第4話 &メイド・4

 気持ちの良い晴れ。それを起きる前から分かるのはこの家にカーテンをまだ備えていないからだ。小さくて白い雲が控えめなフリルを付けて歩き出す。

 今日から新学年で気だるくなるけど、引っ越して最初の登校なのでせめてもの新鮮さを頼りに、漂った細い糸を掴むようにして体を起こした。

 空気が置かれたように広い家だ。ただでさえ一人には大きい空間を、真新しさに釣られてきた生まれたての陽光が無邪気に遊んでいる。階段を下りるとすぐに琥珀色は広がる。その向こうから飛んできた声に、ほんの少し戸惑った。公園で愛犬たちのじゃれ合いを見守るような春のフロアに俺も加わる。

「おはようございます、レン君」

「お、おはよう。早いね」

 ここからは一階のほとんどを見渡せた。引っ越してから片付いていなかった段ボールが隅に寄せられて元々あった広さに戻っている。俺を歓迎でもするかような、キッチンのスペースに立つ黒いワンピースと真っ白なエプロン姿はとても斬新に見えた。野花を摘んでリボンでラッピングしたような、先祖代々の重箱にマカロンがぽつりと入ってるような、アンドメイドのサクラは長いエプロンに手を遣りながらどことなく暇そうに立っていた。

「これ全部片づけたの?」

「はい。ただ、収納もないので整頓しただけですが(本当よく暮らせてましたね)」

 あっ、と考えが漏れたことに口を押える仕草が、悪戯のばれた子犬みたいに見えたから少し笑ってしまう。本音が声になってしまうというのは、心を読まれる本人からすればたまったものじゃないと思うが、相手の気持ちの察しが悪い自覚のある俺からしたら辞書を引きながら暗記テストをするようなものでありがたい面は多い。

 とはいうものの、心の声の方は耳が痛かったりもするので、とりあえず洗面所で顔を洗って気を持ち直した。

 タオルが床の上に綺麗に畳まれているのは他に置く所がないからか。隅を揃えて順番に待っているようなパイル生地で顔を拭き、そのまま放り出しそうになるいつもの習慣を堪えてその山の頂に丁寧に置いた。収納か。日用品にも部屋が要る。いろいろと揃えるものが多い。


「朝食を作ろうにも、その、料理器具もなくて……(困りましたよ)」

 サクラのまえにはぽつんと食パンが置いてある。俺が一昨日バイト帰りに駆け込んだパン屋で、閉まる直前に売れ残っていた一斤を買ってきてしばらくちぎりむしった残りだ。

「すみません、食べ物はこれしか、発見できませんでした」

 食べ物は発見するものという哲学の答えは、バイト先の小料理屋のまかないだ。このカステラのようなキッチンで自炊をしようにも、店主の甘夏さんの手料理を持ち帰ることにすっかり甘えてしまいこれまで食を繋いでいた。

「あと、テーブルとイスはおうちに必須だと思うんです(あとお皿も)」

「うん、そうだよね、本当に……」

 対面式の調理台の前でサクラと向かい合って立ったまま、かじりかけのパンを試食するように口に運んでいく。目の前のサクラはこちらを見詰めている。

 心の声が周りに漏れるといっても、深層心理までは聞こえない。あくまでも意識して考えていることでないと表には出ないのか。だけど、人間と同じくその意識に嘘はつけない。

 そのアンドメイドの少女は今、朝食に一昨日の、シンク下の奥で眠っていたスポンジのようなパンをむさぼる俺の姿をただ見詰めている。こんな何とも情けない姿を若葉の産毛まで映り込みそうな深いガラス色をした瞳の女の子にまじまじと見せてしまい、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいだ。

「えっと、サクラは食べないんだっけ」

「はい。アンドロイドですので」

 なんか、物足りないというか。食パンだけじゃなくて。サクラが来たことでそれまでの俺の生活がどれだけ無精だったかを、残酷にも何もない我が家が物語っている。山手の別荘地に佇む我が家の昨日までが、新築の泣き出しそうな散らかり具合の惨状であったことが脳裏に浮かんだ。こんな家主のメイドにさせて本当に申し訳ない。


「今日から学校ですよね?(食パンに何もつけずによく食べれるなあ)」

「うん、今日から」

「制服は段ボールから出しておきました(しかもカピカピだし)」

「おお、ありがとう。捜してたんだ」

「新学期、頑張ってくださいね(まさか生まれてずっとこんな食生活を……)」

「うん、頑張るよ……」

 可愛らしくて気の利く投げかけのはずなのに、心の声の方が俺の耳に突き刺さって痛い。食べている気もしないので、乾燥したスポンジのパンとの戯れを切り上げて着替えることにした。

