第6話 &甘夏さん・1
南風が強かった。青空に大小散らばって、二度とない雲の形は流れが早い。
冬を押し切ってなお、春は陣地を広げたがっている。
小料理屋『魔王』の落ち着いた色をしたのれんも明るい風になびいている。しかしどこか、そのぱたぱたという乾いた音はもの悲しさもあった。
隣接する駐車場との隙間を横歩きで抜ける。ねずみ色のブロック塀を攻める俺は南国へ向かう蟹だ。裏口を開けるときに強風が吹き込んだので体を滑り込ませて心の拠り所へ入った。プレハブのようなドアを閉めるといつもの柔らかく深い匂いと、甘夏さんの声が聞こえた。お客さんとの会話、という風ではない。
狭い厨房から覗くと声の主がカウンターにもたれて通話中だった。裏口の開閉にも気づかないくらいに表情を伏せていたが、ようやくこちらに気づくと指をひらひらとして口元を上げて見せてくれた。こじんまりとした店を包むセピア色のひっそりとした木目の渦は、憂鬱でいてなお澄んだ声の波紋を写しているようで、まるで花瓶に挿された紫陽花が窓越しに梅雨空を眺めるように甘夏さんは誰かと話をしている。お客さんもいないようなので俺は軽く会釈をして厨房に籠ることにした。
今日の白紙の予約メモに目を遣り、『小料理屋・魔王』と書かれたエプロンを結びながら食材と炊飯器をチェックする。お味噌汁は足りないかも知れない。
煮物にコンロを取られるのであと一品、鮭の味噌焼きは常連客に人気なので仕込んでおこう。深鍋を取り出しジャガイモとニンジンを乱切りにして水を加える。その間、鮭に塩と日本酒を振って水気を除く。味噌だれは越後味噌と豆味噌を使う。この配合がこの店秘伝の味だ。看板メニューの豚肉のピリ辛炒めやナスとコンニャクのヘルシー味噌炒めにも使われていて、熱を加えるほどに香りの増すこの味噌だれを鮭に塗り漬けて冷蔵庫へ納める。これで夕方からの客に十分間に合う。沸いた鍋の火を止めて味を見ながら出汁と白味噌を足していく。豆腐をさいの目にしながら次はタケノコを出汁で煮ておこうと頭で組み立てた。
仕事と割り切ると料理は面白い。本格的に目指してみたら、と甘夏さんに勧められたこともあるけど、きっとこの厨房だからできるんだと思う。甘夏さんが間近で教えてくれるときは今でも緊張するけど、一人で段取りを考えていく分だと集中できる。
それを分かってか俺のいるときは調理場を任せてくれている。ただ今日はそれとは少し様子が違う。
さっきは口元に笑顔を作って見せてくれたけど、通話中の声のトーンは重かった。甘夏さんが物憂げな表情をするときはたまにあって、それも月夜の華のように似合ってはいるけれど、さっきはもっと暗い顔をしていた気がする。何かあったのか。
キヌサヤの筋を除いていると、まだぽつりぽつりと声が聞こえる。やはり気にはなるが、俺なんかが立ち入ることではない、と作業に集中した。
「ごめんね、今日は早番だったのよね」
甘夏さんが顔を出したのはしばらく経ってからだった。いつもの淡い笑みをしていても目の周りが赤い。なおさら聞かない方がいいのか。
「はい、始業式だけだったので」
関わるまいと心に決めたのは、通話中に何度か同じ男の名前を言っていたからだった。自分だけ食事会に呼ばれていなかったことを後で知ってしまったみたいな、知らない方が良いことは知ってから分かるものだと、ほんの少しの、気持ちばかりの衝立を置いた。
「私のすることがもうないわね」
甘夏さんは、まっすぐに立った白い鳩のように笑った。
俺の手は、出汁で煮たタケノコをフライパンに入れ薄削りと擂りゴマを和えている。
いつもの朗らかな表情に戻ったことに安心して、頬のこわばりと一緒にそれを保存容器に移した。
「新居でも、ごはんを作ってるの?」
「あ、いえ。道具もなくて全くですよ」
「そうなの?だったら……」
