第19話

「まず、二十年前の失踪疑惑と昨年の事故死の当事者である両〈ときまつ〉氏についてなんだけど、結論から言うと、 二人は近親者、おそらく親子だという可能性が高まった」

 やはりそうだったか。時松賢司と鴇松皓司──読みと字面の相似から予想はしていたが……。

 元村長・大熊氏が「二十年あまり前のことじゃけん、記憶が曖昧になっとるけど……」と断ったうえで語ってくれたのは、次のような話だったという。

 大熊元村長が初めて時松賢司氏に会ったのは、彼が消息を絶つ二年前の秋のこと。

 巡礼者として緋剣村を訪れた時松氏だが、村の歴史や風俗にも興味を抱いたらしい。村役場の図書室で村史を閲覧した後に、話をお伺いできれば……ということで応対したのが大熊元村長だった。

 時松氏は翌年と翌々年──その年に失踪するわけだが──にも来村し、緋剣山や御籠堂での修行明けに元村長を訪ねるほど、意気投合したという。親しくなるにつれ、時松氏の身の上話や愚痴を聞かされることもあった。

 時松氏の妻は酷い浪費癖をもつ女性で、離婚してなお、彼のもとに借金取りが押しかけてくるようなありさまであったらしい。

 本当の姓〈鴇松〉を隠して〈時松〉なる変名を使っているのも、元妻からの接触を避けるためであること。その他諸々の事情によって、一人息子を児童養護施設に預けざるを得ない時期があったこと。そういった負の連鎖を断ち切るために巡礼として各地を行脚している、と時松氏は涙ながらに語ったという。

「時松さんは、誰かに何かを懇願されたら嫌と言えんような人じゃったけん、そこを悪女や奸物に利用されたんじゃなかろうか」というのが、元村長の時松氏に対する人物評であった。

 風早青年が続ける。

「僕も、鴇松とごく親しかった知人に連絡をとって確認してみたんだけど、やはり鴇松は幼少の一時期、施設暮らしをしていたらしい。つまり大熊元村長の話とも符合するんだ」

 ゆえに青年は、時松賢司と鴇松皓司が父子であることを確信するに至ったという。

 それにしても、こんな山間の僻村を二十年の時を経て親子が訪れるというのは、単なる偶然なんだろうか。

「その知人に探りを入れてみたんだけど、鴇松が父親の行方を追って緋剣村を訪れたのではという可能性については否定的だった。少なくとも昨年の事故死以前に、鴇松からそれらしい話は聞いたことはないそうだ。それに鴇松は、緋剣村へは『真紅の絨毯を探しに行く』と、自ら語っているしね」

 風早青年はそう言う。しかし、あからさまな因果関係はないにせよ、目に見えない父親の念が息子を呼び寄せたのかもしれない。

「今、ふと思ったんだけど……」

 それまで黙って聞いていた翔吾が口を挟んだ。

「昨年の事故死の際に、死んだ鴇松氏の名前は報道されたはずですよね。元村長は〈時松(鴇松)賢司〉と〈鴇松皓司〉の符合に気づかなかったんですか?」

 すると、風早青年は呑み込み顔で頷きながら、

「その点については僕も少し引っかかったんで確認したところ、大熊元村長は去年の夏に持病が悪化して一時重篤な状態に陥っていたとかで、報道を目にすることができなかったらしいんだ」

と答えて、少しの間言葉を切り、咳払いの後にやや声の調子を落として続けた。

「大熊元村長を訪ねたのは、鴇松の件ともう一つ、緋劔神社……というか栞梛家について話を伺いたかったからなんだ。村の人から客観的なコメントはなかなか聞けそうにないからね」

 青年はそう言って、村人の乗客がいないバスの車内を見回した。

 確かに今の緋剣村は、表向き村人全員が緋劔神社、つまり栞梛家シンパといって差し支えあるまい。内々ではいろいろな考えや思いが燻っているのかもしれないけど。

 俺たちだって結依の実家のことを悪く思いたくない……が、例の〈種受けの儀〉に関しては、あまりにも常軌を逸していると評さざるを得ない。村人たちは〈種受けの儀〉について、本当に何も知らないのだろうか。