 唯一の家具であり、なぜか置いてある白いグランドピアノと同じ色の、浜辺で製作者を待っているような木製の椅子に、着古した四つ葉高校の制服がまだ早い朝日を受けて光沢を振り絞る。もちろん端を揃えて綺麗に畳まれ、持ち主よりも遥かに立派に居座っている。少し前までぞんざいに扱われてていたものを授与式のように両手で持ち上げた。

 ここで着替えるのもどうかと二階の部屋に戻る。アンドロイドとはいっても同年代の少女の姿の前で服を脱ぐのには抵抗がある。春の陽光で少し温もった制服に数週間ぶりの手足を通す。少しは賢く見えるだろうか。カバンの中を覗く。数冊の超高度人工知能の参考書を確認した。

 ハイパーAI開発とも呼ばれるこの分野は情報工学から社会哲学まであらゆる知識が求められる。その分の職業としての評価は誰もが分かるくらい高く、夢を描き、憧れて、そして挫折する者も多い。それをまさに表している基礎本だけでもかなりの量を休み時間も使って読むつもりだ。

 この家での一人暮らしの条件である勉強のためとあともう一つ、本を読んでいればクラスで一人になっても誤魔化しが効くと考えたからだ。これがないと手持ち無沙汰になってしまう。その友人の厚さを指で確かめた。


「もう出ますか?」

「いや、まだ時間はあるかな」

 壁掛けの丸い時計は段ボールの上に腰かけて琥珀色のフロアを眺めている。

「今日、学校が終わってからは空いてますか?」

「いや、そのままバイトに行かないと」

 そうですか、とサクラは困ったように自分の華奢な指を握る。親指の付け根のフレームさえ見えなければ真っ白な詩集と姉妹で育ったかのような手だ。

 サクラの今のこういう、漠然とした心の声は本人も頭の中でまとめ切れずに言葉にはならないようだ。イメージをいうか、そういうものは伝わってこない。ただ、口を開かずにうなっているだけので心の声から漏れかどうかはわからないが、具体的に考えていることははっきりと声に聞こえる。俺にとって容赦ないくらいに。

「家具などを揃えてはと思ったんですが(よくこれで暮らしていけるな……)」

「うん、そうだね、そうだよね……」

 春休み中はほとんどの毎日をバイトに使っていて何とかなったんだよなと、そのお店の休業日を思い出す。

「今度の日曜日、買いに行こうとしていたんだ」

 いま思ったけど、いいきっかけだ。確かに早いうちに揃えないとな。

「明後日ですね。お供します(ある意味レン君ってすごいのかも知れない)」

「いや、けっこう回ることになるだろうから悪いよ」

 学校に行っている間、買い物リストでも作っておいてもらおうかな。

「そうですか、ではお留守番してますね(一緒に行こうと思ったのに)」

 どっちなんだ。ひょっとして買い物が好きなのか。でも本当に家具と家電を見て回るの大変だぞ。両親の引っ越しで買い揃えに付いて行ったけど、何件も歩いて値段も確かめてまた戻って、帰る頃にはみんなくたびれていた。ああ、でも商品を見て回っていたときの両親は楽しそうだったな。


「じゃあさ、一緒に行こうか」

 アンドメイドってこんなに表情が豊かなんだと驚くくらいに、サクラの顔がすっかり明るくなった。

「はい!」

「じゃあ明後日までに、買う物を決めておこうか」

 嬉しそうな表情に心の声は聞こえない。本心から買い物が好きだったのか。

「では今日は、レン君が学校の間に夕飯を買っておきますね」

 サクラは機嫌よくスカートを揺らして話している。姿勢だけはぴんと正し指先は小鳥を隠すように前に組むメイドのそれだが、所作といえば鳥かごから出た小鳥のように足が弾んでいる。胸元を囲んで踊るフリルこそ心の声なんじゃないかと思った。

 アンドロイドってもっとこう、機械的というか質実的なイメージだったんだけど、俺が知らなかっただけなのか。それともこの子の特徴なのか。

「なにか食べたい物はありますか?」

「いや、特には」

「じゃあ、適当に買ってきますね(食パンでいいのかな)」

 公園の鳩を見るような視線が目に刺さる。

「……バターとジャムも買ってきて下さい」

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