第2話 異界の森の番人


「こんな時間によく出てこれたな。見直したぜ、トーコ」


昼間に見るのとは違う、後ろの森に溶け込みそうなほど黒い校舎の前で、道彦はわたしを待っていた。


「晩ごはんの後で外に出るなんて初めてだよ、わたし」


 約束通りに来てしまった気恥ずかしさもあって、わたしはあえて憎まれ口を聞いた。


「まだ宵の口だぜ。これから冒険しようってのに、おねむじゃ困るなあ」


「ちゃんと起きてるわよ。馬鹿にしないで。ただこんな時間に冒険ごっこなんて、普通は思わないってことよ」


 わたしはむっとしながら、本気で冒険を楽しんでいる道彦にほんの少し嫉妬した。


「ま、そうかもね。……それよりさ、懐中電灯は持ってきたろうね。いくら近場でも手ぶらじゃ話にならないぜ」


 小馬鹿にしたような道彦の顔を、わたしは携えてきた大型の懐中電灯で照らした。


「うわっ、馬鹿。……持ってきたのはわかったよ。それじゃ早速、行こうぜ」


 そう言って道彦が取りだしたのは、頭に装着するタイプのLEDライトだった。こういうところに無駄にこだわるのが男の子だ。わたしはちょっぴり呆れながら、歩き出した道彦の背中を見失わないよう、暗い校舎前の道を歩き始めた。


「異界の森」は学校のすぐ裏手で、昼間なら怖くもなんともないただの雑木林なのだけれど、こうして夜に眺めると悔しいが本当にお化けが出そうな森に見えるのだった。


 森と住宅地とを分ける二車線の細い車道をとぼとぼ歩きながら、わたしは夜の丘は本当に異界なのかもしれないと思った。


「見ろよ、ロープを張ってやがる。まったく大人ってやつは融通がきかないよな」


 道彦は遊歩道の入り口に張られた侵入防止のロープを照らし、ひとしきりぼやいてみせた。わたしにしてみれば、ごく当たり前の光景だ。


「こんな時間に入る方がおかしいってことでしょ。中学生が夜に森で冒険ごっこをするなんて、誰が思う?」


 わたしがたたみかけると、道彦は口をひん曲げて「いちいちうるせえな」と言った。


「同じ森でもさ、昼と夜とじゃ違うんだよ。「歴史は夜、作られる」って言うだろ?」


 道彦はわたしの知らない、どこかピンと来ないたとえを口にした。そりゃあ昼と夜とでは違うだろう。夜の方が危ないに決まっている。


「夜ってのはさ、昼間はじっと息をひそめている魔物が動きだす時間でもあるんだ」


 そう言うと、道彦はロープをくぐって遊歩道の中に入っていった。


「ちょ、ちょっと、勝手に入ったら怒られるよ」


 制止を振り切って暗い木立の間に分け行ってゆく道彦を見て、わたしはこの馬鹿な冒険につき合うべきかどうか一瞬、迷った。だが結局はわたしも、気が付くとロープをくぐって道彦の後を追っていた。


「……あのさ、夢を壊すようで悪いけど、妖怪なんていないと思うよ」


「どうしてだ?」


 道彦が背中を向けたまま、敵対心むきだしの声で問いかけた。


「たぶんさ、こうして勝手に入りこんだ誰かが動物かなんかを妖怪と見間違えたのよ。こんな暗い森の中でびくびくしながら歩いてれば、猫だって妖怪に見えるんじゃない?」


「ちぇっ、もっともらしい説明なんかしやがって。もう少し夢のあるやつだと思ってたのにな。……そんなに冷静ならさ、何を見ても驚いたりするなよ、絶対に」


「あんたこそ、猫に驚いて大切な冒険ライトを落っことさないようにね」


 わたしは意地のようにずんずん先に進んで行く道彦を見て、なんだかおかしくなった。


 遊歩道はそのまま歩いてゆくと途中でカーブし、再び車道の方に戻っていく道筋になっている。道彦は道が大きく曲がり始めるところまで来ると、遊歩道を外れて目印も何もない木立の中に足を踏み入れていった。


