第13話 &イチョウ婦人・2

 戦いの舞いなのか。ストレッチをしつつこちらに近づいてくる影がある。真昼なのに後光が射して見える。

 腿を高く上げて上半身を捻る。次の一歩を更に踏み出してくる。陽光を受けた木々の新緑がジャングルにでもなったようだ。確実に、獲物を捉えて滲み寄る肉食獣の威圧を感じる。これが戦慄なのか、暖かい風が汗を冷やした。

 その動作だけなら、グラウンドでトレーニングをする他の生徒と変わらないだろう。しかし眼差しは恐ろしく鋭く光らせてこちらを離さない。オーラ、という言葉の存在はこれ程までにはっきりと目に出来るのだろうか。同じ高校生とは思えない凄みに、肉食恐竜に怯える小型哺乳類は絶滅の危機に瀕している。

 先日、三つ葉市の駅前ショッピングモールでさんざんに弄ばれた記憶が蘇る。

 彼女だ。この学校に彼女、俺が人知れずイチョウ婦人と名付けた女豹が居たのだ。キリンのように長い足を闊歩させ、虎が獲物を掴む気迫を放つ彼女が檻から放たれていたのだ。

「少年」

「ひっ」

 迫りくる威圧は距離感をも狂わせていた。いつの間にかイチョウ婦人は俺の目の前で屈伸運動をしている。

「少年、スポーツは良いぞ」

 前かがみにふくらはぎを伸ばしながらも、顔の向きは俺を捉えて離さない。不自然なほどに俺に見せつけてくるストレッチだ。豹がしなったようにうねる髪のうなじに汗を垂らし、鷹の爪をもつ手首に蛇の巻き付くような細いブレスレットがきらりと輝く。待てよ、このTシャツは俺が買おうとしていた『汗もさらさら』じゃないか。やはりそれを狙っていたのか。


「汗を流すと書いて、青春と読む」

 そんな馬鹿な。ならば俺の冷や汗も青春なのか。

「秋津先輩、試合が近いんですよね」

 ウィン太はいつの間にか立ち上がって、イチョウ婦人、その秋津先輩を伺うように声を持ち上げる。ウィン太ですら緊張するのも無理はない気風ではあるけど、この気さくな漁師を以てしても猛獣はたやすく網を引きちぎるだろう。

「ああ、今日は朝練もさぼってしまったからな。休み時間も鍛錬をしている」

 そう言って尻をついて脚を広げると、引っ張れと声の鞭が叩かれた。猛獣というかもはや猛獣使いだ。猛獣でもない俺が逆らえるはずもなく、躊躇しながらも秋津先輩の手を握った。意外と柔らかくて肉球の触り心地を掌に感じた。

「全く、誰のせいだと……」

 スパッツからこんもりと太腿の筋肉が膨らみは落ち葉から顔を出す大木の根のようでもある。かなりの鍛え方を見せつけてぺったりと顎を地面に遣る。変わらずに顔は俺を捉えたままだ。化粧っ気がないからか、初めて見た時よりも少しは幼くも見えるけど、素顔がもう肉食獣のような容貌が露わになっている。

 ウィン太は俺と秋津先輩を交互に目配せしながら戸惑っているようだ。ウィン太ですらこうなのに俺なんかが何か太刀打ち出来るはずもない。堰を切ったようにウィン太の口が走る。

「あ、オレ、試合観に行きますよ!」

「ほう、ならば声援を送ってくれるとありがたい」

「もちろん、全力で応援しますよ。な、レン」

 は?