 だが、その話に入る前に、車窓には見覚えのある景色が戻ってきた。緋剣村のバス停が近づいているようだ。

 このまま中途半端に話が途切れた状態で、別れるわけにはいかない。

「風早さん、この後、何か予定あります? もしよければ、どこか場所を変えて話の続きを……」

 早口で頼み込むと、青年はわずかの間、俺の顔を直視して……頷いた。声にならない訴えを感じ取ってくれたのかもしれない。


 場所を変えて……と言ったものの、その場所は限られている。バスを降りて俺たちが向かったのは、やはり錦湯だった。駐在所近くの喫茶店〈Cafe Mococo〉は手狭なので、他の客に話の内容を聞かれてしまう恐れがあり、具合が悪い。

 一昨日、頼富氏の怪異譚を聞いた時は座敷席だったが、今日は土間のテーブル席に着いた。中途半端な時間なので、幸いにも客は少ない。

 おやつ的な軽食を注文した後、風早青年はおもむろに口を開いた。

「栞梛家について元村長に尋ねたかったというのは、女系一族としての血筋の継承のことなんだ」

 いきなり急所を抉るような風早青年の発言に、胸を突かれる思いがした。翔吾と梨夏も瞬時に表情を引き締めて、心持ち身を乗り出す。

「そもそも〈女系〉って、どういうことかわかるかな?」

 青年は俺たちの顔をぐるりと見回す。何となくイメージは浮かぶものの、正答の自信がないため黙っていた。

「女親つまり母方の血筋を通して家系が伝えられていく制度で、母から娘へと相続が行われるんだ。母方の系統の血縁によって集団を形成する社会を母系社会という。例えば、最後の母系社会といわれる中国のモソ族は、すべて母方の血縁者で家族を構成し、最長老の女性が家長として一族のさまざまな物事を取り決める。驚くべきことに、モソ族の女性には夫という存在はなく、自分の選んだ恋人がいるだけなんだ」

 俺たちは一様に目を丸くする。その一瞬だけ青年は言葉を切って、すぐに続けた。

「モソ族の男は自分の母方の実家に住んでおり、妻のいる家へ夜だけ通う。恋人とのあいだに生まれた子供は、女性たちの庇護のもと、一族のなかで育てられる。夫には子どもの養育権はなく、妻子を養う義務もないんだな。したがって、モソ族の子供には父親という存在もないことになる」

 こうなると、もはや風早青年の独壇場である。俺たちはひたすら黙って拝聴するしかない。

「翻って日本に目を転じると……縄文から弥生にかけての先史時代には母系社会が存在していたんだ。この時代、生活の拠点である集落において、人々は各自が財産を所有しているわけではなく、共同体の──言うなれば──共有財産に全面的に依存しながら生きていたんだよね。つまり、今日的な家族の単位はほとんど意味を持たなかったわけだ。こうした社会にあっては、生命を生み出す女性の立場が圧倒的に強くなる。最小単位としての血縁集団の中では母が家長となり、その母が中心となって共同体の運営を行った。財産というものがあるとすれば、それは母から娘に伝えられるのが普通であり、男子は成人すると家を出ていったんだ」

 注文した軽食がテーブルに並べられても、風早青年の長広舌は止まらない。

「少し脇道にそれるけれども、東北から関東にかけての地域にはかつて〈姉家督〉と云う相続慣行があってね、これは最初に生まれた子が女子だった場合,婿養子を迎えて家督を相続させる慣習なんだ。後から男子が生まれても姉を優先させる。なぜかというと、弟の成長を待つよりも婿養子をとって姉に相続させ、必要な労働力を少しでも早く確保するほうが得策だったってわけ。明治以降は家父長制の影響もあって次第に衰退したんだけどね」

 そこでようやく風早青年は言葉を切り、冷水のコップを取って喉をしめらせた。

 俺は小腹が空いていたので、注文したおむすびに手を伸ばす。翔吾もそれに倣ったが、梨夏は特に空腹を感じていないのか、料理には手を付けようとせず麦茶を飲んでいる。

「話を戻して……と、女系あるいは母系社会の特徴といえば、子供がある意味で共同体の共有財産だということだろうね。親子関係はすなわち母子関係で、父親の役割を果たすのは共同体の男全員だから、つまるところ父親は誰でもよい。母親から見ると、自分で産んだ子はすべて家長の血を受け継いでいることになるからね。結局、子供の父親を選ぶことは、本質的には優秀な遺伝子を求めることになってしまうんだ」

