと、エプロンを脱いでお店の財布を手にした。千冬ちゃんもたどたどしく後ろ手をもぞもぞとして焦っている。
「サイズが大きいものね。試験明けには小さいサイズを新調しておくわね」
そう言って甘夏さんは千冬ちゃんに巻き付きついてリボンのように振舞っているエプロンの長い紐を解き始めた。手を招くように小肘を立てて着せ替え人形みたいにされている無垢な姿は何となく嬉しそうにも見えて、俺は財布を手に狭い厨房を少し眺めていた。
お店行きつけの商店街にある小さなスーパーを出て、卵パックの領収書を財布に入れた。レジの店員の印鑑を押されたレシートを初めてみるのか千冬ちゃんは珍しそうにきょとんと遣り取りを見ていた。
商店街の行き交いも賑やかになる時間帯、会社帰りのスーツ姿や小さい子供の手を引く姿が威勢のいい馴染みの声や揚げたてのコロッケの香りへ足を促している。ただの買い物だけではなく街の団欒があった。夕飯を決めて来ていてもこの雰囲気に献立を変えたりもするのだろうか。
こちらのお店の方もぽつぽつと客が覗き始める頃だ。足を『魔王』の路地に向けたとき、活気の向こうに見慣れた姿を見つけた。
もうすっかり毎日と目にしているのに、こうして外で見る姿は新鮮で、だからこそ目が留まったのかもしれない。
そよ風が肩を撫でるツインテール。白磁のティーカップから生まれたような品と幼さの残る背格好。人ごみの中に雲のしっぽの色をした薄手のセーターが一層と映えていて、鮮魚店のおじさんに相変わらず雫が落ちたようにまっすぐなお辞儀をしている。
ここはサクラにとっても馴染みのある商店街で、きっと今の鮮魚店だろう、おまけをくれたとか目利きを褒められたとかをよく嬉しそうに話をしてくれる。今日も帰ったら笑顔が散歩をするような話が楽しみだ。
詰まるところ我が家の今日の晩飯は魚、ということになる。キッチンを覗く前に当てて驚かせてみようか、それとも今日は魚が食べたいと一役買ってみようかと悪戯を考えていて、きっと情けない顔で呆けていた自分に気づいた。そして横に目を遣ると、千冬ちゃんも俺の見詰めていたサクラを同じように見ていた。
「ああ、ごめんごめん、お店に戻らないとね」
「……おねえちゃんだ……」
千冬ちゃんの一言に背筋が凍った。理解が追い付いていないのもあって、それ以上のことを考えるのが恐ろしくなった。
いや、正確には考えないようにしていたのかもしれない。もう少しで思い出せそうなことを、今の幸せを、気持ちを保てるように。
「あ……いえ、違いました」
「千冬ちゃん……?」
「とても似ていたので……ごめんなさい」
サクラはこちらに気づくことなく人波に飲まれていった。
俺はその見えない姿から目が離せずにいた。千冬ちゃんを見るのが怖くもあった。
「ああ、いや、人違い……なんだよね」
「はい。雰囲気が似てたと言うか……」
千冬ちゃんの姉だとしても年頃からすれば妙な話でもない。サクラと千冬ちゃんの雰囲気が似ていているのだから、ああそうかと納得もできる。
でも、サクラはアンドロイドだ。
「きっと、素敵なお姉さんなんだね」
「……はい!」
その返事は澄んでいた。どこからでも遠くから引っ張ってこれるようにまっすぐな思いだった。
「あ、そしたら、千冬ちゃんはウィン太とお姉さんの三人きょうだいなんだ」
「あ、いえ……あたしが……」
お店の裏口、ブロック塀の隙間に二人で蟹歩きをしながら、千冬ちゃんの返事を待つためにドアに辿り着く前のその少し歩みを遅くしてみた。
「あたしが勝手に……呼んでて……」
「お姉さんみたいな人ってこと?」
「はい。昔、小学生の頃に遊んでくれて……」
ああ、話が少し繋がった。千冬ちゃんと仲の良かった女の子が居たって、ウィン太が言っていた。
しかしというか、まだ最近サクラと千冬ちゃんが知り合いになった、という方がすんなり耳を通るんだけど、俺の頭の中は自分も含めてはっきりと形のない過去の思い出だけがうまいこと線を繋げずにいた。まあ今それを考えていても仕方がないとドアノブを捻る。
「きっとお姉さんも、千冬ちゃんを妹みたいに思っているよ」
いつものようにガタガタと鳴るねずみ色に、千冬ちゃんの瞳の蕾が明るく開いていた。
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