第16話 お嬢様の小さな逃避行
「そろそろかな」
わたしは読みかけの「ねじの回転」をテーブルの上に置くと、東屋の天井を見上げた。するとわたしの気持ちを読み取ったかのように、携帯が鳴った。
「もしもし、トーコ?無事に屋敷の外に出られた。そっちも出て来てくれ。僕とドロシーは近くのバス停にいる。くれぐれも「ドロシー」らしくふるまってくれよ。それじゃ」
道彦は早口で言うと、一方的に通話を終えた。わたしは本をポーチにしまうと、帽子を深くかぶってそっと東屋を出た。
※
ドロシーから「トーコたちの「アジト」に行ってみたい」と打ちあけられたのは、怪物騒ぎの後始末で屋敷がばたばたしている最中だった。
ドロシーの部屋に怪物が現れたという報告に、もっとも動揺をみせたのはマーサとギリアムだった。
「大奥様には、怖い夢を見たと言っておきましょう。このことで、ただでさえお悪い心臓にさわりがあったらいけません」
マーサは血の気のない唇を震わせながら、そうきっぱりと言った。
「ねえ、どうして怪物は私の部屋に出たんだと思う?」
ドロシーがわたしに耳打ちした。
「わからないわ。あなたが目的なのか、それともおばあさまを怖がらせるのが目的なのか……」
「そうよね。……ね、お化け騒ぎの真相をつきとめてみない?あなたたちの「アジト」で会議を開くの」
「わたしたちの?」
わたしはドロシーの言う「アジト」が「雨迷人」であることを即座に理解した。
「でも、どうやってお屋敷を出るの?一日の行動はすべてマーサに管理されているんでしょう?」
ドロシーの話によると、わたしたちと連絡を取る時でさえ、マーサに預けてある携帯を使わせてくれるよう頼まないとだめなのだそうだ。ましてや単独での外出など簡単に許してもらえるはずがないというのだ。
「私に考えがあるの。天気のいい日はお庭にある東屋で読書をするのが日課なんだけど、日によっては二、三時間入り浸っていることもあるの。だから、東屋にいると見せかけて裏門からこっそり出れば、きっと誰にも気づかれないわ」
計画を聞かされたわたしたちは、ドロシーの大胆さに舌を巻いた。やはりこの子はただのお嬢様ではない。
東屋を出たわたしは姿を見られないように身を屈め、壁の外を走り抜けた。
一応、見とがめられた時のために東屋でドロシーと服を交換しておいたのだが、万が一、呼び止められたらそこでゲームオーバーだ。
遠くでひびく庭師の芝刈り機の音がどうかこれ以上近づいてきませんようにと祈りつつ、わたしは裏門に向けて敷地を一気に横切った。
幸いわたしの姿は誰にも見とがめられることなく、わたしは裏門をくぐることに成功した。道路を渡り、一区画ほど先のバス停にたどり着くと、わたしの服を着たドロシーと道彦が立って手を振っているのが見えた。
「よかった、うまくいったのね」
「短い間だけど、家出するお嬢様の気分を味わったわ」
「実はドロシーにもひやひやさせられたんだ。窓の下を通る時、「冒険みたい」って言っていちいちクスクス笑うんだぜ」
「だって私にとっては冒険だもの」
ドロシーはそう言うと、いたずらっぽく片眼をつぶってみせた。わたしたちが「雨迷人」に向けて歩き出そうとした、その時だった。
「――ね、道彦君。電柱の陰にいる男の人……見たことない?」
わたしは屋敷の前の通りに見え隠れしている人影に気づくと、道彦にそうささやいた。
「あいつ……マエストロだ。……いったいお屋敷に、何の用だろう」
「何かよからぬことを企んでいるのかもしれないわ」
「どうしよう……と言っても、僕らに何ができるってわけじゃないしなあ」
道彦がうーんと唸っていると、ドロシーが横から口を挟んだ。
「今、お屋敷に注意しに戻ったら、せっかくの冒険がふいになっちゃうわ。私が後で聞いてみるから、今は「アジト」に急ぎましょう」
わたしたちはうなずき合うと、お屋敷に背を向けて「雨迷人」の方角を向いた。
「それじゃあ出発しましょうか、ドロシー様」
「本物の」ドロシーはそう言ってわたしに微笑みかけると、うやうやしく道をゆずった。
※
