第9話 &イチョウ婦人・1

 大体は揃ったなと、両手の紙袋を置いて二人でベンチに腰掛けることにした。


 調理器具や雑貨を買うときは、サクラに任せていた。実際に使うのはサクラになるだろうし、なによりも、棚を廻り回って商品を手にするサクラは、ファンシーなグッズに目移りするたびに両目がキラキラと別の宝石を映し出して、何かを見つけたと瞳のカナリアが囀る。俺はそれに、心臓が一歩一歩と進んでいくような楽しみを覚えた。

 次々に俺の押すカートに投げ込まれた戦利品をレジでは申し訳なさそうにしていたので、これで俺の面倒を見てくれ、と冗談を言うと、サクラの顔はこわばって心の声が消えてしまった。

 ああ、やっぱり好きで買ったグッズで、俺の面倒までを見るのは困らせてしまうのか。プレゼントと思ってくれたらそれでいいんだけど。よく考えたら家事用のアンドメイドだから主人の世話をするのが仕事じゃないのかと思うが。そのうち職務放棄でもされたらどうしようかと心配になってきた。


 サクラは腰から上をまっすぐに伸ばして人の通りに視線を向けている。

 お昼にしましょうか、と俺の腹の声に心の声で返されたので、レストラン街に向かおうとしたけど途中のハンバーガーショップに立ち寄って、このベンチに座っていた。


「わたしに気を遣っているのなら、ご無用ですよ(食べ物を見るのは好きだし)」

「いや、ここからだと景色も見えるから」

 もちろんアンドメイドは食事を摂らないので、自分一人で食を進めるのは気が進まない。ただ、見知らぬ人の行き交う姿を今日は見ていたくもあった。それはきっとサクラと向かい合っているよりも、横に並んでいる方がなぜだか気持ちにしっくり来ると感じたからだった。

 このサクラの横顔こそが、通りに気まぐれな風を起こし、大空に伸びてしなる街路樹を揺らし、街に陽光を呼びこんでいるんじゃないかとさえ思った。

 綿毛のように飛んでいきそうな輪郭が、ともすれば綿あめでもかじっていそうな唇が、バレエダンサーの足の甲のようにしっかりと体を支える視線が、ここが世界の中心のように見えた。

「あのさ」

 そのあとに何を言おうか、考えていなかった。

 何かを話したかった。食べている間に会話がなかったので。いや違う、俺が何かを言いたいのでなく、何か声を聞きたかっただけかも知れない。

「はい?(うわ、頬にソース付いてる)」

 ああ、と掌で擦る。相変わらず俺はかっこ悪い。

「えと、まだ買うものあったっけ」

 サクラは二度三度まばたきをして、買い物リストを取り出すと目を遣ってみせる。円盤状の関節フレームからすらりと伸びた人差し指を縦になぞった。

「大体は揃いましたよね(さっき自分で言ったでしょう)」

 分かってる。わざわざメモを確認している仕草も、情けない俺への気遣いだとも分かっている。でも他に口が話題がなかったんだ。見て分かってもいい天気ですねって言うだろう。いちいちカップ麺の作り方を読みながら作ったっていいだろう。犬を見たらワンちゃんですかって飼い主との会話のきっかけにするだろう。

 ああ、通りの向こうのファッションモデルみたいなお洒落な女の人もこっちを見ている。木陰に隠れたけど、きっと今は笑っているに違いない。

「あ、服。服を買わないか?」

「はい?(はい?)」

「ほら、サクラは家ではメイド服しか着ないから」

「はい、お仕事用です(似合ってないってことかな)」

「似合ってるよ!ただ普段着は、あんまり持っていないんじゃないかと」

「えっと、わたしは汗をかいたりもしないので(この服も似合ってないのかな)」

 しどろもどろになりながら無理矢理に会話を進める。何という無様な見切り発車だろうか。俺は基礎工事もせずに高層ビルを建てようとしている。

「レン君は、服を買いに行きたいんですか?」

「え、ああ、うん」

「じゃあ、行ってきてください(あ、そういうことか)」

「え?」

「わたしは荷物を見ていますから(これでレン君の役に立てるかな)」

「あ、うん、ありがとう……」


 何でこうなったのか、俺は一人で服を買いに行くことになった。特に必要もないし欲しいわけでもないので、さっさと適当に買って戻ろう。あとちゃんと考えてから喋らないと、俺にはあのウィン太みたいにぶっつけ本番な芸当はできない。あいつはたまたま漂着した無人島でさっそく火を起こせるようなやつだ。

