第18話 &秋津先輩・1
サクラが瓶を手に動きを止めた。ソファーの背からそれが分かるのは、本職である家事をやっている時のサクラは頻繁に心の声で、またゴミが落ちてるとか上手く焼けたとか次の段取りを漏らしているからだ。そして実際に口に出すひとり言も多いので、たまに俺に話しかけているのか分からなくなる時もある。それが突然静かになると、動作が停止したのかと思うようになっていた。
アンドメイドってこんなに感情豊かなのかと不思議に思いながら、その基本となるハイパーAIの参考書をテーブルに置いて、サクラをソファーへ運ぶ。
カステラみたいなキッチン台は、サクラがすっかり行きつけになった商店街で買ってきたハーブティーの茶葉の香りが漏れている。開けっ放しの瓶は、どうしたのかと持ち主を眺めているようでもあった。何度目だろうか、サクラを抱きかかえるのは。さらりとしたクラシックメイド服の感触にはもう慣れたけど、その下の、サクラの肢体の重みはいつも柔らかい匂いがする。カモミールよりも優しく、たっぷりの砂糖をまぶした甘い匂いに心臓が引き締まったスプリングみたいになる。
羽毛に手を当てるようにブランケットを掛けると、いちいち運ばなくてもいいんですよ。と困った声が耳に浮かんだ。目を覚ますといつも申し訳なさそうに謝ってくるけど心の声では、何か変なことされたんじゃ……と衣服を確かめている。どうしようと繰り返し困惑する響きに苦笑するしかない。
またそうなるんだろうなと、動いていなくてもここに居るという安心感に腹が鳴った。サクラの居場所でもあるこの家に、人が居なくなったことを表すように寂しく腹の虫が響いた。たまには昼の外食でもするか。
山手の坂道を下っていく。傘を持ってくればよかったか、灰色の陰が並木が震えている。茂った隙間からの街の眺めも色を落として、海の向こうからは湿った雲の音がする。
この坂を下りたら適当な店に入ろうと早足でいると、何やら縦に動いている姿が見えた。
その威圧感に足が止まる。何だ、勝手に膝が震える。まるで蛇に睨まれた蛙になった気分だ。そしてあのカラメルみたいな褐色の肌、嵐の波のようにうねって跳ねる髪の先、見覚えのある屈伸運動。
彼女だ。猛獣のようなあの秋津先輩の姿だ。
アキレス腱を伸ばす獣王に反射的に踵を返した。この距離なら逃げ切れるのではないか。
生存の一歩を踏み出すと、肩に猛禽の爪が掛かった。
「少年」
「ひっ」
そんな馬鹿な。この距離を一瞬で走って来たのか。錆びたブリキ人形のように恐る恐る振り返ると、口の端をにやっと上げた女豹、秋津先輩の覗き込む顔がすぐそばにあった。そして雷雲から稲妻が落ちた。
「どこへお出掛けだ?」
「いや、飯でも食いに……」
食われるのは俺の方なのかと命の灯火が消えかか吐息を感じた。秋津先輩は牙の隙間から本能を漏らすように野生の笑みを浮かべている。
「何を食おうか」
そのまま肩に強靭なワイヤーみたいな腕を回されて連行される。片方の手では俺の袖をがっしりと掴み、決して離さない意思が見える。
「い、一体どこへ……」
「傘でも持ってくればよかったな」
この人の口にする単語は武器のように聞こえるのは気のせいだろうか。ぽつりぽつりと頬に落ちる粒はすぐに轟音の雨を呼んだ。
「遅い。置いて行くぞ」
「是非、置いて行ってください……」
首に腕を巻き付かれたまま秋津先輩の駆け出しに引っ張られていく。おまけに何の罰なのか背中には容赦なく季節の大雨が叩きつけてくる。いつもの無地のシャツはべったりと肌に張り付きジーンズも水を吸って重くなっている。秋津先輩もまた、俺の目の前の、Tシャツが雨に透けて背中の空いたタンクトップを露わにしている。鼻に少しばかりの汗の匂いと白檀の落ち着く香りが触れていた。
立派な門構えの軒先に立ち止まり雨を凌ぐ。瓦に打ち付ける雨音が柱に伝わって一色の梅雨景色を浮かべていた。
「ここで雨宿りしましょうか……」
首根っこを押さえこまれたまま力なく言うと冷えた体にくしゃみが出た。側溝の水流は秋津先輩の髪のようにうねりながらじゃぶじゃぶと波を放っている。
「それも構わないがせっかくだ。中に入ろう」
秋津先輩は俺の腕をがっちりと捕らえて、開いた門扉を構うことなく敷地へ足を進めていく。勝手に入っていくのかと振り返ってみると、今いた軒先は山門、つまりここはお寺だった。空間そのものが街の喧騒と一線を画した庭の雰囲気に心なしか身が引き締まる。玄妙、というのか。白砂利がざくざくと四つの足音を鳴らして、本堂を横目に松の木や盆栽の間を抜けていく。行きついた先は離れの玄関だった。お寺の割にはというか、意外と普通の民家だ。
