第20話

 どんよりとした朝の光の中、足元に注意を払いながら、緋籠堂を目指して前夜の降雨でぬかるんだ山道を登っている。

 妙な興奮と胸騒ぎのせいでなかなか寝つけず、浅い眠りと覚醒を繰り返していたために、寝不足気味だ。まどろみの中で、かなり強い雨音が聞こえていたような気がする。

 午前九時過ぎ、予定どおり参集殿に集まって待機していた緋籠堂調査隊メンバー六人は、成隆氏の外出を見届けて行動を開始した。

 雨はすでに上がってはいたものの、空はまだ厚い雲に覆われ、陰鬱な情景を醸し出している。灼熱の日射しは小休止というところだが、湿気を含んだ暖気がねっとりと肌にまとわりつくようだ。

 舞依・結依姉妹を先頭に、俺、梨夏、翔吾が続き、しんがりが風早青年という順番で黙々と歩を運ぶ。

 鉛色の空を反映してか、木々の緑も色褪せて見える灰褐色の景色の中に、やがて重苦しさの源のような建物が見えてきた。

「なるほど、あれが緋籠堂ですか」

 背後で風早青年の声がする。それに対して一番近くにいるはずの翔吾が、どう反応したのかはわからない。

 それより、正面に見える緋籠堂の周囲だけ妙に寒々しい感じがするのは、気のせいか。

 やがて一同は緋籠堂の敷地内に入った。風早青年は興味深そうに右斜め前方から御堂を見上げている。

「それじゃ、まず周りを一周してみますね。その後、建物内を調べるということで」

 姉妹にひと声かけて、青年は御堂の右側からその周囲を調べ始めた。ゆっくり足を運びつつ、壁面の上から下まで注意深く視線を走らせたり、ときどき足を止めて縁の下を覗き込んだりしながら、青年は御堂の裏に回る。

 俺も途中まで従いて行ったが、裏は狭いうえに斜面になっていてただでさえ歩き難いのに加え、土が水分をたっぷり含んでいて足元が定まらないことこの上ない。

 一方で青年は、時折り足をとられつつも御堂の縁側に手をついて身体を支え、何か使命感に駆られているかのようにあちこちを見回しながら委細構わず進んでいく。

 面倒になった俺は追従を断念して引き返し、御堂を周回してくる青年を待った。建物の西側は小さな原っぱで、その向こうは例の崖になっているだけだ。

 しばらくして青年は御堂の左側から姿を現した。相変わらずあちこちを注意深く観察しながら歩いているようだが、特に何も言葉を発しないところを見ると、案の定、これといった収穫はなかったのだろう。

「それじゃ、よければ中に入りましょうか」

 そう言って舞依が先導する。

 御堂の入口へと続く木製の階段の下で、足を軽く振って靴に付着した泥を落とし、調査隊メンバーは一団となって階段を上がった。

 舞依が用意した鍵で入口の引き戸を開けると、そこには御簾の向こう側の祭壇を中心に一昨日とほぼ変わらない光景があった。御簾の垂れ下がり具合、座布団の位置、それからほのかに漂う木材と畳の香りも記憶どおりだが、一昨日に比べてなおいっそう薄暗いような気がする。曇っているからだろう。

 三和土に靴を脱ぎ、姉妹に続いて一同は座敷に上がる。初めて堂内に足を踏み入れた風早青年と梨夏は、いささか神妙な面持ちだ。

 青年は堂内を上から下までぐるりと見回してから、正面に鎮座する祭壇に目を向けた。一瞬動きを止め、振り向いて姉妹に了解を求めるような仕草を見せる。舞依が躊躇なく頷いた。

 青年は無言で近づいてさまざまな角度から祭壇をつぶさに眺め、さらに姿勢を低くしてその裏を覗き込む。ちょうど彼のいるあたりに、三日前の深夜、お祖母さんが倒れていたのだろうが、まだそのことに触れる必要はなさそうだ。