「妹と三人で行く約束をしていて、妹も先輩のファンなんですよ」

 初めて睨みが外された。秋津先輩はウィン太に目を据えると、にやりと口元を歪ませた。

「ぜひ妹さんも連れてきてくれ。来週が楽しみだ」

 鎖骨から日焼けの境が見える。何の試合かは分からないけど、この鍛え上げられた肉体の対戦相手を気の毒にも感じた。

 ぐっと手に力が込められる。秋津先輩は体を起こすとするりと俺から指が離れていく。最後に指先をつままれた感触がした。

「それではな。汗をかけよ、少年」

 長い脚が地面を蹴り、颯爽と風が切られて新緑に溶け込んでいく姿を見送った。


 今まで雷雲にでも襲われていたのだろうか、服に汗がびっしょりとへばりついている。あの人は天候までも変えるのだろうか。

「まさか、秋津先輩と知り合いとはな」

「知り合いというか、蛇に飲まれた蛙の残骸というか……」

 一体、秋津先輩という女子は何なんだろうか。俺を食って何の栄養になるのか。試合があると言いながらも実は暇なのだろうか。

「そういえば試合って、何の部活の?」

「うん?ドラバスだよ」

 ドラバス。何だったか。聞いたこともない。

「秋津先輩は、日本代表候補だぞ」

 聞いたこともないスポーツの国内代表と言われてもピンとこない。引き出しに転がっているネジを見つけた時にどの家具のものかが分かるだろうか。

「ところでお前……」

 ウィン太は遠い目で俺を見詰める。

「やっぱり年上が好きなんだな。だけどよ、一人に絞れよな」

 何もかもが違う。バイト先の店長である甘夏さんのことも勘違いしていたし、こいつの根本的な勘違いから正しておかないと後々面倒になりそうだ。

「秋津先輩も妹がいるらしいから、楽しみだな、レン!」

「待て、楽しみってなんだ。俺はそんなに飢えていない」

 意外と女たらしだなと、俺を置いて歩き出してどこかで聞いた台詞を飛ばしてくる。

「オレはお前を親友だと思っていたぞ」

「親友だろ。そう言ってくれ!」

 俺はウィン太の肩を組むと、手で払われた。また首に絡ませるとまた払われた。逃げるウィン太を追いかけて教室に戻った。




 日中の激しさとは対照的に、我が家はこんなにも落ち着く。

 琥珀色のフロアにはテーブルとソファーが並んでいる。当たり前のようだけど、ついこの間までゴミ箱をひっくり返したような惨状が嘘みたいだ。

 塵一つなく掃除の行き届いたフローリングから、森からそのまま持ってきたような素朴な柱が立ち、シンプルなガラスの掛け時計が機嫌よく落ち着いた時刻を作る。


「ドラバスって、知ってる?」

 新しい生成り色のソファーにもたれたまま、カステラみたいなキッチンで弁当箱と皿を洗っているサクラに問いかけた。

 その少女はワルツの楽譜を空白で奏でるような手で蛇口を止めて、食器を水切り棚に戻すと星でも数えていそうな細い人差し指を唇の下に当てた。

「ドラゴンバスケットですか?」

「ああ、そういう名称なんだ」

 サクラの俺を見詰める目が何か深いものに変わっていく。それは冷たい川底を思わせた。

「まさか、知らないとか……(いくらレン君でも、まさか)」

 水平線にきらめく青空を映した瞳が、幼稚園児が悪戯で全てのクレヨンを塗りたくった色に落ちていく。本当に初めて聞いたんだ。まさか誰もがみんな知っているくらいメジャーな競技なのか。じゃあそれを知らない俺は一体何なんだ。そんな遭遇した宇宙人を観察する目で俺を見ないでくれ。

「えっと、そのドラゴンバスケットとやらの試合を観に行くことになってさ」

「まあ(ええ、本当に知らなかったんだ)」

「う、うん……。連休でバイトも休みの日なんだ。サクラも一緒に行かないかな」

 五月の連休中は『魔王』は決まって店を閉めるらしい。甘夏さんが旅行に行きたいから、という理由だ。

 胸周りと肩口に隠れるカスミソウのようなフリルが揺れる。そのエプロンをいつものように正すと、雪を割るような睫毛がゆっくり伏せられた。

 あれ、スポーツに興味がないのか。でもサクラにウィン太を紹介したいし、妹の千冬ちゃんとは友達になれそうだと思うけどな。

「学校の先輩の試合でさ、日本代表候補の凄い人なんだよ」

「その日は、家事に専念しようと思ってて……(ああ、やっぱりその試合か)」

「家事も休みってことで」

 心の声の意味がよく分からないけど、出掛けるならサクラと一緒がいい。

「洗濯機のボタンを覚えたり、オーブンも使いこなしたいし(あとマットレスも干さなきゃ)」

「サクラはよく出来ているよ。息抜きもしたらどう?」

「わたしは最近、止まってばかりなので、それを取り戻したいです」

「それは気にしてないけど、そうか、残念」

「ごめんなさい(ごめんなさい)」

「いや、気にしないで。休んでもいいんだからさ」

 謝られるようなことじゃない。サクラが動作を止めて家事を休むことを後ろめたく感じているのなら、それは勘違いだ。仕事としてここに居て欲しい以上に、ここがサクラという少女の居場所になって欲しいんだから。


「明日はちゃんと、お弁当を用意しますね(頑張ります)」

「お弁当、嬉しいな。ウィン太も褒めていたよ」

 やっぱりサクラには笑っていて欲しい。少しの不安な表情でも、見たくないんだ。きっとサクラの中にはたくさんの感情が折り重なっていて、それは心の声にも出ない程に複雑で、繊細で、それをこんな俺でも取り除ける障害があったとしたら全力を出したい。なぜだか、サクラの離れていってしまいそうな表情は寂しくて怖いんだ。

 すっかりドラゴンバスケットとは何なのかを聞きそびれていた。

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