第19話 &秋津先輩・2

 広縁を通り本堂を抜けて渡り廊下の先にはもう一つの離れがあった。何というのだろうか豪華な内陣を通る時にはやはりと言うべきか何となく一礼するよう身体が動いた。

「行事の準備や勉強会をする所だ」

 離れはひっそりと幽玄さを醸していて、そう広くはないだろうに深く畳の軋みが響く。どことなく幼い頃に探検した秘密の廃墟の恐怖と好奇心を思わせた。

 白砂利を見遣れる濡れ縁は、どんよりとした絶え間ない音と瓦を伝う雨粒が遠近のコントラストを奏でている。秋津先輩はそうして何も言うことなく座禅を組んだ。後ろ姿からは肩や二の腕などのつくべき所のみに絞られた筋肉が山々からの小川のような流れを描いて姿勢を正している。どんな数学者ならこの曲線美を描けるのだろうか。俺も一人分ほど開けて並ぶと真似をして薄暗い天気の声に耳を傾けた。


「こちらを見るな」

 瞼の裏から見抜いたように、いや実際にそうなのかもしれない。ちらっと秋津先輩の様子を伺った俺を叱る。返事をするように床板の切れ目をぎちりと鳴らして居ずまいを正すと、湿った匂いの先を見詰めて景色を焼き付けるように瞼を沈めた。


 雲の音に胸を掴まれる。

 鼻から吹いた息にさっきの味噌の香りがした。

 全てを吐ききるように、考えを吐き出すように、体中の色を吐き出した。

 はつはつと穿った石に溜まる水滴が意識の色を消していく。


 間の前の景色は今も変わらないのだろうか。

 この鳴り続く雨はまだ降っているのだろうか。

 冷えた風が身体をすり抜けて、自分をここに居ないものへと変える。

 感じるものが滴る雨を繋いで炳を越え街へと海へと伝わっていく。

 この意識はどこにあるのだろうか。

 意識はどこかへ飛んで行けるものなんだろうか。


「止んだか」

 秋津先輩の声にはっとした。小鳥が鳴いている。


「止もうが止むまいがどうとしたことでもないが」

「そういうものですかね」

「雨が止むと良いことがある」

「禅問答ですか……俺は濡れずに帰れます」

「その通りだな。だからどうとしたことでもない」


 秋津先輩のご両親に玄関まで見送られて、濡れたアスファルトを鳴らした。曇りの隙間からのぼやけた陽光が道をぬらりと照らしている。

 昔、同じような光景があったなと雨上がりの土の匂いが懐かしさを呼んできた。

 小学生の頃に公園で遊んでいたら雨に降られて遊具の中に逃げ込んだ。一人ぼっちになったようで寂しかった。でも一人じゃなかった。

 ああ、あの時、あの女の子がいたんだ。

 二人で雷を怖がって身を潜めていた。

 名前は何だったか、それから一緒に遊ぶようになったんだ。


 何かを洗い流した水溜りが枝葉の滴りを招いている。虹はどこに見えるだろうか。街の屋根はどれも光り、黄金色の雲がまだ重たそうに動いている。そして隣りを歩く秋津先輩。

「……何で付いてくるんですか」

「たまたま同じ所に向かうんだろう」

「俺はここの商店街に行きますけど」

「うむ、偶然だ。私も買い物をしよう」

 掛かった。俺はそんな用事などない。

「ああ、俺バイトでした。それじゃあここで」

 まだ時間には早いけど、お店のバイトがあることは事実だ。残念そうに笑顔を作って早歩きで『小料理屋・魔王』へと向かう幾つか先の横道へ向かう。その腕を掴む秋津先輩。

「今日は何時に帰るんだ?」

「何時って、お店次第ですよ」

「遊んで帰る、ということはないだろうが、余り遅くならないようにな」

 俺の帰りを気に掛ける。バイト帰りに寄り道をしたことはないけど、なぜ秋津先輩に言われなければならないんだろうか。家で待っているサクラじゃあるまいし、過保護じゃないのか。何の心配をされているのか分からず、がっしりと掴まれた腕の遣り場にも戸惑った。

「お前は本当に鈍感だな」

 耳に添えて叱りつけるような秋津先輩の声が胸に突き刺さった。俺が何か怒られるようなことをしたか。それとも甘夏さんみたいに、女性に慣れない俺をからかっているのか。秋津先輩に借りて纏っている服が、俺が所有物にされている証のように肌に触る。

 くっきりとした秋津先輩の女豹のような瞳に溜め息のつく睫毛が虚ろに下ろされた。いつでも鮮烈に物を言うこの人は、今なにを言いたいんだろうか。確かにおれは鈍感かもしれないけど、そう思うならばもう少し説明をくれてもいいんじゃないのか。

 秋津先輩の腕を掴む力が抜けていき、するりとした手がしなって落ちた先の袖を掴んでいる。いつもの力強い握り方ではなく、指先できつく摘まむように、引き寄せるように。


 その女豹の瞳のすぐ後ろに、白椿の立つ姿があった。

 甘夏さんだ。

 こんなに正面に近くまで来ているのに気がつかなかった。それだけ秘境の奥地で極彩色の鳥に見入ったように、秋津先輩の野性的な振る舞いに気を取られていたか。何かぼとりと落ちた音が頭の中で鳴った。

 思わず握られた袖を振り払って、どこに遣ろうかと探して腰に当てた。なぜその褐色の手は白く震えているのか。

「こんにちは、レン君」

「あ、こんにちは。甘夏さん……」

 初めて会った時から気さくな甘夏さんと、こんにちは、なんて律儀な挨拶を交わしたことがあっただろうか。薄いワイングラスを逆さまにして銀のスプーンで鐘にしたような甘夏さんの作る微笑みが頭の中でどこまでも鳴り響く。さっきの座禅で得た静けさの反動のように釣鐘が胸を打ち続ける。俺は何もやましいことはしていないはずなのに。

