第15話 赤い髪の小さな悪魔
「ドロシー!」
香花の悲鳴が部屋にこだまし、怪物が動きを止めた。四、五メートルはあろうかという青白い、蛇に似た怪物だった。
「助け……て」
ドロシーが壁に背をつけたまま、顔だけをこちらに向けて助けを求めるのが見えた。
「動いちゃだめよ、ドロシー」
香花が震える声でドロシーに注意を呼びかけた。怪物は粘液でぬらぬらと濡れた体をよじってわたしたちの方を見た。トカゲに似た頭には赤く光る二つの目があり、その下に大きく裂けた口があった。
「そっちに行くわ。じっとしてて」
香花が怪物をにらみ付けながら、そろそろとドロシーの方に歩み寄っていった。
わたしは恐怖を必死でこらえ、どうか怪物が襲いかかりませんようにと祈った。
「このままじゃだめだ。どうにかしてあいつを追い払わないと」
道彦が耳元で呟いた。そうは言ってもどうすればよいのかわたしには見当もつかない。
助けを呼ぶか香花とともにドロシーを守るか迷っていると、いきなり怪物が天を見上げて吠えた。大量の水が穴に渦を巻いて流れ込むような音がとどろき、部屋の壁がびりびりと震えた。香花がドロシーを抱きすくめるようにかばい、わたしは気分が悪くなってその場にしゃがみこんだ。やがてずる、ずる、という床の上を重いものが移動する音が聞こえ、怪物がドロシーたちの方に迫っていった。
「やめてっ!」
わたしは動くこともできず、怪物に去ってほしい一心で絶叫した。怪物はドロシーたちの手前で動きを止めると、口を開いた。びっしりと並ぶ尖った歯の間から赤く長い舌がだらりと垂れ下がり、よだれが床の上にしたたり落ちた。
「おおおおお」
怪物が首をしならせながら吠え、香花の目が恐怖に見開かれた、その時だった。
突然、ばたんという音とともに窓が大きく開け放たれ、黒い影が風のように部屋の中に飛び込んできた。影は怪物の首にぶつかると、羽ばたきのような音と共に床に降り立った。
「何……?」
怪物は身体をよじって吠え、身体の向きを変えた。わたしは目の前にいる影の正体を見て思わずあっと声を上げた。窓から入ってきたのは大きな黒い鳥と一人の女の子だった。
「やっと姿を現したわね。これ以上、悪さはさせないよ」
人間の顔を持った黒い鳥――クロバトロスの背中から降りたったのは、身長一メートルもない赤い髪と目を持った女の子――ミルチだった。
「ミルチ、気をつけなさい。まだ一度も戦ったことのないタイプのようじゃからな」
クロバトロスの助言に、ミルチと思われる女の子は「大丈夫だって」と返した。
わたしは予想もしない成り行きにどきどきしながら、ミルチの姿を眺め続けた。
頭と体がほぼ同じ大きさで、黒い寸詰まりのワンピースに手袋とブーツ、手には先が三つに分かれた槍のような武器を持った少女は、人間のようではあってもやはりこの世の生き物ではないように思えた。
「行くよっ」
ミルチは床を蹴ると、怪物の頭上近くまで飛びあがった。ミルチが大きく開けられた口に向けて槍を振りかざした瞬間、怪物の口から茶色い液体が吐き出された。
「ああっ」
液体はミルチの足に命中し、一瞬で固まった。バランスを崩したミルチは槍を取り落とし、床の上に落下した。
「大丈夫か、ミルチ」
クロバトロスがミルチの上に舞い降り、声をかけた。ミルチはすぐさま立ちあがり、拾いあげた槍で足にこびりついた液体を砕いた。
「やったわね、もう手加減しないよっ」
ミルチは怪物をにらみ付けると、クロバトロスの背に乗った。
「後ろに回りこもう、クロバトロス」
ミルチの号令と共に黒い鳥が飛び立ち、怪物の頭上を飛び越えて背中へと回りこんだ。
「おおおおっ」
ミルチが槍を振り上げた瞬間、怪物の背中に並んでいる鱗がささくれ立ち、ミルチに向かっていっせいに襲いかかった。
「このやろうっ」
