第17話 &甘夏さん・3
「よっ、遊びに来たぜ」
「お邪魔します……」
がらがらと軽快に戸口が開かれウィン太が顔を入れ込む。その陰に隠れて千冬ちゃんものれんをくぐる、というか座敷童の後輩はのれんまで頭が届かないていなかった。
「いらっしゃい、待ってたわよ」
奥で引っ込んでいた甘夏さんも、明るい声を嗅ぎつけて厨房から姿を現す。
「レン君がお友達を連れてくるなんてね」
「いやあ、持つべきものは小料理屋の友ですよ。な?」
馴染みの客のように調子のいいウィン太は、学校以外の人づき合いもこなせるのかと、改めて感心した。真逆に、カウンターの下の手をもじもじさせている千冬ちゃんにメニュー表を渡した。その手すら初めての店で緊張しているのか、砂の城にでも触れるようにたどたどしく俺の方に指を伸ばす。
指に梅の蕾のような感触がして、千冬ちゃんはメニュー表を素早く奪いあげた。それに隠れるように思い切り顔を近づけると、藁人形の手足のように綺麗に切り揃えた前髪との隙間に目が現れて、俺と目が合うと再び引っ込んだ。そんなに腹が減っているのか。それともメニューが気になるのか。ああ、そういえば、料理を教えるって約束をしていたな。やっぱりメニューが気になるのか。
千冬ちゃんは時間をかけてゆっくり距離を縮めていこうと、この相変わらず紅潮した後輩に過去の自分を重ねた。
サクラとなら、仲良くなれそうな気がする。俺も最初は緊張していたけど気持ちはすぐに解れた。サクラにはそういう雰囲気があるんだ。
そしてサクラに対してもだけど、千冬ちゃんに対しても少し、幼い日に別れた少女を浮かべて見ているのかもしれないと気付いた。子どもじゃない今だったら出来ることがある。だから何かをしてあげたい、と。
あの時とは違う。手を差し伸べれば届くんだ。
「困ったな……」
「ん?」
サクラのことばかり考えている。と、隣りの甘夏さんに言えるわけもない。言ってしまったことに、他に何か困ったことがないか探してみる。強いていうならば、甘夏さんの距離がやけに近いことか。いつものことではあるけど、呼ぶときにわざわざ袖を引っ張ったり、調理中にずっと見られている気もしてたびたび落ち着かなくなる。本当に、女子への耐性がないのでやめて欲しい。まあ、嬉しくないといえば嘘にはなるけど、目のやり場に困るときが多々ある。
他に俺が困っていることはないものか、言葉を繋げるパズルを解いていく。
「ああ、あれだ。ミツバがありません」
「あ、そうだったわね。連休前に使い切ったから」
連休はお店を休むということで、その前日は食材のばら撒きでお祭り騒ぎだった。ストックの効かない野菜を中心に、とにかくカレーに入れたら何とかなると言い出す甘夏さんと、値下げして薄利多売で消化するという俺とで意見がぶつかった。
あれが初めてのことじゃないだろうか。甘夏さんと喧嘩みたいになったのは。
結局は、中間にしなさいという常連客の提案に丸め込まれて、謎の塊の浮いたカレーを安価で客に強制的に配るという泥沼の惨劇になったけど、それはそれでお店には活気があった。
それからか。甘夏さんは、前よりも俺にぐっと体を寄せるようになった。
「喧嘩になったわよね」
「笑いごとじゃなかったですよ」
「うん、でもね、嬉しかった。誰かと言い合うなんて久し振りだったから」
甘夏さんは流し台にもたれて、結った髪をしなやかに振った。風もなく笹葉が揺れ、アヤメの花が肢体を支えているようだった。
「弟と喧嘩、よくしてたからね」
弟さんがいたのか、初耳だった。そういえば甘夏さんについても知らないことが多い。家族のこともあまり話さないので、俺も話題にしない方がいいのかとも気を付けていた。
「それよりも、何がないの?」
「あ、ミツバです。カツ丼に添える」
カツ丼にミツバは欠かせない。このままだと千冬ちゃんのキツネ丼は作れても、ウィン太の注文したカツ丼が作れない。ミツバのないカツ丼なんて寺のない京都だ。そして目隠しで観光旅行をするようなものだ。腹を空かせてきたウィン太もがっかりするだろう。
「今回は入れなくていいんじゃないの?」
そんな馬鹿な、ミツバはカツ丼の花だ。俺にミツバのないカツ丼を親友へ与えろと言うのか。ここは断固、抗議しよう。
「ミツバは花ですよ」
「ミツバは草でしょ。代わりにネギで良くない?」
「何ということを……!」
何ということを言うんだ。これで料理屋だから本気で心配になる。
くすっと甘夏さんが微笑んだ。小悪魔の笑みではなくて、一人の女性のものだった。
「何か、楽しいわね」
「そう、ですか?」