顎に手を当てて伏し目がちに考える甘夏さんに、つい見とれてしまう。握りしめたらさらさらと珊瑚の白い砂になりそうな肢体が、天才の作ったシャンデリアに白日のシーツを被せた色の淡い表情で何かを考えている。
ウィン太が言ってた色気を褒めろ、という言葉を思い出して心の中でかぶりを振った。褒める点なんていくらでもあるが、言葉に出来ない。そんなこの甘夏さんが、想いを通わせる男性は一体どういう人なんだろうか。
「うちのお皿とか持ってく?」
新しい街灯に明かりがついたように人差し指を向けたその先、この店の二階は甘夏さんが住居として使っている。そして俺の頭には今朝、声なき声に聞いた言葉があった。
「お皿……」
「お店から溢れた分が結構あるのよ。それで良かったら」
「いいんですか?それは喜びます」
今朝のサクラが脳裏に浮かんでいた。お皿がなくて困らせた、というか呆れられたというべきか。これで汚名返上できる。村の穀潰しがマンモスを狩って凱旋するような段取りをイメージした。
「喜ぶ?」
「え、あ、いえ、助かります」
「使い古しのも、良かったら持って行って」
お店は二十時、まだこれから来る客もいるだろう時間に、常連客を追い出すように、はためくのれんは外された。片付けもそこそこに裏口から隙間風を浴びる二匹の蟹が出て行く。
甘夏さんはそういうところがある。思いつきで旅行に行くとか気分が乗らないとかの理由で、その日その時に閉店するので、バイトの俺ですら心配になる。もっとも常連客はそれを笑って飛ばすのだけど。小路にあって目立たないこの店は、気まぐれを承知の温かい目で成り立っている。
「まだ少し寒いわね」
外にある、二階への階段のステップを踏む甘夏さんの後ろ姿と、その飛んでいきそうな羽を休める部屋に招かれることとに、高ぶった心はなかなか静まらない。新婚の家に干してある洗濯物を見るような目になってしまい、何を考えているんだ俺はと自分に喝を入れる。バイト先の雇用主に。恋人もいるだろうに。こんな舐めるような目で見るとその相手にも悪いだろうに。
「散らかっているけど、あまり見ないでね」
初めて入る女性の部屋はまだ眺めずともまず眩しく美しく、心臓が弾けそうだった。
「あっ、俺も全然片付けない奴だから、大丈夫です」
灯りがつくと、甘夏さんはくすっと笑って手招きをする。たるんだ紐が引っ張られたように後について部屋に上がる。
「ほら、俺なんか、その、まだ荷ほどきも済んでないし」
ぐっ、と突然、甘夏さんに顔を寄せられて思わず固まってしまう。
「ちょっと待って、ちゃんと暮らせてるの?」
灯火が頬に近付き、腰から広げた細い両肘は入道雲に包まれた香水の匂いがしそうなシャツの白波を見せる。首を傾けて憂うような目。芸術家の描く耳の曲線に沿って結い残された髪が、こちらの胸に吸われそうな肩にさらりと滑る。半歩、一歩と俺は押された。
「あ、あの、いえ、もう全部任せてて」
「任せてる?」
尻もちでもつきそうな俺を残して、甘夏さんはまっすぐに立ち居を変えると、自分の腕を抱いて手を顎に当てる。
「彼女さんに、会いたいなあ」
小悪魔の笑みだ。このしなやかな猫は玩具を発見したのだ。
「違います、違いますよ!」
「ふうん、女の子なのね」
細い唇がさらに細くなって、こちらを蹴るように背を向けるとそのまま迷いもなく部屋を突き進んで行く。決して広くはないこの二階が雲上の神殿のように感じる。秘密の花園のようにも浮かれて足を踏み入れた部屋が実は小悪魔の潜む法廷だった。そして裁判官は、大きな食器棚の前で歩みを止めた。
そのまませっせと食器を選んでは丈夫なキャンバス生地のバッグに詰めていく。
「あの、おかみさん?」
新聞紙を挿し込みながら鼻歌が出てきた。
「おかみさん?」
大皿も入るかしらと独り言を呟いている。
「おかみさん……?」
「お箸は何膳いるのかな、お姉さん分からないな」
