第21話

 懐中電灯の灯りに照らされる洞窟の壁は、むろん剥き出しの岩だ。

 緋籠堂から先程の地下空間にかけての短いトンネルには、かなり人手が加えられた痕跡が認められたが、今進んでいるところは、ほとんど天然のままといった様相である。

 恥ずかしながら洞窟イコール鍾乳洞という誤った認識しか持っていなかった俺は、洞壁といえば内部の湿度が高く、流水がつきものというイメージに囚われていた。

 しかしここは、今のところ先程の地下空間しか水の流れている場所はないようだし、爽やかとはいえないまでも、じめじめ湿気てはいない。

 地学的にどのような過程を経て生成されたのかはともかく、この洞窟は、緋剣山を占有管理していた栞梛家の先祖──お祖母さんかもしれない──が、何かの折りに発見したものだろう。

 そして、ヤマガミ様信仰の秘められた聖地として利用すべく、自分たちにとって都合よく使えるように手を加えたのに違いない。

 それにしてもこの洞窟、いったいどこまで続いているのだろう。ほの暗い灯りの中で、メンバーの顔に不安そうな陰影が刻まれている。

 その剣呑な空気を払拭するかのように風早青年が言った。

「途中で洞窟が分岐していたら、それ以上進むのはやめよう。迷う危険がある。探検用の道具もないしね」

 確かに洞窟を探検するようなミステリーでは、ロープなどを使って少しずつ探索を進めていくシーンがあるけど、あいにくそんなものは用意していない。洞窟の存在は想定外だったわけだから、準備するはずもない。

 探検の方針は決まったものの、その地下洞は、いよいよ道とか通路とか呼べるような代物ではなくなってきた。

 なるべく平坦で歩きやすそうな場所を探して進んでいるが、至るところに凹凸があり、上下左右に岩や石が飛び出し、歩きにくいことこの上ない。油断していると、すぐに足をとられて転びそうになったり、突き出した岩に頭をぶつけそうになったりする。四つん這いになって進まなければならないような難所もある。

 ただ幸いなことに、風早青年が心配していたような分岐はなく、初めの地下空間にあったような深い亀裂も見当たらない。

 地下洞は広くなったり狭くなったり、右に曲がったり左に折れたりを繰り返しながら、全体としては緩い登り坂になっているようだった。

 ゆうに一時間以上歩いた──というより、ひたすら進んだように感じるが、時計を見ると三十分弱しか経っていない。

 そろそろ小休止がほしいなと思っていた折も折、疲れに追い打ちをかけるかのような急な上り坂が現れた。みんなの口から悲鳴に似た嘆声が漏れる。

 少し休憩を……と口を開きかけたところへ、梨夏の声が重なった。

「あそこ、何だか明るくなってる!」

 彼女が指差す坂の上の方に目をやると、その言葉どおり闇の中にぼんやりと明かりがにじんでいるのが認められた。もしかして出口だろうか。

 懐中電灯の光の中に浮かぶ上りのトンネルは、途中で右にカーブしており、そのカーブのあたりで岩壁が外の明かりを反射している様子なのだ。

 洞窟の終点らしいものを目前にして、俺たちは残されていた力を振り絞り、坂をよじ登った。登るにつれて周囲の明るさが増し、枯渇寸前だった元気も少し回復する。

 右カーブを曲がり切ると同時に上り坂の頂点に到達した。唐突に闇の終わりが訪れ、視界が開ける。間違いない。出口だ。

 暗闇に慣れた視覚には外界は明る過ぎて、一瞬、目がくらむ。

 相変わらず曇天のようだが、少しばかり雲が薄くなって、その隙間から鈍い陽光が差し込んでいる。

 やがて機能を回復した視覚は、眼前に広がる光景をおもむろに捉えた。そこは、険しい山中には似つかわしくない、かなりの面積をもつ平坦地だった。

 広さは……というと、ざっと見てテニスコート三つから四つ分くらいはあるのではないか。ただ夏だというのに、縁辺に立ち並ぶ樹木の緑とは対照的に、妙に白茶けて色あせた野原だ。

 暗闇の中をさまよったせいで、すっかり方向感覚が狂ってしまったが、薄雲にぼんやりと輪郭を滲ませている太陽の位置と腕時計が示す時刻──十時五分──から判断すると、洞窟の出口はやや東よりの南に向いているらしい。

 ここから振り仰ぐ緋剣山の山頂は南西方向に位置しているので、俺たちは山の北側から洞窟に入って頂上の真下を貫通したわけではなく、北東寄りの山腹をくぐって南東側に抜けたものと思われる。