そうなのか。言い合いをすることが楽しいと思うものなのだろうか。そういう目で考えたことがなかった。俺は出来るだけ他人とぶつからないように、意見を合わせるように意識していたから良く分からない感覚だ。
喧嘩をしたいなら、その弟さんとすればいいんじゃないだろうか。俺は甘夏さんの弟じゃないし。弟の代わりなんて……あれ、俺は弟のように思われていたのか。
他にきょうだいはいるのだろうか、この機会に聞いてみようと口を開きかけた瞬間、甘夏さんが何か、虚ろなものを見ていることに気づいた。同じだ。触れたいものに触れることが出来ない。居なくなったものに自分の心まで失ってしまう。聞こえるはずのない甘夏さんの、空っぽの心臓の音が聞こえた。
「じゃあ、決まりね……どうかした?」
「あ、いえ、はい」
「ネギも草なんだから同じよね」
しまった。ミツバ王国はネギ王国に敗れてしまった。上機嫌に二つの丼を運ぶ甘夏さんに、カウンターの兄妹は鼻を躍らせた。すまないウィン太。
意気揚々にウィン太はネギにもお構いなしにカツ丼を平らげた。肉と米以外には気づいてもいなかった。俺の気苦労は何だったんだ。隣りの千冬ちゃんが、油揚げを口を窄ませて味わいながら頬張っていたのが天使のように見えた。
帰る時も賑やかな友人と、こちらにちょこんと頭を下げて、届かないのれんを恨めし気に見遣る後輩とを送り出すと本格的に客足は増えていき、そんな中に甘夏さんの気まぐれが始まった。
「もう閉めましょうか」
「冗談でしょう?」
店の主は黙ってのれんを外しだした。躍るような手つきで古びたレジスターをチンと鳴らす。常連客なら知っている、今日はおしまい、という意味だ。まあ場合によっては、もう帰れ、と聞こえるわけだけど今回はどっちなのか俺にも分かりあぐねていた。
最後の客が丼の残りをせっせとかき込んでいる姿に申し訳なく会計を済ますと、甘夏さんがカウンター越しに手招きをする。片方の手にはすでにグラスが始まっていた。
「閉めないと、ゆっくり話せないでしょ?」
「は、俺と?」
半分は冗談のつもりだったけど、本当に俺と話をするために店を閉めたのか。
身に覚えは……期末試験中の休みのことだろうか。甘夏さんは氷を揺らして身体までぬるそうにきつね色のカウンターに胴を垂れている。白波を立てて肘をついたシャツの皺がエプロンの胸元から糸のようなネックレスをきらりと覗かせる。長袖の薄いボタンシャツは二人だけのための照明に肌をうっすらと写していた。
「あ、えっと、マドラー持ってきますね」
俺を指先で座らせるような合図で、もう一度氷を震わせた。
「あの子、千冬ちゃん」
「はい」
「うちで雇おうかなって」
「はい?」
またいきなり思い付きを。意図が読めない。本人の意思も置いてけぼりに。
「妹みたいで可愛いじゃない。妹がいないからそう思うのかしら」
「まあ……千冬ちゃんは確かにそうですね。甘夏さんには弟さんがいるじゃないですか」
ああ、聞いてはいけなかったのかと、甘夏さんが睫毛を据えてしっとりとグラスに唇に付ける時間の流れに受け取れた。
甘夏さんは、家族のことを話さないから気を付けてはいたんだけど、やはりそうなのか。立ち上がってこちらに背を向けた。
「あ……すみません……」
カウンターの奥、そんな所に棚があったのかという袂から、一枚のクリアファイルが出てきた。ずっとそこにあったのだろうか、古くも新しくも照明に懐かしく当てられて見えた。
「六年前ね、私がレン君と同じ高校二年生だった頃」
切り抜いた新聞記事の『交通事故』の文字が印象強く目に留まった。
「五月の連休に家族で遊びに行っていたのよ。私は祖父母の実家にいた」
記事の内容は、身近な人が、しかも目の前の女性が関係するなら目を覆いたくなる出来事だった。企業の配送車によるかなりの大きい事故で、複数人が亡くなった経緯を、ただ感情のない文章が伝えていた。『連休中の悲劇』と。
鼻の奥が熱くなって、目頭がそれ以上を読まないように抵抗した。
甘夏さんのその時の感情、それからの心情、そして今の気持ちは、きっと俺なんかが推し量れるものじゃない。それはもし甘夏さんの、心の声が聞けたとしてもだ。一体どれだけの悲痛なのか。
「それから三つ葉市駅は再開発されたのよね、事故を塗り消すみたいに」
「あの、じゃあ、このお店って……」
「両親がやっていたから潰れていたんだけど、しばらくして私が引き継いだの」
常連客がこの店に、甘夏さんに温かい目で通っている理由が分かった。
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