「あら、新しいお友達?」
「雨迷人」のいつもの席にわたしたちが落ちつくと、ジューゾーが目を丸くしてテーブルに近づいてきた。
「紹介するわ。「ブティック王」屋敷のお嬢さん、ドロシーよ」
「えっ、あの幽霊屋敷の?」
ジューゾーは言ってから「しまった」というように口を両手で覆った。
「そう、そのお屋敷。今日はお忍びでこっそり連れ出しちゃったの」
わたしがわざと秘密めかした言い方をすると、ジューゾーはブルーグレイの瞳を「まあ」と大きく見開いた。
「いけない子たちねえ。……それにしてもあなた、よく見るとすごい美少女ね。この町にこんな子がいたなんて知らなかったわ。……ね、私あなたのファンになってもいい?」
ジューゾーに詰めよられたドロシーは、目をぱちぱちさせながら「え、ええ」と言った。
「やったあ。じゃあアイドルの来店を祝ってみんなにミニパフェをご馳走しちゃうわね」
ジューゾーは浮き浮きした口調で言うと、カウンターの向こうに姿を消した。
「……ところであの怪物が「界魔」だとすると、邪気の持ち主は一体、誰なのかしら」
わたしが問いを投げかけると、ドロシーが真っ先に身を乗り出した。ドロシーはわたしたちが語って聞かせた「界魔」の話をごくすんなりと受け入れたようだった。
「お屋敷にいる誰かだとして……おばあさまを怖がらせたい人ってことよね。だとすれば、ヘンリ―かな。遺産を一日でも早く手に入れたいってことかもしれないわ」
ドロシーのリアルな推理に一瞬、わたしたちの間にいやな空気が漂った。
「大広間で聞こえたあの振動音は関係あるのかな」
空気を変えようとしたのか、道彦が話題を邪気の主から別の方へと振った。
「振動音ってなに?」
ドロシーが興味深げに尋ねた。そう言えば、彼女は異変が起きた直後は自分の部屋にいたのだ。道彦が振動音について説明すると、ドロシーの表情がふっとやわらいだ。
「それはたぶん、地下水をくみ上げるポンプの音だと思うわ」
「ポンプの音?」
「ええ。うちではお客様がいらっしゃるとき、地下水でお酒を割ったりすることがあるの。それで水が濁ったり機械が錆びたりしないよう、時々、ポンプを動かしてるってわけ」
「異変が起きる前にその音がしたって言う事は、ポンプを動かすことが怪物を目覚めさせる合図になってるっていう事かな」
「さあ、それはわからないけど、ポンプを動かすのはいつもギリアムの仕事よ。ただ、あんな時間に動かすことはまずないけど」
「そうか、ギリアムさんはもう寝ちゃってる時間だもんな」
「それに、ポンプのある地下室にいくには、大広間を通って厨房の方に抜けなければいけないの。十二時頃に大広間を通れば、香花の目につかないはずがないわ」
「つまり誰かがその時間にポンプを動かしたとすれば、その人物は香花さんが大広間に降りていった十一時半より前にポンプ室に行って隠れていたってことになるな」
「あの晩、最後まで起きていたのはヘンリーだったらしいけど、香花が大広間に行く途中で寝室に向かうヘンリ―とすれ違ったみたいだから、ポンプを動かしたのはヘンリ―じゃないってことになるわ」
「ふうん……これは難しいな」
そこでわたしたちの推理は煮詰まり、会議は中断されることになった。
「あっ、いけない。もう戻らなきゃ。マーサが外出のついでに東屋を覗いていくかもしれないわ」
ミニパフェを食べ終えたドロシーが、はっと思いだしたように言った。
わたしたちは「雨迷人」を出ると、坂道を引き返し始めた。ほとんど屋敷から出ないというわりに、ドロシーは上りも下りも驚くほど軽やかにすいすいと足を運んでいった。
わたしたちが坂を下り始めてほどなく、下からやってきた小柄な人影とすれ違った。すれ違う瞬間、ドロシーが息を呑む音が聞こえ、何だろうと思った瞬間、背後で足を止める音が聞こえた。
「――ドロシー様?」
驚いて振り返ったわたしたちの目の前に、マーサの険しい顔があった。
〈第十七話に続く〉
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