 みんなしばらく洞窟の出口付近にとどまっていたが、風早青年が注意深くあたりを見回しながら、野原に足を踏み出した。残りのメンバーも、何となくそれに従う。

 洞窟内部は重く冷たい空気に満たされていたが、ここでは重さが解消された代わりに多少の爽涼感が混ざっている。閉鎖された空間と開放的な外界の差だろう。それに、全体として上り坂の通路を辿ってきたため、かなり標高が高くなっているのかもしれない。

 洞窟の出口つまり野原の入口は、山腹の斜面がちょうど地面と接する境界に穿たれている。そこから平坦地が南南東に向かって、わずかな下り斜面を形成しながら広がっているようだ。

 先の方まで歩いていって下方を覗いてみると、平坦地の端は切り立った崖で、崖下はかなり深い谷になっていることがわかった。対岸からすぐ南に続く山々の隆起が始まっているため、この平坦地自体が大きな谷間に位置する形になっている。とはいえ、これといった遮蔽物はないから日当たりも風通しも悪くないはずだ。

 それなのに、この野原は見渡す限り、草や灌木といった植物の緑よりも、枯れ草のような白茶色や地面の土色のほうが目につく。空気の冷たさともあいまって、何だか荒涼とした光景だった。夏なのに寒々しい。

「枯野……だな」

 何気なく声に出してつぶやきながら、近づいてよく見てみると、同じような形の葉っぱを持つ植物が群生していた。枯れ草のような……ではなく、本当に枯れているようだ。夏なのに萎れている。

 植物には疎い俺には、何という草花なのかわからないが、斜め前に数メートル離れたところで、しゃがんで葉っぱを観察していた風早青年が、振り返りつつ口を開いた。

「これ、オリエンタルポピーじゃないかな。日本名はオニゲシ」

 俺の右隣りにいた舞依と結依が反応する。

「オニゲシ?」

 舞依も俺と同様に花卉に詳しくないのか、ピンとこない様子で首を傾げていたが、結依は、手に下げていた灯油ランプを地面に置き、

「懐かしい」

とつぶやきながら、少しばかり顔をほころばせて青年のそばにしゃがみこんだ。

「昔、小学生の頃に学校で栽培しようとしたんです。でも花が咲かなくてすぐダメになってしまって……。確か、オニゲシって暑さに弱いんじゃないですか?」

 暑さに弱い植物ってあまり聞かないな。でも、だから今、枯れているのか。

「寒さには比較的強いけど暑熱が苦手だから、北関東以北じゃないと夏は越せないとされているんだよね。でも、これは……」

 青年はしゃがんだままで、草の根元を覗き込みながら言葉を継ぐ。

「ここが標高の高い山中であることと、おそらく地形的な要因で気温や湿度がそこまで高くならないんだろう。一見枯れているようだけど、おそらく根っこは生きているよ。枯死したと勘違いして、誤って処分してしまうことが、よくあるらしい」

 俺は青年の博識に改めて感心した。

「よく知ってますね、風早さん。歴史だけじゃないんだ」

「知人がね、オニゲシを好んで栽培していたもんだから……」

「じゃ、あの時もダメになってなかったのかもしれないな」

 結依は面を上げて懐かしむような目をした。

「写真で見たオニゲシの花を覚えてるわ。大きくて真っ赤な花……」

 風早青年は結依の言葉にうなずきながら、周囲を見回す。

「それにしても、これほどの群生地があるとは……」

 そこで青年は唐突に口をつぐんだ。そして眉間にしわを刻んで、結依の言葉を復唱する。

「大きくて、真っ赤な花……」

 その時、俺の頭の中に天啓のようにある言葉が浮かんだ。


〈真紅の絨毯〉


 ほぼ同時に、風早青年が語気鋭くその言葉を声に発した。みんなの視線が青年に集中する。

「真紅の絨毯って、去年事故死した鴇松氏の……?」

 翔吾の問いかけに青年はやや上気した面持ちで、

「オニゲシ即ちオリエンタルポピーは五月から六月にかけて四、五日間だけ、花を咲かせるんだ。色は赤や橙のほかに、ピンクや白もあるけど、これだけの広さで赤い花が一斉に咲いたとしたら……そして、それがたまたま衛星写真に写り込んでしまったとすれば、〈真紅の絨毯〉という表現もあながち誇張じゃない。インターネット検索で見つからなかった時、季節性の光景かと思ったんだけど、これで説明がつく」