 他の者は青年の動きを見守りながらも、所在なさげに堂内をうろうろしている。緋籠堂の中に入って、みんないっそう口数が少なくなった感じだ。

 やがて風早青年は祭壇から離れて、右横の襖に目を留めた。

「この奥は何か……?」

と尋ねながら、青年は姉妹に顔を向ける。

「納戸として使ってます。ご覧になりますか?」

 今度は舞依に先んじて結依が答え、それに対して青年は「お願いします」と返答した。

 懐中電灯を手にした舞依の先導で、風早青年が納戸に入る。

 中は狭いので、俺と結依は戸口のところに立って控えていた。翔吾と梨夏もちょっと内部を覗き込んだだけで、退いて後ろにいる。

「ちょっと懐中電灯を……」

 舞依から借り受けた灯りを手に、青年は奥へ進んだ。

 懐中電灯の光の中に浮かんだ光景は、こちらも以前見たとおりの状態だ。入って正面に灯油缶、左横に小さな古箪笥、さらに奥には大きな長持。

 青年は内部を隈なく照らしながら、立ったりしゃがんだり姿勢を変えつつ細かく検分している。

 光の輪はしばらくゆっくりと位置を変えていたが、そのうちどういうわけか長持の側面を照らしたまま動かなくなった。ぼんやりとした灯りの中で長持を見つめる青年の横顔が、心なしか険しくなっている。

 俺が尋ねるよりも早く、舞依が声をかけた。

「どうかしました?」

 青年は視線を固定したまま、

「ちょっと、ここに手を……」

と言いながら、長持の蓋と本体の境目あたりに右の手のひらを向けた。

「ここ、ほんの少しだけど空気が流れていませんか?」

「えっ?」

 訝しげな声を発して舞依は長持のそばにしゃがみ込み、青年と同様の動作をなす。

 俺も思わず舞依の隣に移動し、同じように手のひらを広げてそこに意識を集中させてみた。空気が流れているって…… つまり、長持の中から空気が漏れているということ? そう言われればそんな気もするが、正直なところよくわからない。

 舞依も首を傾げながら代弁してくれた。

「う~ん、ちょっとよくわかりませんけど……」

 その台詞が終わらないうちに青年は、

「蓋、開けてみますね」

と宣言して立ち上がり、舞依の返事を封じるように彼女に懐中電灯を手渡した。そして、長持の蓋を両手でゆっくりと上に引き上げる。

 次の瞬間、当の風早青年をはじめ、舞依、俺、そして後ろでなりゆきを見守っていた結依、さらには異変を悟って納戸に飛び込んできた翔吾と梨夏の口から、期せずして驚きの声が漏れた。

 長持の中に現れたのはお決まりの衣類や調度などではなく、何と斜め下方に伸びる貧相な階段とその先に続く漆黒の闇であった。

「これは……」

 さすがの風早青年も呆気にとられている。

「舞依……これ、知ってた?」

 結依がかすれたような声を出したが、問われた舞依も唖然として首を振るばかり。二人にとっても青天の霹靂といった様子だ。今までに聞いた話だと、姉妹でさえ緋籠堂に頻繁に入ることはないというのだから、知らないのは当然か。

 闇の中から土の匂いを含んだ冷気が漂ってくる。長持の蓋の隙間から漏れていた空気は、この穴の奥から流れてきているに違いない。

 結局、長持はこの秘密の穴の入口を隠すための張りぼてだったということだ。かなりぞんざいな仕掛けだが、緋籠堂自体が聖域中の聖域として巫女以外の人間の立入りを拒んできた場所だから、仕掛けの製作者そして利用者はよもや部外者に発見されることなど想定してもいなかったのだろう。その製作者や利用者とはいったい……。

「入ってみますか?」

 青年の問いに、姉妹は戸惑いながらも頷く。俺ももちろん異存はない。翔吾は……梨夏の顔を見た。

「みんなと一緒に行くわよ。ここに一人で残るよりマシ」

 梨夏はそう言って身を震わせた。それはそうだろう。

 風早青年は懐中電灯の明かりで下方の様子を調べていたが、

「階段下は土の地面になっているようだから、降りるなら靴を履いたほうがいいでしょうね」

と言った。

 青年の言葉に従って、みんなはいったん三和土に戻り、それぞれ自分たちの靴を手に取って納戸に戻る。

 各自が靴を持ち去って空になった三和土を目にした瞬間、俺の頭の中で閃光のように閃いたものがあった。

(事件当夜、お祖母さんもあの階段を降りるために草履を持っていったんじゃないだろうか?)