 話の内容が急に核心に迫ってきたような気がする。「父親が誰でもよい」とか「優れた遺伝子を求める」とか、種受けの儀を思い起こさせるような……。

「より具体的な例として、瀬戸内海沿岸の小さな町にある神社の話がある。そこでは、緋劔神社と同じように神主ではなく巫女によって神職が受け継がれているんだけど、巫女は神と結婚すべきもの、神の嫁になるべきものとされていて、夫という人を持たない。ではどうするかというと、全国を行脚している修行者を神として迎え入れ、子をなすという慣習が、戦後間もない頃まで続けられていたんだ。あるいは内縁の夫は持ちながらも、法律上の婚姻をすることなく、あくまで独身を装ったりね。ただ、今日の倫理観からすると道徳的とはいえない制度であることは間違いない」

 風早青年はそこまで語ると、眉間に皺を寄せて物憂げに続けた。

「君たちにこんなことを話すのもどうかと思うけど、緋劔神社──栞梛家においても、同様のことが行われてきたのかもしれない。その点、大熊元村長も同じような見解を持っていらっしゃった」

 俺たち三人は呆然として顔を見合わせた。

 今の風早青年の話って、舞依と結依から聞かされた〈種受けの儀〉そのものじゃないか。瀬戸内のさる神社のことだというが、緋劔神社以外にもそんな厭わしい因習を残す一族があるのか。もしかすると世に知られていないだけで、グロテスクで異様な弊習が現在に至るまで継承されている例は、他にも存在するのかもしれない。民俗とか文化とか宗教の観点からすると、種受けの儀が異常だという指摘は当たらないということなのか。

 自分の常識というやつが激しく揺さぶられているような気がする。

 風早青年だけでなく元村長も薄々感づいていたのならば、村人の中にもそれと察している人は存在するのだろう。というか、表立っては誰も触れないだけで、実は公然の秘密になっているのではないか。そうであるなら、種受けの儀について頑なに言及を避けるのは無意味だ。

 しばしの沈黙の後、風早青年がまた口を開く。

「これは僕の勘だけど、血筋の継承の舞台になっているのは、緋剣山の御堂ではないかと……。秘中の秘の儀式であるはずだから、人の出入りがある拝殿や自宅を使うとは考えにくいんだ。それに……」

 咳払いをひとつ挟んで、

「先日のお祖母さんの一件も去年の鴇松も、御堂の近辺からの滑落だという。その一致は偶然かもしれないが、そもそも本当に事故なのかどうか、確証はないんだ。そういうわけで……その御堂とやらを一度調べてみたい」

 鍵は緋籠堂にあり、と風早青年は睨んでいるようだ。御堂は一度警察が調べたし、俺たちも周囲を巡ってはみたんだが……ちょっと待てよ。

 ふと別の問題に思考が飛んだ。

 風早青年の協力を仰ぐにあたって、すべてを打ち明けねばならないと考えていたが、本当にその必要があるのか。種受けの儀については、もはや隠し通す意味がない様相だけど、姉妹による死体遺棄の件にはギリギリまで触れないでおくことも可能ではないか。