 青年はいったん言葉を切り、物憂げな表情で枯野を見渡してから続けた。

「いつの頃からこのオニゲシが群生しているのかわからないけど、相当昔からだとすると、緋剣山の語源もオニゲシの赤、つまり緋色に由来するのかもしれないね」

〈真紅の絨毯〉の正体は青年の言うとおり、この群生地なのか。そうすると……

「鴇松氏がここを目指して緋剣山に入ったとして、あの洞窟以外のルートでここに来ることができるのかな?」

 俺は疑問を口にした。だが青年をはじめとして、みんな首を傾げるばかりだ。

 無理もない。舞依や結依でさえ、こんな場所があることを知らなかった様子なのだから、他所者にわかるはずがなかろう。

 考えるに、鴇松氏が緋籠堂側の洞窟の入口を発見することはほぼ不可能だから、彼が試みたとすると、緋剣山の山頂から北東に伸びる尾根を越えるルートか、逆に死体の流れ着いた小川に沿って遡るルートか、二つしかあるまい。

「ただ、この枯野は上りも下りも急な斜面で囲まれているからねえ。ある程度までは近づけても、ここに足を踏み入れるのは難しいように思うな。もしかすると、ここは洞窟経由でないと来ることのできない隔絶された場所じゃないだろうか」

 枯野の縁にたたずんで急峻な斜面を見上げながら、青年は言った。

 おそらく鴇松氏は、ここにはたどり着くことなく、緋籠堂の近辺で何らかの奇禍に遭遇したのではないか。〈真紅の絨毯〉と思しき場所を発見したことで、鴇松氏の足取りについても、青年の推測がかなり裏付けられる形になってきた。

「警察が事故として処理したものを覆すつもりはない」としながら、わざわざ風早青年がこんな僻村にまで出張ってきたのは、むろん真相を明らかにしたいからであって、その意味では、彼の調査においてある程度の成果があったと言えなくもない。

 だが、事の核心──足を滑らせて転落した等の事故か、何者かに突き落とされた等の殺人か──については、これ以上確かなことを突き止めるのは難しいのではないか。たとえ当時、調査の目をすり抜けた証拠があったとしても、それを一年後の今、俺たちの手で見つけられる可能性はきわめて低い。

 そのあたりのことをどう考えているのかわからないが、風早青年、今度は崖の際で再びしゃがみ込んで地面を注視している。

 そこはちょうど崖から突き出した岩に遮られる形で日陰になっており、大小の石や朽ちてボロボロになった倒木が無造作に転がっていた。その黒ずんだ倒木の割れ目や重なり合った石の隙間のそこかしこに、所狭しと生えているのは、何と多量のキノコだ。

 傘は茶褐色で直径は二センチくらい。スーパーマーケットで売っているシメジにどことなく似ている。他にも、色は同様だが傘の中心が白っぽくなって少し開き気味のものや、黒っぽい傘が半球状に丸まった個体もある。

 俺は青年の傍らにしゃがみ込んで何気なく、

「これ、食べられるんですかね。それとも毒キノコですか?」

と話しかけたが、どういうわけか彼は返事もせずに厳しい──というより険しい横顔を見せたまま、キノコの傘や柄を指先で突っついている。

 ややあって青年の口から発せられたのは、

「……まずいな」

のひと言。

 一瞬、言葉の意味を図りかねた。青年が大胆にもキノコを口に含んで洩らした感想かと早とちりしたが、彼は怪訝な顔をしているであろう俺に向かって言葉を継ぎ足した。

「これ、毒キノコだよ。通称・幻覚キノコと呼ばれるものだけど」

「幻覚キノコ!?」

 思わず声高に復唱してしまった。唐突な大声に驚いて、みんなが何事かと集まってくる。

「うん、間違いない」

 青年は険しい表情のまま、

「これはヒカゲシビレタケで……それからこっちがワライタケ」

 シメジに似た茶褐色のものと黒っぽい傘をもつキノコを順番に指差して続けた。

「どちらも幻覚作用をもつマジックマッシュルームで、麻薬原料植物として法律で規制され、故意の採取・所持・販売が禁じられている。もっとも、自生するキノコだから存在自体は不思議なことでも悪いことでもないんだけどね……」

 青年はそこで少し口ごもり、何やらいたわしげな視線を舞依と結依の方に送った。姉妹も含みのある気配を察して、その視線を受け止める。青年はゆっくりと首を振りながら言葉を継いだ。

「ただ、誰かがこれらを採取して利用しているのは確かなようだ」

 一瞬の沈黙の後、少し気色ばんだ様子で反応したのは結依だった。

「どうしてそんなことがわかるんです!?」

 青年は「誰かが……」と曖昧な表現を使ったが、それができるのは緋剣山を管理している緋劒神社、つまり栞梛家の関係者しかいない。結依にしてみれば、自分の家族が違法行為に手を染めていると糾弾されたように感じたのだろう。

