第14話 &千冬ちゃん・1
天気予報以上に行楽日和というのか、うらうらとした青空が頭の上を駆け抜けていく。
競り上がる常緑樹をはるかに凌ぐ巨大なドームの屋根は、卵の殻を冠したようにそびえ建っていて、沸き立つ雲を跳ねのけるその様は今日の試合に臨む選手たちの意気込みを示しているようだった。
三つ葉市の駅、大型の商業施設を通り過ぎてバスに乗り込むとすぐに、このドームを中心にした競技場がある。
「何とか間に合ったな」
駅で待ちぼうけを受けた相手、ウィン太に冷ややかな目線を送った。兄の隣りに隠れるようにしている千冬ちゃんは図書室でページを捲るような小さい声で挨拶を口にしてからはウィン太曰く座敷童のような、まっすぐ切り揃えた前髪に顔を伏せている。
「千冬がな、お前も来るっていうから準備に時間が掛かってな」
一瞬ばかり千冬ちゃんがウィン太の陰に完全に見えなくなった。そして何だ、物凄い音が聞こえたぞ。西部劇の木樽がダンプカーに轢かれたような、拳が肋骨にめり込むような。まさか千冬ちゃんが何かしたのか。いや、こんなか細い少女にそんな力は出せないだろう。俺の気のせいか。
「ウィン太、何してるんだよ。行くぞ」
「う、お、おう……げほっ」
ドーム状の体育館の前には、応援幕を抱えた集団やカメラクルーの姿もいくつか見える。海外からの取材陣もいるようだ。そしてちらほらと俺たちが応援に来た目的、秋津先輩の名前を耳にする。どの声も活躍を期待した、あるいは憧れや羨望の溜め息だった。そして長距離バスから降りてきた他校のチームを見るとみな逞しく鍛え上げられた筋肉をしていて、この競技の激しさを感じる。
ドラゴンバスケット。俺が知らないだけで、そんなスポーツがあったなんて。一体どんな熾烈な戦いを繰り広げるのだろうか。
そしてその近い未来の日本代表として有名な猛獣、ではなく秋津先輩。
女豹のような彼女がなぜ俺を獲物を弄ぶように俺にかまってくるのか。なぜ肉食獣の目を俺に遣るのかの理由も、色々と分かないままドームへ向かった。
巨大なトーナメント表に『四つ葉高校』の名前が堂々と記されている。全国を勝ち上がってきた強豪八校によって本日、優勝が決まるらしい。
試合前にも沸き立つ会場は穏やかな外の空気とは全く異なり、すでに戦意とも言えるオーケストラをばら撒いている。どこを見ても人が詰まり、ただ中央の照らされたコートだけが静かな炎を揺らめかせていた。ぐらぐらと煮える大鍋に放られた俺たち三つのニョッキは、一段と上がる熱気に上着を脱いでなんとか空いていた応援席に腰を落ち着ける。
「ところで俺、この競技のルールを知らないんだが……」
「は?応援前に変な冗談はよせよ」
ホルンに投げ込まれた小人のように応援の楽器に包まれ、耳を寄せ合わせてようやく互いの会話が聞き取れる。俺の返事は無言でウィン太を見詰めた。
「レンお前……まじかよ……」
ウィン太の、海岸に漂着したゴミを一つ見るような目が突き刺さる。後頭部からの似たような視線も察して振り返ると、千冬ちゃんも前髪に隠れた狭い視界から、浜辺に打ち揚げられて半分干からびた小魚を見るような目で俺を見ている。
わあ、という突如の歓声の先に逃げ場のない顔を遣ると、コート上に選手たちが次々と登場していた。
その中にはもちろん、秋津先輩の姿がある。他の選手と比べても見劣りしない見事に引き締まった体格で、コートの女王、と呼ぶ大声援を受ける。
女王。称するならば獣王じゃないのかと思った瞬間、その野生の瞳が閃光鋭き俺に突き刺さった。結構な距離はあるのに、たまたまこの席に座った俺を捉えたのか。もしくは縄張りに踏み込んだ愚か者へ眼光を投げたのか。秋津先輩はこれまでにのようにしばらく見詰めると口端をにやっと上げて、何か物有り気に背を向けるとチームメイトの円陣に加わった。
秋津先輩はこの間に会ったときよりも少し日焼けが進んだか、それだけ基礎トレーニングを積み重ねたのだろう。ゆとりを持ったユニフォームの襟口には低温でじっくりと焼いたホットケーキのような褐色と生クリームのような白肌の、よりはっきりした境目をちらりと覗かせる。
しなやかな肢体は不動の黒さを基調にした四つ葉高校のユニフォームも相まって、まるで黒豹だ。海原を走るようにうねった髪は毛先だけ切られたか、楓の若枝のようなうなじを露わにしている。
黒く響く常勝の声、赤く飲み込む怒号、黄色い歓喜の声援、そして海底に着いたような静寂が会場を飲み込む。いよいよドラゴンバスケットというスポーツの試合が始まるのだ。