 そしてメンズファッション店に入れない俺は、スポーツ用品店にやってきた。ああいった店は、ショッピングモールの白いタイルからの突然の木目調の雰囲気にもうすでについて行けない。兎が自ら虎の檻に入るものか。つまりは読めないような店名で物を買うつもりはない。このスポーツ用品店で、あまり選ばずに、機能性のTシャツでも買ってサクラの元へ帰ろう。


 品定め、といってもサイズを確認するくらいのもので、服なんてものは着れたらいいくらいにしか思っていない。これまでそうだったし、今もそうだ。余程に見苦しい恰好でなければそれでいいじゃないか。

 『汗もさらさら』とある無地のTシャツを手に取り、汗がさらさらするくらいのお洒落ならしてもいいだろうとレジへ向かおうとしたその時、女の人と目が合った。

 いや、目が合うという優しいものではなく、なぜだか俺を睨んでいるみたいにも見える。まるで虎だ。調教師の檻から逃げてきた虎だ。野性的に整えられた髪は豹の模様にも似ていて、春に相応しいピアスの輝きも鷹が獲物を狙う眼に怯えるように揺れている。外貌からすると、脚の長いキリンにジャンヌダルクが跨っているような威風があった。

 この獣のような女性に睨みつけられ、俺は汗をさらさらさせることも許されないのか。

 キリンがこちらへと長い脚を出す。ファッションモデルとも納得できる風姿の女性が俺の前にそびえだし、両肘を擦りながら眉をしかめる。シャツが積まれたワゴンの一つ分ほどの距離まで歩み寄ってくると、その握りこぶしを顎先に移して俺の上へ下へと目線を這わす。

「何で……」

 こぶしから零れるようにぽつりと口にした女性はそのまま俺の手元を射貫くように、小枝の鞭でその手を叩くような指で、俺の見つけたTシャツへ指を差す。

「何でそのシャツを選んだ!」

「は?」

 槍で突き刺すような声にTシャツを包むビニール袋が震えた気がした。周りの視線の矢も降り注いで痛い。店員もこちらを気にし始めている。ここは穏便に済ませたいと、手にしたシャツを差し出した。

「すみません、どうぞ」

「違う!」

 調教師のようなその女性は、どっしりとした腰に手を当ててうなだれて頭を振った。ピンク色のガラスのピアスが振り回されている。

「仕方ない、仕方ないことだな」

 『汗もさらさら』はワゴンに戻され、手汗でびっしょりの俺は腕を鷲掴みにされて連行される。引っ張ってくる腕は新しく細いロウソクのようだが猫が背を伸ばすと意外と長いように、そんな可愛い光景ではないが、大木が根を張ったみたいにとにかく力強い。俺は心の中で、イチョウ婦人と名付けた。


「ここでいいな」

 イチョウ婦人に引っ張られた先には、さっきの木目調のタイルが敷かれていた。

「そんな服でよく街を歩ける」

 誰に構うことなく、もちろん俺にも、堂々と木目調の店内を闊歩する。

 見せつけるようにジャケットを着こなすマネキン人形、凝視するように並んだサングラス、なぜか壁に貼り付いているジーンズがくるくると視界を回り出す。

 イチョウ婦人は、世話を焼かせるな、とがっちりと片腕で俺を縛り、もう片方の手で陳列された商品を物色している。思い切って店員に助けを求めようとレジへと視線を送るが、キャップ帽子を斜めに被った店員はこちらに目を遣ると、にこっと笑って業務に戻った。これを仲良さげに見えたのか。