「ちょっと、やばくない?そっちに行ったら本当に迷っちゃうよ」


「言ったろう?妖怪が目撃されたのは、楢の大木のあたりだって。すくなくとも、その地点まで行かなきゃ目的を果たしたことにならないよ」


 道彦は隊長か何かのような口ぶりで言うと、左右から張り出している枝を手で払った。


 わたしは呆れながらも、遅れまいと後に続いた。こんなところに置き去りにされてはかなわない。遊歩道を外れて数分ほど行くと、道彦の言葉通り少し開けた場所に出た。


「うわあ」


 わたしたちの目の前に現れたのは、まるで黒い怪物のような一本の巨木の姿だった。


「いつ見てもすごいよな」


 道彦が感心したようにつぶやいた。樹齢四百年と言われる楢の大木は、昼間に一度、見たことがあった。その時は森の守り神のように頼もしい姿に見えたのだが、あらためて暗がりの中で見ると、その姿はまるで恐ろしい森の番人のようにも見えるのだった。


「ここだよ。ここで妖怪を見たって人がいるんだ」


 こころなしかこわばった声で道彦がつぶやいた。たしかに何かが出そうな雰囲気だ。


 わたしは大木の上の方を見上げた。太い幹が伸びているのは数メートルほどで、本当ならいっぱいに枝葉が広がっているはずの高さにはなぜか蔓でできた丸い膨らみがあった。


「まったくおかしな木だよな。枝がほとんどなくて、あんな高さに鳥かごみたいなふくらみがあるだけ、なんてさ」


 道彦のもらした感想に、私は素直にうなずいた。この形を見れば十人が十人、みな奇妙な木だと言うに違いない。


「あの中はどうなっているのかしら。小鳥たちのマンションになってたりして」


 わたしがそう言うと、道彦は急にいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「もし空洞だったらさ、一晩くらい住んでみたくないか?「小鳥の家ホテル」なんて名前付けてさ」


「小鳥の家ねえ……」


 わたしは急に肩から力が抜けるのを感じた。やれやれ、妖怪の次は秘密基地ごっこか。


「とにかくさ、その辺をぐるっと回って、動画を撮ろうぜ。今は見えなくても、あとで何かが写ってるのを発見することもあるからさ」


 道彦は意気込んで言うと、リュックから小型のデジタルビデオカメラを取りだした。


「こいつはさ、夜でもばっちり撮れるんだぜ」


 わたしが聞いてもいない自慢を口にしながら、道彦は大木の周りを撮影し始めた。


「いったいそれのどこが冒険なのよ」


 不気味な雰囲気には違いないが、かといって妖怪が出るような気配はまるでない。わたしはだんだん馬鹿らしい気分になりつつ「小鳥の家」をぼんやりと眺めた。やがて雲が晴れたのか、月の光が大木とあたりの草むらを照らし始めた。


「おっ、なんかロマンチックな絵になってきたぞ」


 道彦が興奮した口調でそう言った、その直後だった。すぐ近くの木立ががさりと音を立てた。驚いて振り返ったわたしは、思わず叫び声を上げていた。


「誰かいるっ」


 木立の間に人影らしきものが立っていて、じっとこちらをうかがっていた。


「まじかよ、どこに?」


 道彦がライトであたりをなぎ払うと、人影が光の輪から逃げるように身をひるがえすのが見えた。がさがさと小走りで去ってゆく足音が聞こえ、わたしはその場にへたりこんだ。


「今の……なに?」


「わからない。……でも、妖怪じゃあなさそうだな。きっと俺たちと同じように無断で入ってきた誰かだ」


 道彦が人影の消えた方を見て言ったその時、今度は背後で羽ばたきに似た音が聞こえた。


「えっ」


 振り返ったわたしたちの前に現れたのは、見たこともない異様な形の生き物だった。


「むう、子供までいたか。これは計算外だったわ」


 しわがれ声でそうつぶやいたのは、巨大なカラスに人の顔を据えたような怪物だった。


              〈第三回に続く〉

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