第3話 &メイド・3

 しばらく山手の坂道を下る。花びらの薄く敷かれたアスファルトを踏み歩き、木々の隙間は青い陽気に浸った街並みを歩調のリズムにゆっくりと合わせて覗かせる。

 肩のボストンバックを掛け直して何をどう口にしようかと考えながら、二人分の靴音が緑の木漏れ日を踏んでいく。上手に絵の具を薄めた水彩のパレットから筆を叩いて散りばめたような景色だけがこの沈黙の救いだ。

「桜が綺麗ですね」

 俺と同じように、丸く張ったトートバッグを肩に掛け直したサクラは丁寧に言葉を、その風景から俺の耳に届けた。

「あ、ああ、うん」

 もっと上手く返せたらいいのに会話を続けられない。見えない試験をしているように、頭から口の間に海を隔てて別の国があるかのように、言葉がでてこない。クラスで人気の男子が女子たちと滞りなく話しているのを羨ましく感じつつ自分には関係ないと割り切ったのを思い出す。ああいった会話を真似しようとしても、いざ女子を目の前にすると頭が真っ白になっていろいろと考えているうちに下書きの紙が塗りたくられて話題が変わってしまう。今の会話もどういう感じで返したらいいのだろうか。

 開花は終わってもう散っているけどね。……いや、なんか暗いだろ。

 この辺は別荘地だから景観が整えられていて……。これでは住んでいる俺が偉そうだ。

 街の方から見える桜も綺麗だよ。よし、これでいこう。ちゃんとした返答になっていて話題が膨らむ要素も入っている。よし。

「街」

「着きましたよ」

 目の前にはコインランドリーがあった。


 今の今まで、通りの背景のように気に留めることもなかったこの清潔な小箱のような建物を、どんな人が利用するのかと考えていたが、まさか自分がお世話になるとは。

 初めて目にする大型の洗濯機の並びは秘密基地のようで、この狭い箱の内部でなにか世界でも動かせるスイッチがあるんじゃないかと好奇心をくすぐった。サクラは淡々と手順に慣れたように洗濯機を扱い、俺の抜け殻が回転していく。それは俺が思っていたよりも大きな出来事で、あれだけの大量の衣類が一度に洗濯できる便利なものだった。投げ出されていた抜け殻を叱るようにドラム式洗濯機は回り続ける。


「レン君、眠いですか?」

「あ、いや、なんだっけ」

「乾燥機に移したので、もう少しで終わりますよ(いや、寝てたでしょ)」

「ああ、うん、ありがとう」

 洗濯機の回る音が心地よくて眠ってしまうところだった。あの家の問題が一つ片付いたことの安堵感に瞼を落とされた。狭かったのは俺の世界のほうだった。衣類を投げ入れるだけのこんなに簡単な行動をなぜしようとしなかったのか。


 そして新たな発見の前の頭に巻き戻し、サクラに尋ねようとしていたことを思い出す。それはアンドロイドにとってデリケートな質問じゃないかと勘ぐっていた続きをだ。

「あの、わたしに出来ることなら何でも言ってくださいね(何を考えているんだろう)」

「あ、はい、よろしくお願いします」

 こうやって並んでコインランドリーのベンチに座っていると、他の人からは人間の女の子のように見えるのだろうか。さすがにこの距離からだと微妙な関節の動きでアンドロイドって分かるんだけど。

 もちろん機械仕掛けであるアンドロイドは、フレームに弾性のある人工の皮膚がかぶさっている。幾つか種類はあるけれど、大体は人間と混同されないように似せながらもそれと分かる特徴を見せている。サクラも、メイド服の襟元から見える首と袖をまくった肘に円盤状の関節フレームを露出させている。

 うっかり忘れ物をしたり、景色を美しいと感じたり、あと僅かな仕草も人間らしく、植物のように動物のように、所作の一つ一つが生き物の息吹きのように感じてならない。他のアンドメイドもこうなのだろうか。どうやってこういった思考回路を作り上げるのだろう。あらゆる分野に精通し実験と失敗を繰り返した天才が跡に跡を継いで紡いでいった成果なのか。俺なんかからすると地平線のずっと果ての地中深くにある宝の地図の切れ端をあてもなく掘り続けるくらい気が遠くなるほどの場所にあるんだろう。勢いで決めた進路とはいえハイパーAIについて俺はもっと知らないといけない。なんだか自信がなくなってきた。