秋津先輩は門扉を閉めて雨音を締めだすと、ようやく俺から離れて当たり前のように靴を脱いで上がっていく。見知らぬ者を眺めるような知らない家庭の匂いが鼻周りを覆ってくる。
「よく来たな少年。入っていいぞ」
強制的に連れてこられたんだけど、とぼやきながらびっしょり濡れたスニーカーを脱いだ。秋津先輩はタオルを手渡してくれた。
俺は一体何をしているのかと、部屋のドアを眺めている。中では秋津先輩が着替えていて、知らない家の廊下に一人取り残されていた。居間からは家族だろうか、談笑の声が聞こえる。その廊下の反対側はひっそりと、もう一つ部屋があるようだ。
「そっちは妹の部屋だ」
ドアを隔てて見ていたかのように服を換えた秋津先輩が出てきた。そういえば妹がいるという話を聞いたことがあったか。俺の分の着替えを手渡されて部屋に腕を引かれた。
「……着替えさせてください」
「着替えるといい」
秋津先輩が腕を組んでまじまじと俺を見詰めている。元々こういう顔なんだろうけど、動物に芸の覚えを試している猛獣使いのようだ。仕方なくびっしょり濡れた服を脱いで吐き出し窓から水を搾った。下着はどうしようかと、搾れる所だけの抵抗をした。渡された服はさらりと体に馴染む。秋津先輩の服なのかと、男同士だったらどうとも思わない感覚に体を包んだ。ひょっとして面倒見はいいのじゃないかと周りをちらりと見遣ると、かなりシンプルでいて片付いていてベッドの脇の豹柄のタオルが目立っていた。誇らしげに掛けられている後輩からの気持ちの他には特徴のない部屋の中で、化粧台が置いてあることに妙な色気を感じた。
「冷蔵庫のものを適当に使ってくれ」
「はい?」
「うちの者に好き嫌いはない」
「説明をしてください……」
自室で腕を組んでそびえる秋津先輩には順序という概念があるのだろうか。説明が要るのか、と呟いて颯爽と父親と母親のいる居間の傍らの台所へ向かった。
「これが冷蔵庫だ」
「……でしょうね」
見れば分かるけど、俺に何か料理を作れと言っているのか。というかご両親はどう思っているんだと隣の居間に目を移すと、すでに家族三人の団欒があった。両親どちらも俺と目が合うとにこっと笑って、檀家さんから貰った調味料も使ってくれ、と言い家族の時間に戻っている。秋津先輩の家族は秋津先輩の家族なのか。もうどうにでもなれと、大根を手に取った。
檀家さんからの貰い物は纏めた新聞紙の横に置いてあってありのままの生活感を醸し出している。ビニール袋にどっしりと収めた手作りの味噌の味を確かめた。少し粒が残り仄かに甘みがあって出来立てなのか生の香りが強い。冷蔵庫に入れた方がいいなとその中もチェックして幾つかの材料を取り出す。上等そうな本みりんもあるじゃないか。天ぷらにしようとした鱚は煮つけだなと、昆布を水に浸ける。大根を輪切りに面取りと隠し包丁を入れ、米を少々拝借して下茹でした。見知らぬ台所が温かく湯気を立てて歓迎してくれる。炊飯器には前日の残りの白米、これは強敵だ。ニンジンを細切りと乱切りにする。ささがきにしたごぼうを水から出して湯にくぐらせる。手間は掛けても時間は掛けない、それが『魔王』の厨房で覚えたことだ。隣りのフライパンには捌いて水気を除き甘辛く煮付ける鱚がぽつぽつと香りを立て始めた。鶏肉を炒めて醤油ベースに、細切りのニンジンとゴボウを煮て油揚げも加える。おっと生シイタケを忘れるところだった。これにご飯を混ぜ合わせて炊飯器に戻して保温すると炊き込まない炊き込みご飯だ。昆布と鰹の出汁に残りのニンジンと下茹でした大根を入れる。解凍したタコも加えて溶いた味噌で味を見ながら煮立たせる。最後に火を止めてオクラとインゲンを添えて蓋をする。別にした出汁はお吸い物用だ。具は豆腐とシイタケと蒲鉾。それにミツバを乗せて完成だ。
知らない家庭での不思議な昼食に俺以外は満足のようだ。料理の出来はまあまあという具合だったけど、これならいつでもうちに歓迎だ、と秋津先輩の両親は上機嫌で、秋津先輩はそれに何度も頷いている。俺をこの家で飼うつもりだろうか。そういえば妹さんは出掛けているのだろうか。
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