「あの、腕を組むのはちょっと……」

 俺の腕はイチョウ婦人の幹の窪み、つまり胸の間に収まっている。

「君はきっと逃げるだろう」

「逃げません、だから離してく下さい……」

 獲物の悲痛の叫びと懇願を無視して、シアンのハーフパンツを選び取る。それを肘に掛けたまま次にポロシャツの何枚かを片手で選んでいる。何の違いがあるのか分からないが、モリエールという文字が見えた。今だ、と胸元から腕をするりと、タコのように引き抜くと足からふくらはぎに力を込める。大きくない胸で良かった。そのままダッシュ。

「これ、似合うかも」

 一瞬で肩を掴まれて脱走は失敗した。今度は肩に手を回されて絡み取られる。蛇に巻き付かれる小動物の気持ちが分かり、逃げ場はないと悟った。キャップ帽子の店員はもう一度こちらを見て、またにこっと笑った。


 インディゴのジャケットと、最後にブラウンスウェードのローファーが渡された。半分減ったトイレットペーパーを立てたような筒の中で、これが試着室かと着替える。一体なぜこんなことをしているんだ。派手とも言えないけれど、普段がモノクロしか着ない俺にとっては招待状を手に社交界にでも行くような恰好に思えて落ち着かない。ジャケットのボタンを留める前にカーテンが開かれた。

「うん、まあまあ。ちょっと、何でボタンを留めるんだ」

「あ、ごめんなさい」

 ボタンは留めるためにあるんじゃないのか。またもや上へ下へと視線を舐め回すイチョウ婦人は、本当に一体何なんだろうか。

「袖を捲るんだ」

「あ、はい……」

「よし、じゃあ、これにしよう」

「はい。……え?」

 そしてキャップ帽子が俺に近付き、にこっと笑うとタグをハサミで切ってレジへと持って行く。イチョウ婦人は腕を組み、満足そうに眺めている。まさかとは思うけど。

 金額を提示され、恐る恐るカードを取り出すと、女豹の口元がにこりと微笑みを浮かべた。

「いい根性だ。私が払おう」

「……は?」

 キャップ帽子は俺の着ていた服を膝で畳むと小洒落た文字の、何と読むのか分からない店名の紙袋に入れて、丁寧にお辞儀をした。本当にイチョウ婦人は全ての額を払い、俺は洒落た服を着たまま何とかという店を出た。わけが分からない。何をしたいんだ。

「よし、次は……」

 腕をかさかさと擦る慣れないジャケットは、それを引っ張るイチョウ婦人のカーディガンとお揃いの色だった。別世界に飛ばされたようにショッピングモールを歩き、そこらの恋人たちと目が合う。お構いなしに、冬に備えた毛皮に埋もれさせるように腕が押し遣られ、自分と居て楽しいだろうと言わんばかりの秋風の戯れにからかわれている木の葉は落ち着く暇がない。

 そして、こちらに睫毛を投げかけるイチョウ婦人の、桜色のピアスが光を描いた。

 何をやっているんだ俺は。

「俺、人を待たせているんです!」

「うん?だから?」

「だから、って……」

「待たせているから、何だと?」

 何を考えているんだこの人は。いきなり会って怒鳴ったり連れ回したり。いや、きっとそれを分かっているんだ。分かっていて、相手を思い通りにするのを楽しんでいるんだ。

 ふと、わざとらしく肩をすくめて見せる薄い色のカットソーの襟元に波が寄る。そこに日焼けの跡を見つけた。そこから下は、もっと白いのか。そしてイチョウ婦人が、俺の思っていたよりも若くて、歳は俺とそう違わないんじゃないかと思った。

「その舐め回す目線は止めてくれ」

 腕がするりと抜け、イチョウ婦人が離れていく。ミュールの踵がメトロノームのように鳴り、後ろ手に機嫌よく一度振り返ると手をひらひらと落とした。鮮やかな口紅が印象的だった。

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