 秋津先輩は詰まらなさそうに振り返ると、丁寧に手を揃えてお辞儀をした。

「こんにちは。四つ葉高校の三年生の者です」

「レン君の先輩ね。私は、雇い主……になるのかな?」

 甘夏さんが細めた目で俺を見ている、のか見ていないのか、上手く目線が合わない。

「仲がいいのは結構だけど、ここじゃ人目につかないかしら?」

「レンと誰が付き合おうがレンの問題では?」

「そうね」

「そうだ」

 細やかな一礼とは裏腹に、秋津先輩は檄を飛ばすように言葉を投げつける。甘夏さんも年上の余裕を放つように薄い笑みを崩さないが、目が座っている。花びらをぶちぶちとむしり合う音が聞こえた。

「まあ、レン君の決めることよね」

「そうだな、レンの決めることだ」

 二人の視線は弦が切れそうにきりきりと俺の背骨を締め付けてくる。ああ、逃げたい。家に帰りたい。帰ってサクラの居るふんわりとした空気に身を沈めて落ち着きたい。我が家が懐かしくも思ってきた。今日の一日は長すぎる。

「えっと、とりあえずバイトの時間、ですよね……」

 甘夏さんは髪を揺らして商店街の通りに目を遣っている。正確にはどこに視線を定めているのかはっきりしないけど、カワセミが湖面を狙っているようにも見えた。肘を擦りながらもう一度、長い嘴のような髪をしならせて手提げ袋に負けそうな細い手首を見遣ると、糸を編んだような鎖の腕時計が爽快な青色に煌めいた。アセロラの色に引いた唇を秋津先輩に向けると昇り雲のように真っ白なシャツを波打たせた。

「それじゃあ秋津先輩、服は後日、取りに行きますから」

 追いかけた甘夏さんはこちらを見ることなく、服。と呟いた。

「またいつでも来い。一家大歓迎だ」

 秋津先輩を背に甘夏さんに駆け寄ると、無言の歩みにミュールの音が鳴る。俺はやたらと軽いランニングシューズに歩かされるつま先に転びそうになった。

「荷物、持ちましょうか?」

 甘夏さんの手提げ袋はそのまま擦れた音をお店の裏口までかさかさと続けた。


 がちゃりと鍵を捻る音がやけに重く聞こえた。プレハブのようなドアが閉められるとねずみ色の板版が細かく震えて落ち着いた。いつもの温和な香りと人の居ないお店の静寂さが鼻の膜を溶かす。

「あの子、どこかで見たことあるのよね」

 甘夏さんは顎先に人差し指を当てて、雨上がりを待つように考えを巡らせている。

 どこかで、とは多分ドラゴンバスケットとやらの未来の日本代表だからそれなりに有名なんだろうか。そう教えようとしたけど、甘夏さんのその無防備な表情に純白のユリを携えた少女みたいな、歳を巻き戻したような可愛らしさがあって、胸から跳ねた吐息に声を忘れてしまっていた。

「えっと、秋津先輩はドラバスの選手で……」

「うん、知ってる。私も四つ葉高校のドラバス部だったもの」

「そうだったですか」

「ほら、事故の後で転校したから辞めちゃったけど。だから彼女は後輩になるのよね」

 甘夏さんも、あの意味不明な競技をやっていたのか。言われて見れば甘夏さんも痩せてはいるけど部分部分は引き締まった身体をしている。あのスポーツがそうさせるのか。

「あ、後輩と言えばね……どこ見てるの?」

「あ、いえ、ごめんなさい」

「この前、千冬ちゃん。一人で来たのよ」

「千冬ちゃんが?」

 意外というか、この間お店に招待してから気に入ったのか。なんだか嬉しいな、料理を勉強してるとも言うから参考になるんだろう。甘夏さんも気に掛けていた千冬ちゃんの方から来てくれたなら大歓迎という以外に言葉はない。

「ここで働かせてくださいって、ものすごく緊張しながらね」

 目の前に思い出すように甘夏さんは温かく笑う。

 緊張しながらの千冬ちゃんの様子が俺の目にも浮かんだ。俺と同じで、いやそれ以上かもしれない、人と話すのが不得意なのに、きっと震えながら顔を真っ赤に潰しながらここに来たんだろうな。

「そんなに固まらないでって言ったけど、あんなに一生懸命に伝えようとしてるから。むしろこっちからお願いって。親御さんの許可があればって伝えたの。早ければ来週からでも」

「千冬ちゃんがやりたいって言うなら、それが一番だと思いますよ」

「接客は、ね、徐々にだと思うけど厨房の方を教えてあげてくれないかな」

「はい、もちろんです」

 俺も接客は慣れるまで時間が掛かったし、今でも苦手と言えばそうだけど。最初は注文を取るのもあたふたして頭が真っ白になった記憶がある。常連さんと甘夏さんのおかげで少しずつ覚えたんだよな。

 その甘夏さんはいつもの穏やかな波間を眺めるような顔に戻っていて、ほっと胸やら腕やらにを絡みついていた気が抜けた。

 ハイビスカスのシュシュに髪を結い直してさらさらと毛先が躍る。ほっそりとしたロウソクのような指を後ろ手に『魔王』のエプロンを結ぶと真昼の月のように柔らかい微笑みを漏らした。

「レン君が居るから働きたいのかしらね」

「はは、いやいや、まさか」

「それで、秋津さんとはどういう関係なの?」

 小悪魔の笑みも戻ったようだ。

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