 結依の追及を受けた青年は、相変わらず悩ましげな顔のままで説明を加えた。

「洞窟内の炊事場に水がめが置いてあったよね。あの中に浸かっていたのが、これらと同種のキノコだったんだ。煎じて湯に溶け出す幻覚成分を抽出しようとしていたのかもしれない」

 結依があたかも物理的な衝撃を受けたかのようによろめいた。慌てて結依を支えた舞依の面も蒼白だ。翔吾や梨夏は声も出せずに唖然としている。

「どうして……そんなことを……」

 ややあって、舞依があえぐように声を絞り出した。

 風早青年は少し逡巡する様子を見せたが、

「あくまで僕の推測だけど、緋劔神社の儀式で使っていたとは考えられないだろうか」

「あっ!」

 俺たちは一斉に声をあげた。舞依は驚きを抑えるかのように口元に手を当て、結依も大きく目を見張る。姉妹はお互いに顔を見交わし、それから異口同音につぶやいた。

「もしかして……山霊漿?」

「そう、山霊漿とか言ってたね。怪異譚を話してくれた頼富氏も」

 青年が重々しく頷いた。

「儀式で山霊漿なる秘薬と称して、キノコを煎じるか何かした液体を飲ませる。すると飲んだ人は、体調や精神状態、その他の条件によっては幻覚を……」

「それじゃ、あの怪談は幻覚だったってことですか!?」

「あくまで一つの解釈だけどね。そう考えれば〈逆立ち女の幽霊〉とか〈山の中の隠れ館〉という非現実的な怪現象にも一応の説明がつく。そうやって超常現象を体験させることで、人智を超越した存在である〈ヤマガミ様〉に対する畏怖を植えつけ、信仰心を強化しようとしたんじゃないだろうか。世界的に見れば、宗教儀式における常套手段と言えなくもないんだ」

 もはや俺たちは風早青年の説明に聞き入るしかない。

 衝撃の連続に呆然自失の状態に陥っていた舞依・結依の姉妹だったが、少し落ち着きを取り戻してきたのか、

「実は、山霊漿……わたしたちも飲まされたことがあるんです」

と、過去に二度ばかり経験した節目の儀式の際、お祖母さんに命じられるまま山霊漿とやらを口にしたことを告白した。

 その時は、液体を口にして三十分を過ぎたあたりから、視覚的には色とりどりに光る幾何学模様や極彩色の虹のようなものが現れては消え、さらに手や足の感覚がなくなって宙に浮いているような感じになったという。それから感情の振幅がきわめて大きくなり、自分がひどく惨めな存在に思えて涙が止まらず、偉大なものにすがりつきたくなったり、そうかと思うと逆に、自分がとてつもない力を得たような安心感に満たされたりした、と舞依は、過去から記憶を一つ一つ取り出すように朴訥と語った。

 風早青年は、幻覚剤の使用について「宗教儀式における常套手段」などという言い方をしたが、その見解にはどうしても肯けなかった。

 邪道だ。まともな宗教のやることじゃない。副作用とか悪影響の恐れもあるだろうに、大切な孫娘に幻覚剤を飲ませてまで、強烈にヤマガミ様信仰を植えつけようとしたお祖母さんの執念に、おぞましささえ感じる。

 しかし、ヤマガミ様信仰とそれを奉じる栞梛家の因習をひたすら守り続けようとするお祖母さんの妄執は、その程度の生易しいものではなかったことを、俺たちはすぐ後に思い知らされることになる。

「とにかく、いったん戻ることにしよう。僕らが動き始めてから一時間半以上経っている」

 風早青年がいつになく焦燥の色を浮かべて促した。腕時計に目を落とすと、確かに十時半を過ぎている。

「安全圏に脱出してから善後策を立てなければ……」

 そうか──。

 青年の言葉によって、俺は自分たちが今、微妙というより危険な立場に置かれていることに思い至った。

 幻覚キノコを使っていたのがお祖母さんであることはもう間違いない。それにひょっとすると成隆氏あたりが一枚噛んでいた可能性もある。

 そうなると、俺たちは図らずも彼らの違法行為──犯罪──の形跡を目にしたことになるではないか。それを成隆氏に知られたら……。

 結依の話によると、成隆氏は今所用で赤菜町に出かけているとのことだが、いつ何時帰ってきて俺たちの動きに気づくかわからない。

 俺たちは追い立てられるように枯野を後にし、再び闇の世界の旅人となった。

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