第10話 &サクラ・2

 サクラが動かない。


 比喩ではなくて本当に、睫毛一つも動かさないのだ。

 瞳に映るものだけを、ただ跳ね返すサクラを抱いて公園のベンチに座らせる。人目を、とか考えている状況ではない。サクラの両膝を持ち上げると、本物の機械人形みたいに腰の関節フレームの滑らかな振動が手に伝わった。

 さっきまで吹いていた春風は止み、この公園に二人きりで閉じ込められたんじゃないかと思うくらいの静寂に包まれている。言い様のない、とても深い位置からの心臓の音が鼻先まで重く響く。目に見えるものの全てが、地上を見下ろす鳥の視界のように意識から離れていく。凍った少女の夢に迷い込んでいるのか。白昼夢であればどれだけいいか。サクラ、呆けて悪い夢を見ている俺を笑ってくれ。


 あの時の姿勢のまま、ぴんと背筋を伸ばして花籠の取っ手を摘まむように両手を腰の前に組んでいる。今すぐにでも微笑みかけてきそうな柔らかい頬、真っ白な薄手のセーターを纏うヒヨコのように小さい肩、時を刻む白砂が流れ落ちそうな肢体。それらは、止まったままの少女の手を握りしめたくなる当然の計らいだった。

 俺はもう一度、サクラが動きを止めたまでの出来事を振り返ってみた。




 ショッピングモールでイチョウ婦人の姿が見えなくなってすぐに我に返った。

 サクラを待たせていながら、その妙な女性の、人間でいう同世代くらいの猛獣に弄ばれていたことを記憶から消そうと早足でサクラの待つモール外のベンチに向かった。

 しかしまあ、ちょっと歩くとジャケットに風が入り込んでわき腹をくすぐってくる。こんな自分を良く見せようと意気込む格好をしていると、まるで服が歩いているようだ。我ながら服の方に着られているんじゃないかとも思う。

 愛着のあるいつもの地味な服が押し込まれた意味不明な店名の紙袋の持ち紐を感情を込めて握りしめる。相棒よ、これは裏切ったわけではなく鳥獣被害に遭ったんだと。


 どちらが先に捉えたか、俺の視界とサクラの視界が交わる。一輪草を見たことがあったか。騒がしい林に一輪、可憐に咲き立って純白の春を告げている。

 俺はいつもの熊のような歩き方を改めて背筋を伸ばした。一つ芸を覚えたように、肩からずれそうなインディゴのジャケットとモリエールのポロシャツが風を切る。変に食い込むハーフパンツと履き主を置いていきそうに歩くブラウンスウェードのローファーが聞き慣れない音を奏でる。

「歩き方で、分かりますよ」

 遠くからでも俺に気づいたサクラの微笑みは、生まれたての天使の羽根がミルクティーに溶け込むように和やかで、こちらの頬まで優しくかき混ぜる。それを懐かしさの匂いとも感じていた。

 狭い両肩が少し動きツインテールを揺らした。その小さい口でチョコレートの板を割るように、さっそく着替えたんですね、とまた目を細める。


「えっと、似合うかな」

「はい、似合ってます(服に着られてる……)」

「そうか……」

「あ、いえ、格好良いですよ!(服は)」

 無言で見詰め合うと、ごめんなさいと小さい声が重なった。この可笑しさに心が躍った。この子の全てを許せるほど、今日の世界は広く大きなものに膨らんでいく。この三つ葉市の駅前ショッピングモールという小箱に押し込まれていた、女の子と歩く大きな妄想が突然にあっさりと叶えられたことに有頂天になる気持ちを抑えきれなく、両手いっぱいに広がる紙袋さえ羽ばたくためのものに感じた。


「半分だけでも持ちますよ」

「大丈夫、大丈夫」

「わたし、結構力持ちなんですよ?(片腕五十キログラムだったかな)」

 サクラは力こぶを作る仕草をする。もちろんそのセーターに波打たれた、ジャガイモの煮加減でも確かめる菜箸のように細い腕に秘められたパワーを知ってはいるけど、矜持というのか少しでも良い恰好を見せたいというやつだ。ただこの少女の積載重量が両手で百キログラムというのには、肝が冷や汗をかいた気がした。怒らせない方がいいのか。

 サクラはやじろべえのみたいな俺を気にしながら、手持ち無沙汰になった指を抱いて、せめてこの駅の裏道を確かめるように足並みを揃えている。俺の前に小石一つあったら除きに小走りしそうな気遣いだ。新生活のための大切な荷物を持っているのだから、俺もここで挫くわけにもいかない。一度、紙袋の纏まりを下ろして握り直すと一層の気合を入れた。