 であれば、舞依と結依が死体を見つけた時、三和土に草履がなかったことの説明はつく。それは取りも直さず、お祖母さんを長持の仕掛けの製作者か利用者だと見なすことになるわけだが。

 では、その草履が時間を置いて忽然と姿を現した理由は? お祖母さん殺しの真犯人が細工を施したとしか考えられない。

 俺はこの発見をすぐみんなに伝えようとしたが、すんでのところで思いとどまった。

 風早青年にすべてを打ち明け、長い説明をしなくてはならなくなる。それに今は先を急ぐべきだろう。くずくずしていると、成隆氏が外出から戻って何かを察知するかもしれない。

 納戸にとって返して靴を履き、いよいよ闇の中に降りていく。

 階段の長さはわずか三メートルほどで、周囲の壁は剥き出しの土だ。ただ、階段を設けるために多少は加工を施したような痕跡がある。

 階段を降りると、周囲の空気が急に冷たくなったように感じた。さっきまでの重く湿った熱気が嘘のようだ。

 そこからほぼ九十度右に折れて小さな横穴が続いている。

 風早青年は闇に包まれた穴の先を見やりながら、少しの間、何やら思案する様子だったが、

「懐中電灯一本じゃ心許ないな。御堂にあった灯油ランプは使えませんか?」

と姉妹に問うた。

「大丈夫です。戻って取ってきます」

 言下に結依が答え、身を翻して今降りてきた階段を上っていく。待つほどもなく、結依は言葉どおり灯油ランプを携えて戻ってきた。

 風早青年が持つ懐中電灯の灯りを頼りに、結依がライターでランプに火を点けると、たちまち周囲の明るさが増した。

 横穴の幅は一メートルちょっとで、高さは大人が直立してどうにか歩ける程度。身長の高い人だと、頭が天井にぶつかるかもしれない。

 その天井や横の壁は、露出した岩盤だ。ところどころにひび割れというか亀裂のようなものが見える。崩れたりしないだろうな。

 風早青年を先頭に一列縦隊で十メートルほど恐る恐る進むと、前方に闇の領域が広がった。どうやら穴が広くなってそれなりの大きさの空間が形成されているらしい。

 灯りで照らすとほぼ同時に、みんなの口から嘆声が漏れた。そこはざっと見て一辺が五メートルぐらいの方形の空間──地下室と称してもいいような場所だった。

 その地下空間に入ってすぐ右側に、炊事場のようなものが見えた。

「なんでこんなところに……」

 薄暗がりに浮かぶ舞依と結依の顔が茫然としている。

 それは、洞窟の地形を利用しつつ、天然の岩や石、そしてレンガで組み上げたかまどだった。

 素人細工のようだが、部材の隙間は粘土かモルタル様のものできちんと埋められているし、焚き口には炭化した木材の一部──かなり古いもののようだ──が残っている。おまけに、かまどの上には大きな鍋というか釜というか、食材を入れて煮炊きできるような調理器具が乗っかっているので、それなりにちゃんと機能を果たせるのだろう。

 かまどの横には高さ四十センチ・直径三十センチほどの水がめが二つ、地べたに直接置かれていた。

 風早青年は勇敢にも蓋を取って、懐中電灯で中を照らして覗き込んでいる。俺も近づいてみたが、何やら得体の知れない臭気が漂ってきて、思わず顔をしかめた。それほど強くはないものの、かすかにドブのような匂いがする。

「腐水臭か……」

 誰にともなくつぶやいた風早青年の横顔が、何だか険しい。

 青年の肩越しに水がめの中がちらりと見えた。液体の中に何やら得体の知れないものが浸かっている。

「何なんですかね、これ」

 青年に話しかけたが、彼は難しい顔で首を傾げてから、ゆっくりとかぶりを振るだけだった。彼にもわからないのか、それとも何か答えたくない理由があるのか。

 そもそも、こんなものを作るのに使う水をどこから運んできたのだろうか……と一瞬疑問を抱いたが、すぐに答えは見つかった。

 水がめの横に水たまりというか小さな池があるのだ。直径は一メートルに満たないくらいで、水深は一見よくわからない。どうやら湧き水らしい。池に湧いて溜まった水は、そこから左に向かって浅く小さな流れを作り、ほとんど音もたてず動いている。

 その先は……というと、粘土で作られたと思われる高さ三十センチほどの囲いの向こうに、暗黒に包まれた一画があり、流れはそこに吸い込まれていた。

 それは壁から地面にかけて穿たれた、かなり大きな亀裂だった。高さは二メートル近くで幅は約一メートル。深さは……不明。

 転落防止にはまったく役立たない中途半端な囲いが却って不気味で、高所恐怖症気味の俺としては近づいて覗き込む気にもなれない。結依が下げ持つランプの薄明かりが、亀裂下方の闇に溶け込んでいる。その闇の中から何だか得体の知れない邪気が吹きあがってくるようだ。