ミルチは矢のように尖った鱗を片っぱしから槍でたたき落とすと、「ようし、これで終わりだっ」と叫んで槍を振り上げた。
「人は人に、影は影に!元の場所に戻れ!」
ミルチが呪文のような言葉を口にした、その時だった。怪物の後頭部がぱっくりと二つに割れ、中から歪んだ人の顔がこぶのように姿を現した。
「うわっ」
思わずひるんだ次の瞬間、人の口から屋敷全体を揺るがすような叫びが吐き出された。
叫びは風圧となってミルチをクロバトロスの背から吹き飛ばし、ミルチの小さな身体は壁に叩きつけられ、床の上を転がった。
「痛っ……ちっくしょう、やりやがったなあっ」
ミルチが呻きながら立ちあがると怪物が身体をくるりと反転させ、ミルチに向けて長い舌を伸ばした。
「しまったっ」
舌はミルチの身体に巻き付き、締め上げながら空中に持ち上げた。
「ミルチ!」
わたしは思わず叫び、部屋に飛び込むと椅子をつかんでふりかざした。
「おまえなんかにこの、ミルチ様が……」
ミルチが苦し気に手足をばたつかせた、その時だった。怪物がびくんと体を震わせ、ミルチに巻き付いた舌がゆるんだ。怪物はミルチを放すと、ひと声吠えて後ずさった。
「何?何が起きたの?」
わたしが振り上げた椅子を下ろすと怪物はゆっくりと向きを変え、部屋の隅に移動した。
「待てっ」
ミルチが叫んで駆け寄ろうとした瞬間、怪物が壁に頭を押しつけ、そのまま壁の中にもぐり込み始めた。ミルチが追いついた時には怪物の身体はあらかた壁に吸い込まれ、やがて、跡形もなく部屋から姿を消した。
「ちくしょう、逃げやがったっ」
「ミルチ、あの怪物はわしも見たことがない。あとで本で調べて出直した方がいい」
クロバトロスが言うとミルチはこぶしを握りしめ、悔しそうに地団太を踏んだ。
「……今度会ったら、必ずやっつけてやるからな。おぼえてろっ」
赤い髪の少女はそう言うと、くるりとわたしの方を向いた。
「……おまえ、さっきあたしの名前を呼んだな。どうして知っている?」
わたしは自分の半分もない女の子にひるみつつ、「あの、本で読んで……」と答えた。
「本で?おまえはガクシャかなんかか」
「ううん、違うわ。わたしは中学生。名前は瞳子」
「トーコか。チュウガクというのはなんだ。ガクシャとは違うのか」
「違うわ。……ねえミルチ、あなたが「小さな悪魔」なの?」
わたしが知りたかったことを尋ねると、ミルチはうなずき「人間はそう呼ぶ」と言った。
「やっぱりそうなのね。ドロシーを助けてくれてありがとう。わたし、あなたに会いに「異界の森」の「小鳥の家」まで行ったことがあるのよ。よかったらあなたのことを教えて」
「ああ、わかった。……だけどおまえは色んなことを知ってるな。今度会ったら人間の話も聞かせてくれ」
ミルチはそう言うと、クロバトロスの背にひらりと飛び乗った。
「あの「界魔」はあたしが必ずやっつける。安心しろ。じゃあな」
ミルチはわたしたちに向かって言い放つと、黒い鳥と共に窓の外の闇に姿を消した。
「本当にいたんだな「小さな悪魔」は」
道彦が興奮した口調で言い、わたしは力強く頷いた。
「本のスケッチより可愛らしかったわ。こうなったらわたしたちも、怪物退治を最後まで見届けましょ」
わたしと道彦がうなずき合っていると、ドロシーの肩を抱いた香花がこわごわと顔をのぞかせた。
「あれは何?お化けの仲間?」
青白い顔でたずねる二人に、わたしは大きく首を振って見せた。
「怖くなんかないわ。お化けはお化けでも、悪いお化けを食べる「小さな悪魔」よ」
きょとんとした顔でこちらを見つめる二人をよそに、わたしたちは顔を見合わせ、こっそり笑いあった。
〈第十六話に続く〉
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