「レン君、眠いですか?(退屈なのかな)」

「あ、そんなことないよ!」

 思わず大きな声を出してしまう。他のお客さんが出て行った後でよかった。

「ごめんなさい、うとうとしていたようなので……(ああ、怒らせちゃった)」

「いや、違う、そうじゃなくて……」

 サクラのひどく困った表情に心が痛む。やはりちゃんと聞いておくべきことなのか。これから生活を共にするわけだし。

「そうじゃなくて、その、尾ひれの声が、えっと……」

 しかし何と説明したらいいのか。尾ひれという表現が正しいのか、しどろもどろに品詞のはっきりしない明らかに足りない言葉で伝えようとする。


 あっ、と思い出したようにサクラは胸を手に当てた。


「確認を忘れていました(聞こえるんでしたね)」

 聞こえる。うん、おそらく喋っていないはずの声が聞こえる。

「あの、わたしは少し特殊型のアンドメイドでして……」

 サクラの落とした視線は上下に泳いでいる。不安そうな表情に加えて、返されたらどうしよう。と声なき声が聞こえた。

「特殊?」

「はい。製品情報として詳しく言えないのですが(うう、言ってしまいたい)」

 製品情報。ハイパーAIの企業秘密か。


「簡単に言うと、表層心理が漏れてしまうんです(ああ、恥ずかしい)」


 表層心理。つまり頭の中で考えていることだっけ。

 アンドロイドとしていうならば、思考回路が意に反して声に出てしまうと。意に反して、というのは的を射ってはいない気もするけど。例えば俺がいま思っているこの考えも声として周りに聞かれるということだ。

 それって、困らないか?俺だったらものすごく困る。実際サクラも困っているようだし。まあその困る発端は俺のことなので複雑な思いがするけど。

「あの、ですので、レン君のお気に召すかどうか……」

 サクラは両手の指を突き合わせて目の置き場がないみたいに、もじもじともそわそわともいえる仕草をする。清潔な室内の灯りと外の陽光を合わせてもまだ照らし足りないばかりの宝石の瞳を守るように睫毛が伏せられる。人間だったら恥ずかしさに顔を赤らめていそうな風だ。

 誰だって心の声を知られるとなると恐ろしくも恥ずかしくもなるだろうし、決してポジティブな感覚にはならないだろう。人格を持っているハイパーAIもそれは同じだと思う。サクラの今までの尾ひれの声、つまり心の声をざっくり反芻して思い返してみる。

 それらは本音、という一言に尽きる。

 まてよ、だったら、ハイパーAIは実際に起こしている表現と本来の思考とが異なることもあるのか。それは本当に、本当の人間みたいだ。

 ハイパーAIにも嘘や建前や隠し事やおべっかがあって、相手や状況に合わせている。それはそれで凄いことだと思うのだが、この目の前にいるアンドメイドはそれが相手にばれてしまう。心が裸にされる、という表現のままだ。

「えっと、つまり嘘がつけないってこと?」

「口で言っても、聞こえてしまうので……(うう、この考えも聞こえているんだ)」

 少しの間の沈黙の中、洗濯物の乾燥が終わったようだ。

「何か、恥ずかしいです!(ああああああ)」

 サクラは両手で顔を隠してうずくまってしまった。魚を食いつかせるルアーのように動いていた視線もその小さい掌に隠された。

 それは、それがメーカーが意図的に作った機能かはこの際置いておいて、サクラにとっては望んでいないことのではないか。人間らしいハイパーAIだからこそ人間のそれのように顔を伏せたくもなるのだから。