「これ、底なしの井戸ってやつじゃないのか? ずいぶん深そうだ」

「おい、あまり近づくなよ。危ないぞ」

 亀裂に接近して恐る恐る覗き込んでいる翔吾に、俺は注意を発した。

 それを聞き流して、翔吾はしばらく下方を眺めていたが、後退しながら振り向き、ひと呼吸おいて妙な顔をした。

「向こう……何か変なものがあるぜ」

「変なもの?」

 翔吾が顎で示した方向──地下空間の入口から見て正面──を振り返ると、彼の言葉どおり、洞窟の中にはいかにもふさわしくないものが目に入った。

 それは衝立だった。居酒屋の座敷に置いてあるような高さ一メートルほどの衝立そのものなのだ。それが二枚並べて置かれている。

「なんだ、これは?」

 翔吾と二人で首を傾げながら近づき、衝立の向こうを覗き込んで、今度は絶句した。

 寝床だ。岩壁と衝立に仕切られた一画に、布団と枕二つ、夜具一式が乱れなく整えられているのだ。

 ベッドの役目を果たしているのは、おあつらえ向きの広さを持つ平らな岩の台で、横の岩壁には、窪みを利用して小さな祭壇が置かれている。祀られているのはヤマガミ様か。

 夜具そのものは真新しい感じの品で汚れているわけでもないが、岩盤のベットじゃ固すぎるだろうし、ヤマガミ様に見守られながらでは、安眠などできそうにない。おまけに二つの枕というのも、かなり意味深長だ。

 あまりにもちぐはぐで異質な光景に、俺と翔吾は唖然として顔を見合わせた。風早青年や梨夏も無言で目を見張っている。

 こんな洞窟の中に寝床とか、いったい何なんだ。

 半ば呆れて舞依と結依に声をかけようとしたが、姉妹の様子を一目見て、俺は思わず口をつぐんでしまった。

 二人は、お互いに寄り添ったまま硬直していた。

 光の加減で顔色はよくわからないが、眉根に嫌悪が宿り、形の良い唇はわずかに開いたまま強張りながらも、わなわなと震えている。結依が両手でその口元を押さえながらつぶやいた。

「何なのよ、これ……」


 脳裏に稲妻が走った。

 もしかして、ここは緋劔神社にとっての秘中の秘、聖域中の聖域──〈種受けの儀〉が執り行われる場所──ではないのか。儀式の舞台が緋籠堂にありと予想した風早青年の勘は、ほぼ的中したのだ。

 その青年の話では、あくまで風習・風俗の一形態であり、一概に異常とは決めつけられないとのようだが、俺たちの感覚からすると、やはり忌まわしくもおぞましい悪弊でしかない。

 ましてや今回の一連の変事がなければ、舞依か結依のどちらかがここで儀式に身を委ねざるを得なかったことを思うと、嫌悪と憤怒に身体が震える。

 幸か不幸か、お祖母さんの不慮の災難によって、その忌まわしい儀式からは解放されることになるはずだ。

 でも姉妹にしてみれば、長きにわたって蓄積されてきた嫌悪の感情は、そう簡単には払拭できるものではないだろうし、儀式の現場を目の当たりにした今、平静でいられないというのは無理もあるまい。

 結依が耐えられなくなったように目を背け、よろめきつつ後ずさった。舞依がそれを支えながら付き従う。

 他のメンバーも、見たままの光景と姉妹の様子から、ここがどういう場所なのか、おおかた察しはついたらしい。

「ここが例の……儀式の……?」

 梨夏の発した語尾は、不明瞭なまま宙に消えた。

「おそらく……な。それにしても……」

 翔吾の言葉も途切れ途切れで続かない。

 風早青年は予想の的中を誇示することもなく、沈黙を守ったままこの一画を見据えていたが、ふと我に返った様子で促した。

「ここであまり時間を費やすのはまずいな。まだ先があるようだし……」

「先?」

 青年の示す方向──右手に目を向ける。

 ごつごつした岩壁の凹凸が複雑な陰影を作っていて一見わかりにくいが、闇に閉ざされた一隅がある。どうやらさらに洞窟は続いているようだった。

「まだ奥があるんだ……」

 梨夏がつぶやいて身体を震わせた。

 この闇の先には、秘められた何かがまだあるのだろうか。それを確かめるためには、とりあえず進むしかない。

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