 もしかしたら、緋籠堂調査の際に風早青年が推理を誤るかもしれないけど、間違った方向に進みそうな気配が感じられた時に「実は……」と告白しても遅くはないだろう。

 いずれにせよ、舞依と結依の了解なしに俺たちの口からそれを告げるわけにはいかない。そうであるなら……

「いっそ、風早さんに今から一緒に神社に来てもらって、直接、結依たちに頼んでみるのがいいんじゃないかな。下手にわたしたちが間に挟まるよりも」

 梨夏の発言によって、俺は思考から現実に引き戻された。続いて翔吾も口を挟む。

「そうだな。一応、二人とも風早さんとは面識ができているわけだし」

 実にタイムリーな援護射撃だった。心の中で二人に喝采を送りつつ、俺もここぞとばかりに頼み込んだ。

「僕からもお願いします。今までのお話も、神社の姉妹に直接聞かせてあげてくれませんか」

 風早青年は視線を宙に向けて暫し黙考し、やがて二度三度頷きながら明言した。

「わかりました。そうしましょう」

 俺は安堵のため息をもらしながら、青年の顔を直視する。その時、急に背筋に何かが走った。これで事態が動き始める、なぜかそんな気がした。


 それから一時間半後、風早青年は舞依・結依姉妹と俺たち三人を前に、静かな熱弁を奮っていた。

 あの後、すぐに錦湯を出て緋劒神社に戻ると、まだ神葬祭の最後に行われる直会の最中だった。

 直会は祭祀終了後の慰労会のように今日では受け止められているが、本来は、神と人とが同じ食物を味わうことによって両者の親密を深めるとともに生活安泰の保証を得る儀式であり、慰労会としては別に〈後宴〉なる催しが設けられる、というのが風早青年の解説であった。

 それはともかく、直会が終わるのを待って舞依・結依姉妹を参集殿の客間に招じ入れ、風早青年を中心に俺たちは二人に経緯を語って聞かせたのだ。

 大熊元村長から聞き出した、二十年前の失踪者・時松賢司氏に関する話。その内容と、風早青年が知人から得た情報を照らし合わせた結果、時松氏と昨年の事故死者・鴇松皓司が父子である可能性がきわめて高いと考えられること。

 それから話は転じ、女系あるいは母系社会について、その特徴や歴史や実態の大まかな説明。さらに、ある女系神社において過去に行われてきたという、血筋の継承にまつわる特殊なしきたりの紹介……。

 姉妹は黙って聞いていたが、最後の忌むべきしきたりの話では表情がこわばっているのが明らかに見てとれた。

 風早の話が終わるのを待って、舞依がおもむろに口を開く。

「今のお話で、そういった風習やしきたりが歴史的にはことさら奇異なものとは言えないということはわかりました」

 そこで舞依はいったん言葉を切り、ほんの少し躊躇するように唇を噛んだが、すぐ迷いを振り切るように面を上げた。

「実は、ここ緋劔神社でも同じようなしきたりが受け継がれているんです」

 そう言って話し始めたのは、むろん自家に伝わる〈種受けの儀〉のことであった。

 結依が俺たちを前に話した時に比べ、舞依の語り口は穏やかなものだったが、表情や声色から彼女が意志の力で懸命に感情を抑制していることが窺える。

 風早青年は、といえば自分の推察どおりだったせいだろう、その顔にさほど驚きの色は見られない。表面的には淡々とした様子で時折り頷きながら聞いていた。

「ですから、風早さんのお話からすると、このしきたりがそれなりに意味を持つもので、一概に異常とは言い切れないということになると思いますけど……だからといって儀式を受け入れることは、わたしたちにはどうしてもできないんです」

 舞依が、穏やかさの中にも強い嫌悪をにじませる口調で結んだ。

 風早青年は痛ましそうに姉妹を見やりながら、

「当然でしょう。現代の倫理観・道徳観からすると許されざる制度ですよ。ことに当事者であるお二人の心情を考えると、廃すべきしきたりだと思う」

 と、珍しく厳しい口調で切り捨てた。

 舞依も結依も依然として苦々しい表情を崩してはいなかったが、青年が姉妹に共感する姿勢を見せたことで、微かに安堵の色が窺える。

「それで、お話のあった緋籠堂の調査ですけど……こんな場合ですから、調べるのは問題ありません」

 舞依は、拍子抜けするほどあっさりと許可してくれた。どうやら風早青年の人となりが好印象を与えたようだ。

「ただ、メンバーは風早さんお一人ではなくて、わたしたち──わたしと結依と、それから……」

 そう言って舞依は結依とアイコンタクトを交わし、次いで俺たちを見た。もちろん俺も加わるつもりだから、きっぱりと頷き、翔吾と梨夏も同意を示す。結依はともかく、舞依が俺たちを信用してくれたことが嬉しかった。