「……俺の姉ではないじゃないですか」
スプーンとフォークも二本ずつ包んでいる。鼻からお、ね、え、さ、ん、と歌っている。
甘夏さんを、お姉さんと呼ぶのにはずっと抵抗があった。何というか、まだ早い蕾を摘んでしまうような、それを持ち帰ってしまったら、二度と咲いてくれないんじゃないかと感じていた。もしも空を飛べる靴があったら、履いてみたいと思うじゃないか。
「……じゃあ、甘夏、さん……」
口に初めてする言葉の、前に後に心臓が跳ねた。靴下で少し空に浮かべた気がした。
甘夏さんの、バッグに挿し込む手が止まる。
「じゃあ、行きましょうか」
しばらく自分の心臓の音がうるさくて何も聞こえなかった。
ウィン太に対してもそうだったけど、甘夏さんの考えもよく分からない。そのうち家に来るとは言っていたがまさか今日とは。汗で湿った靴下の跡が、あの裁判所、じゃなくて花園に変な染みを残さなかったかとか気が気でない。隣りの裁判長は機嫌よく歩いているが、よく分からないのままの罪状は無罪放免だろうか。というか何で俺は被告なんだ。
サクラみたいに心の声が漏れるのなら、今なにが聞こえるのだろう。
「なかなかの坂道ね、大丈夫?」
「ええ、もう慣れましたから」
そうは言ってもこの食器の量が負担にはなる。お店で使わないといってもまあまあの皿の数が食器棚には並んでいた。それと、お揃いのマグカップも見えてしまった。やっぱり恋人がいて俺が知らないだけだったのだろうか。夜空を見上げると、旅客機の星も平行に、決して交わることのない光が進んでいた。
「それにしても、バイト代でアンドロイドとはね」
「魔が差したというか、それあんまり突っ込まないでください……」
あの夜、好みを入力していったら甘夏さんに似たアンドメイドが候補にあったことを思い出してしまう。そしてそれを選ばなかった過去の自分の英断にいま拍手を贈る。
街灯りが漏れた花びらの上を歩く。山手はひっそりと、たまにある門柱の灯りが桜木をひっそりと浮かび上がらせる。
「うちでも雇おうと考えたことあるのよ?」
「労働用アンドロイドですか?」
「お店を全部任ようかなって思って」
蝶の片羽のように掌を上下させて冗談ぽく笑ってるけど、甘夏さんなら本当にやりそうだ。料理も接客もできるアンドロイドだとかなり高価になる。それを知らずか、月をなぞるような指先で髪を耳に掛けてもまだ笑っている。
「そういうの、かなり高いですよ。業務用だと毎月税金も掛かるから採算が取れないんです」
「そうなの残念。詳しいのね」
「ちょっとは勉強してますからね。それに……」
言い掛けたことが、口の力が抜けたように止まって恥ずかしくなった。勢いで何を言おうというのか。
「それに?」
「いえ、その……甘夏さんが居るから、お客さんも来てるんだと……」
「そうだと良いけど」
ふふっと笑って、ありがとねと暖かい風が吹いた。
きっと誰かにとって、人を褒めることはどうってことない言葉なんだろう。俺にとっては精一杯に伝えたことが、誰かにとってはさりげない一言なのかもしれない。だらしない主の家を頑張って片付けることも、洗濯物の端を揃えて綺麗に畳むことも、見るからに簡単に友人に囲まれることも、ちょっと話しただけの相手を覚えてることも、表面では誰にも分かられずにいて、大して意識もせずに出来たり、その間に人知れぬ努力があるのかもしれない。
甘夏さんも、お店をやるにあたって見えない努力があったのだろうか。
「レン君には期待してるよ」
そう言われたときに、こんな俺でも居場所が認められた気がして嬉しくなった。
そうしてあの星の旅客機はどこに向かうのだろうと、目で追っていたことを忘れた頃にようやく我が家に着いた。
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