「レン君、やっぱり駅までエレベーターを使った方が良かったんじゃ?」

「そう、かも知れない。もっと近いと思ったんだけどな……」

「再開発されて遠回りになってしまっているんですね(あ、うどん屋さんだ)」

「うん、駅の表側は便利になったけど、こっちは寂しくなったな」

 わざわざ裏通りを帰路に選んだのは、とても単純で率直な思いからだった。

 この童話の森の中でひっそりと暮らしているような少女の、ただ歩いている姿を見ていたかった。俺から上手いこと話しかけられなくても、青い鳥も逃げない声を、どんな空気にも透明な色を付ける言葉を聞いていたかった。時に意地悪な心の声が鳴るたびに、サクラという人間の内を知れることが嬉しくなっていた。


 その時だった。通り過ぎて行った宅配のワゴン車が、前方の横道から出てきた軽自動車と衝突を起こした。

 ブレーキの減速に吸い寄せられるように互いの側面が接触し、鈍くて乾いた音が電話帳をずしんと落としたように鳴る。古いうどん屋の屋根からスズメが飛び立った。

 宅配の車から運転手が慌てて降りて軽自動車に走る。相手の運転手も無事のようで、へこんだフロントバンパーをどうしたものかと確かめている。うどん屋の亭主や小学生のグループも何かと何かと様子を伺っている。大きい事故、とまでには見えなくて、通行人が巻き込まれなかったのが幸いという所だろうか。


「あ……」

 空っぽの瓶に平手打ちをしたように何かがが消えた。夢から覚めたように、あるいは夢との境界線を越えたように、一つ吸い込むような声を機にサクラは動きを止めた。




 サクラの手を握る。やはりあの衝突に驚いたのだろうか。そこまで大きな音でもなかったけど、急に目にした不幸な光景にショックを受けたのか。サクラというアンドメイドが人間らしく、それ以上に繊細でもあるからこそこういうことになったとしても不思議ではない。

 俺の手の握りに合わせて、たおやかに指の関節フレームが弧を描く。

 何か出来ることはないのか、サクラ、動いてくれ。

「また、笑って……」

 サクラがこちらを見詰める。

 そこにまばたきがあった。

 粉雪を弾くような睫毛が、西日よりも輝く瞳をちらちらと見せる。

「サクラ……?」

「レン君、ごめんなさい、わたし……」

 サクラはいつもの、困ったときに手を小さく握って胸に当てる挙措をした。その手に俺の手が付いて行く。

 柔らかかった。握られた手は五十キログラムを持ち上げるような無骨なものとは全く違う、しかしながら強い意志で包み込むように、たっぷりと陽を受けた草原に身を投げ出したように暖かい。少女の小さい雲のベッドに手の甲が触れて、埋もれる。

 またもどちらが早くそれに気づいたか、花火が咲くように手をぱっと離した。

「あの、えっと、レン君?」

「あ、いや、その……」

 女の子の身体には、不可抗力とはいえ触れたことはあるけれど、というかサクラを運ぶときに思いっきり触っていたわけだけど、心に触れたような、体温を感じたような、こんな甘いホットミルクの匂いは初めてだ。

 まだ手を握っているみたいに、タンポポの柔らかさが残っている。

「レン君、ごめんなさい。止まっていました」

「あ、うん、心配したよ……凄く」

「本当に、ごめんなさい(変なことされてなかったかな……)」

「な、だ、何もしていないよ、大丈夫!」

「レン君が変なことしないのは、分かってますよ(焦りすぎでしょ)」

「あ、うん、とにかく戻ってくれてよかった」

「ご心配をおかけしましたね(心配してくれたんだ)」


 そのあとのサクラは、わざわざ元気を見せつけるように歩く。休んでいたらエネルギーが溜まりました、と荷物を持とうとするので、空回りをさせないために二つの袋を手渡したけど、家路を終えるまでなにかこう動作の停止を打ち消すように、やたら話しかけてきた。心の声も同じく、意図的に別のことを考えているように単調なものばかりだったので、突然に止まった原因を上手に聞けずにいた。

「具合は悪くない?どこか痛いとか」

「大丈夫ですよ。さっきはちょっと驚いただけです(ごめんね、レン君)」

「体調が悪かくなったら、ちゃんと言うんだよ?」

「いつもと逆ですね(保護者みたい)」

「あ、はは、そうかな」

「ふふ、そうですよ(よっぽど心配を掛けちゃったんだな……)」

「まあ、今日はもう休んでいてよ。家事はいいからさ」

「大丈夫ですよ、やらせてください(本当にもう大丈夫です)」


 サクラが動いたとき、どれだけ嬉しかったか。

 そして今もこうして、買ったものを丁寧に箱や袋から出しては一階へ二階へと歩き回っている。

 俺も、何の気なしにこまごまとした生活品を取り出して歩き始めた。

 もう一度サクラに、サクラの声が聞きたくて、無理はしないでと声を掛けた。相変わらずの大丈夫の一点張りで、しつこさに呆れたのか顔も合わせずに調味料を並べだす。

 その音が返事のようにコトコトと、小瓶の着地がカステラのようなキッチン台を打つ。

 琥珀色のゆったりとしたフロアの時間に紛れて、その気持ちが何よりも嬉しいです、と聞こえた。

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