第20話 &ウィン太・4

 再開発前の三つ葉市の駅前は、色あせたビルが雨の跡に溶けるようにうなだれていた。

 ここに秘密の場所があるんじゃないかと探検していた。

 誰がいただろうか、俺は空気の一部になったみたいにただ仲間に加わっていた。置いて行かれても誰にも気にされずに、一人ぼっちになった。

 心臓がしぼんでいって、雲が千切れるのを見て、小鳥さえも怖くなった。

 夕暮れの少女に会いたくて駆けまわった。そして見つけた。

「レン君」

 ふわりとした声がどれだけ嬉しかったか。その風がどれだけ拠り所になったか。その桜色の頬はいつまでも続くような居場所だと感じていた。何をして遊んでいたのかも思い出せないけど、いつも時間だけは過ぎていった。

 

 帰り道のうどん屋からの香りに二人で鼻をすすった。

 その日から長い影は二度と重なることはなかった。


 あの時の俺が俺を睨んでいる。なぜ連れて行ったのか、もう会わせてくれないのかと。


 琥珀色に少女が佇んでいた。




 一息ついてカーテンから漏れる日光を疎ましく眺めた。甘夏さんの家族の事故の話を聞いたからだろうか。あの場所も、人が別れるということも考えるようになった。肌掛布団は足元に丸まって、こんなに寝相が悪かったのかと、届かない淡い緑色のカーテンに手を伸ばしてみた。


「レン君、本当にいいんですか?」

「あ、うん。半分くらいでいいよ」

 正直、かなり気が引ける要望だった。だからなかなか言い出せずに張り裂けそうな胃が悲鳴を上げていたのだった。

 サクラは毎日のようにお弁当を作ってくれる。そうでない日は学校が休みか、サクラの動作が止まっている時だけど、このところは調子がいいのか俺が一階に下りる前の早朝からてきぱきと働いていた。本当にサクラには感謝でいっぱいだ。

「そう言うならそうしますけど……(もしかして、他の人に作って貰ってたりして)」

「あ、いや、ほら、参考書を読みながら食べてるから……!」

 勉強をしながら、というのは食べ終わって教室に戻ってから取り組んでいるので半分は事実になるだろう。このところはグラウンドを見渡せるあの古びたベンチで二つ分の弁当を広げていた。今サクラの手元にある空色と、千冬ちゃんの作ってくれる白色の弁当箱だ。

「そうなんですか(え、まさか本当に?)」

「サクラのお弁当はいつも美味しいよ。だからほら、食べ過ぎちゃうっていうか」

「そういうことにしておきます(うわ、嘘が下手だなあ……)」


 これじゃあどっちが心の声が漏れているのか分からないな。

 サクラには気が咎めるけど、毎日のように頬を震わせて差し出される千冬ちゃんの努力も無下にできない。雪枝にとまった四十雀のような後輩の、潤んだ瞳の訴えを断れるわけがない。口下手な囀りも、上手く作れた日にはその潤んだ瞳もどこか爛々としているのが見て取れた。

 張り切ってどんどん量が増えてくる白色の弁当箱の中身に、少食だから、と箱の半分ほどにしてもらっているのだけど。


 サクラはくすっと笑った。

「どっちが心の声がばれちゃうか、分からないですね」

 全くだ。

「サクラのお弁当は本当に美味しいから!」

「そういうことにしておきます」

 サクラは空色の、サクラが俺に選んだ弁当箱を袋に収めると触れるものがみな絹豆腐のように扱う繊細な指先に持ち手を掛けた。


 期末試験の近づきも無関心な木々が、雲が兄弟みたいにこんもりと膨らみを競っている。

 新緑は落ち着いて、結葉もそれぞれに育って腕を伸ばしている。枝葉の陰も明るくて日高の風も暖かい。


 緑の夏風の揺らぎがすっかり校舎を遮っている。青空の落ちそうなグラウンドには試験前ということで部活動の陽に焼ける姿はなく、ボールを蹴る残像だけがあるように静かだった。

「サクラちゃんだっけ、それに甘夏姉さん、秋津先輩」

 ウィン太はわざとらしく指を折って数えている。

 サクラというアンドメイドが家に居ることを教えたのは間違いだったかもしれない。ただ俺がそういう言い方をしなかったからなのか、いわゆる家事用アンドロイドではなくて一人の少女として話をしてくれているのが奴の器の広さというか、仲良くできれば気にならないそうだ。まあそれで同棲生活の中身ををやたらと聞かれるわけだけど。

「お前、意外と女たらしなのな」

「だから、違うって」

「たらせるほど囲まれて何と羨ましい」

 他でもオレが知らないだけでモテているんじゃないかと、やれやれと呆れんばかりに繁々とウィン太は首を振っている。

「お前が言うなよ。それに俺はモテているわけじゃないぞ」

 確かに最近、なぜか女性との付き合いが多い。といってもその数名だけど、今までが皆無と呼べるものだったので理論上は無限大になっている。

 だけど、サクラはうちの家事が仕事なわけだし、甘夏さんはバイト先の店長。俺を弟みたいに面倒を見ている感覚なんだろう。秋津先輩は……理解できない部分があるけど。

 あとはこの、俺を男子の敵だなと、冷めたカレーを見るような、毒にも薬にもならない視線を向けてくるウィン太、の妹は料理が好きだから俺にも弁当を持ってきてくれる。

 みんな特別に俺を好いているわけではないだろうに。


 もう一人、親しいというか、繋がりのあった女の子といえば、過去の面影にある少女だけだ。もちろん今どこで何をしているかも分からない。名前は何と言ったか、もう少しで思い出せそうだ。


「おい、色男。もう一人が来たぜ」

 はっとして少女を見遣った。こんな所にいるわけがないけど、もしかしたら身近にいるんじゃないかと思った。サクラにその面影を思い出したように。


 漆塗りの櫛みたいに整った前髪から覗く瞳は、今日も伏せがちに雪枝のような手で努力の成果を取り出してくれた。陽の光を知らない二の腕が真っ白なベストよりも眩しく伸びて、小さな貝殻みたいな爪に白い弁当箱の下で隠れて指先が触れた。

 俺の方は俵型のおむすびを、きっと数だけの具が詰められているのだろう、斜めにして隙間を作るように軽くしている。頼んだ通りに白い箱の半分の量にしてくれていた。その分ウィン太に渡した方はずっしりとしている。卵焼きなんかは日に日に綺麗な仕上がりになっていて目からの食欲をそそった。

「千冬ちゃんもさ、たまには一緒にどう?」

「……今日はちょっと、上手く出来なかったかも……」

「いや、それでも作ってくれて嬉しいよ」

「……また……」

 千冬ちゃんはクレリックシャツのリボンに手を遣って何かを言おうとしていたけど、やっぱり自分の声も言い終わる前に駆け去ってしまった。小走りに一拍遅れてスカート跳ねて新しい光沢を散らしていた。

 千冬ちゃんは自分のペースで頑張っている。弁当もそうだし、勇気を出して飛び込んだバイトも頑張っている。俺の出来ることは、少しずつ外の世界に合わせた声を掛けるくらいのことだろう。

「まあ……言い続けてたらまた一緒に食べてくれるかな」

「お前が自覚のない女たらしということが分かった」

 一体何のことだと聞いても、ウィン太は一心不乱に妹の弁当にがっついている。

「千冬が頑張る理由でいてくれ」

 妹を思う兄の一言が人影のないグラウンドを見詰めていた。

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