両チームは他の四人が自陣で声を掛け合ってフォーメーションを整えている。キャプテンと審判がコートの中央に残り、三人は両手の親指を突き出した。
「ニャック」
「ハイサ!」
「ヘッポ!」
おお、と歓声が上がる。周囲の声をかき分けていくと、つまるところ秋津先輩が親指戦争に勝った、ということらしい。全く意味が分からない。
「うちが先行だな」
顎に手を当てて見守るウィン太に、恥を承知で一体どういうルールなのかを尋ねてみる。
「オレよりも、千冬が詳しいぜ」
そっけなく跳ね返されて千冬ちゃんの方を向くと、雪だるまみたいな表情から予想もしなかった解説の口が走った。
「先行を取った四つ葉高校の勝率は八割を越えます。初手が秋津先輩のスローなら九割九分、四つ葉高校のの勝利です。……あっ」
俺とやっと目を合わせてくれた千冬ちゃんは、淡い声を締めに赤らめた顔をまた背けてしまった。紅葉が散ったように俯いている。
千冬ちゃんとは校庭を見渡せるベンチで初めて会って以来、ウィン太と居る時に何度か顔は合わせたけど会話らしい会話は無かった。俺はそれを見守るように、同じように人づき合いの苦手な後輩を、自分自身に重ねていた。
けど、今の今までガラスの背を指の腹で撫でるような声量だったのに、今の語り口だと慣れた手付きのハンドベルのように軽快に喋れるじゃないか。
そしてホイッスルと共に口火を切り噴き出す気迫の掛け声。気炎を吐く歓声、激しく鳴る打楽器。
ついに試合開始だ。
ボールを両手に秋津先輩がバウンドを確かめる。ルールを知らない俺ですらそれは手慣れたものだと分かる。ボールを回転させながら手元に戻し、相手のコートを厳しく睨みつける。コートの中には指や足首をテーピングで固めたり、腕に傷跡があったりする選手もいる。控えのベンチには松葉杖を手に悔しい瞳で声援を送る選手もいる。一体どんな過酷な競技なのだというのか。
「春光や」
秋津先輩の腕が捻られ、前足、いや堆雪を割るような足を踏み出す。
「無音の裾野に」
ボールを掴んだ右手がしなり、会場の全てが静まり固唾を飲んでいた。
「鳴り渡る!」
枝が乾いた音を弾くように秋津先輩の手からボールが放たれる。静寂のコートに一つの句を響かせながら。
わあ、という待ち構えた興奮の声が会場中を駆け巡る。放たれたボールは相手選手の肩に当たり、大きく弧を描いて落ちていた。
「さすが秋津先輩!」
「……ウィン太……説明してくれ……」
これは一体何なんだ。審判が左手で盾を作り、右手を垂直に振り下ろすとスコアボードに『二十点』が加えられている。ウィン太に代わって千冬ちゃんが俺の根本的な問いに答えてくれた。
「相手も強豪校なだけあって流石のブンゴロスです。これで相手のパゥペントがランジャーならゴルッハでもう二十点のベロンチャッケなんですが……あっ」
またも雪だるまの千冬ちゃんは、途中で顔を背ける。
ああ、なるほどあれか、好きな物事だったらいくらでも言葉が出てくる性格か。
漆塗りの光沢を潜ませる髪が、降り積もる雪が屋根瓦を隠すように黒々とした瞳が伏せられる。睫毛まで震わせて、饒舌になったことを恥ずかしそうにしているのか。
俺にも似たような経験があった。ドラバスじゃないけど、好きなものを話していると周りに鬱陶しく思われて距離を置かれたり、からかわれたり。人間関係を深く築けない原因の一つになったと思う。それからは好きなものを手放すようになってしまった。好きとも思えなくなってしまった。もしかしたらいつか見知らぬ他人と繋がったかもしれないのに、それを待てなかった。そのとき突然に何かを失っていくことが怖かったんだ。
「あのさ、千冬ちゃん……」
再び歓声が上がり、俺の声はかき消されてしまった。千冬ちゃんは掛けられた声に気づいて恐る恐るこちらを覗き見るが、大声援の迫力に視線がコートへ吸い込まれていった。
「隣りはどこぞと、ひとり鰊焼く!」
今度は相手選手のボールが風を切る。さっきと同じように四つ葉高校の選手に当たって、取り損ねたボールがコートに落ちた。ああ、今ので先制したポイントを奪い返されて同点ということだな。審判が両手の人差し指を上に向けて交互に突き出すと、スコアボードに『十二点』が付けられた。
「意味が……分からない……」
何かを思い出しかけていたのに、すっかり何だったか忘れてしまった。
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