 何て言えばいいんだろう。珍しいね?いやいや他人事みたいだ。

 大変だね、構わないよ、便利だね?……どれも違う。


 逆に俺の考えが声に漏れるとしたらどう聞こえるんだろう。きっとぐちゃぐちゃでまとまらない声が、散らかった俺の部屋のような惨状が騒音に化けたみたいに周りに聞こえるんだろうか。

 ならばサクラの考えは、そんな俺とは違ってはっきりとしている。口と逆だったとしても明瞭な意思として聞こえるんだから。相手を怒らせようが困らせようが、本音ということは事実だ。片付けの行き届いた家のように、風に乱れても形をしならせる樹木のように、サクラの声はどちらにも淀みがない。自分だけしか見ることのない、鍵をかけた小箱の中でも綺麗に整理されているのだ。

 サクラは、ようやく乾燥が終わったことに気づいて身の置き場を見つけたように洗濯物を取り出し始めた。真っ白なエプロンのフリルが、さっぱりと洗われた衣服に仲間を見つけてはしゃぐようにひらひらと踊り動く。

「サクラは綺麗なんだな……」

 取り込まれるシャツが一瞬止まるのを見て、自分の考えがぽつりと出たことに気づいた。


 俺はなんて恥ずかしいことを言ったんだ!もしも古風で厳格的な貴族の慕情だったら妻を捨てて愛人に求婚することにも成り得るような歯が浮きそうな台詞だ。沸々と首あたりの血液が昇りだしこめかみを通って顔の内側を赤く熱いマグマが浸していく。

 サクラは何事もなかったようにテーブルに服の山を移すと丁寧に畳んでバッグに詰めていく。

「すぐに片付けますね(綺麗って、褒めてるの?なんなの?)」

「ああ、えっと……お願いします」

 サクラはてきぱきと洗濯物をやっつけて本当にすぐに済ませた。その間ずっと、なんなの?褒められたの?なんなの?と繰り返し聞こえた。まるで早朝の草刈りに小鳥が驚いて騒ぐような大騒音だった。

 俺は心の声が漏れることがどれだけ恥ずかしいか分かり、顔から耳まで熱くなてきて、ただひたすらにうずくまっていた。


 家路の長い坂道を上る。パンパンに張ったバッグは汚れを落とした気持ちだけ軽い。

 あれからほとんど沈黙が歩く。サクラは、心の声を聞かれないように無心に努めている。街のケーキ屋やすれ違う犬に反応して心の声が出るが、すぐさま「聞かれる!」と感想を消す。ついにはお経を唱えだして今は無言だ。般若心経は家事用アンドロイドに必須なんだろうか。

 ただ、目に映るいままでの坂道は、並木が支える空も、街を悪戯に見せる木々の間も、家を出たときより鮮明に感じる。透き通って見えたガラスが取り外されたような感覚だ。

 

 まあだからといってこの上り道が楽になるわけではない。サクラも疲れたりするんだろうか、ペースの下がった俺と同じ速度になっている。

「サクラも、坂道、苦手なんだ」

「えっ、いえ、一応アンドロイドですので」

 不意を突かれたのか、吐く息が飛び飛びの俺に、無表情にさらに気合を入れて答えている。拗ねているこどものようにも見えて、こういうところも人間らしくて、わざわざハイパーAIだからとか深く考えている自分が滑稽にも思えてきた。景色は観る側で変わるものだ。街から見る山手の桜も綺麗なように。

「レン君のペースでどうぞ(合わせますから)」

「あ、俺に合わせてたのか……」

 力なく言うと、くすっと少女っぽい、アンドロイドとは思えない笑みがこぼれる。なんだか可笑しくなって吹き出してしまうと、サクラも表情の力が抜けていく。心の声は楽しそうな笑い声を出した。

「一緒にがんばって帰りましょう!」

 俺を追い抜いて振り返ったサクラに、あの満面の笑顔が弾けた。風になったツインテールが太陽に伸びる花を揺らすように、華奢な少女の笑顔が歩く。

 重なった笑い声に、こういう風に歩けるなんて幸せ。と聞こえた。

 そして俺は、女の子を名前で呼んでいたことに今さら気づいてまた耳が熱くなった。

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