「それから、今ここにいるメンバー以外には内密に……。特にうちの家族には知られないようにしたいんです」

 家族という言葉を使いはしたが、舞依の頭にあるのは成隆氏のことだろう。やはり疑念を抱いているらしい。成隆氏も俺たちの存在を煙たがっている様子だし、今回の事件で栞梛家の家族間の溝が深まってしまった。ある意味、俺たちにも責任の一端がないとは言い切れないかもしれないが……だからといってどうしようもない。

 続いて、緋籠堂調査の細かい打ち合わせを行った。問題は、舞依の願いどおり家族──とりわけ成隆氏に察知されないためには、いつ緋籠堂に足を運ぶのがベストか、ということである。

 夜闇に紛れて……という案も出されたが、灯りを点けないといけないから却って発覚しやすいし、そもそも闇の中で有効な調査ができるとは思えない。むしろ日中の方がいいのではないか。

 ちょうどよいタイミングで、結依が成隆氏の予定を思い出した。

「そういえば、おじ様、明日の午前中は赤菜の町役場に行くって言ってた」

 このたびのお祖母さんの死去に関する一連の手続きの中で、緋剣村の支所では埒が明かないことがあるらしい。

 それならば……ということで、緋籠堂再調査は明日の午前九時開始に決まった。

 参集殿のこの部屋に集合し、舞依もしくは結依が成隆氏の外出を確認次第、山に入る。小さな御堂のことで一時間あればひと通りの調査はできるだろう。成隆氏が帰ってくるのは正午前になるだろうから、かなり余裕のある時間設定だった。

 話し合いが大体まとまったところで時計を見ると、午後六時半を回っていた。

 いつもより辺りが暗い。窓越しに見える空の鉛色は、昼よりも一段と濃くなっていた。どうやら天気は本格的な下り坂のようだ。

「下手すると、ひと雨来そうな雲行きだね。その前に僕は引き上げるとしよう」

 風早青年は空を見上げつつ腰を上げた。

「じゃ、わたしたちもそろそろ母屋に……」

 舞依が結依を促して立ち上がりながら、俺たちに顔を向けて言う。

「こんな日だから大したものはできないけど、美弥子さんが皆さんの夕食の支度をしてるから」

 夕食のことなどすっかり忘れていた。中途半端な時間に錦湯で腹ごしらえをしたのもあるが、舞依が言うように神葬祭の当日でそんな余裕はないのではないか。それを遠慮がちに口にすると、

「それは心配無用よ。みんな、お客さんだもん」

 今度は結依が笑顔を見せた。少し弱々しいけど。

 結依たちは気遣ってくれるが、お客さんといっても、いうなれば居候で宿泊料を払っているわけでもないから、かなり心苦しい。

 ともあれ、風早青年は錦湯に引き上げ、姉妹は母屋に戻っていった。

「何もありませんけど……」などと言いつつ美弥子さんが用意してくれたのは、それなりのバラエティーとボリュームをもつ夕食だったが、やはり山菜がメインだった。精進料理というやつかと思ったが、美弥子さんによると単に食材を調達する時間がなかっただけだという。

 恐縮しながらもありがたくいただいた後、「美弥子さんはお疲れでしょうから」と気遣う梨夏の音頭で、俺たちで食事の後片付けをした。それぐらいの労をとらないと申し訳ない。

 美弥子さんが引き上げ、後片付けも終わって人心地がついた時、廊下に慌ただしい人の気配がしてドアがノックされた。返事の後に一呼吸の間もなく飛び込んできたのは舞依と結依である。そのただならぬ様子に俺たちは思わず腰を浮かせた。

 何かあったのか問い質す暇も与えず、結依が言う。

「何か変なのよ。おじ様たちの言ってることがおかしいの」

 やぶから棒で何のことやらわからない。どう見ても結依は惑乱している。

 舞依に視線を送って暗に補足を促すと同時に、彼女が説明を始めた。結依よりは多少落ち着いた調子だが、それでもその端正な顔を覆う戸惑いの色は隠せない。

 ともかく舞依の話は以下のようなものだった。

 母屋での栞梛家の夕食は、直会の後ということもあってごく軽い献立だったが、そこには成隆氏の兄・正隆氏もいたらしい。長兄の清隆氏は六条神社で氏子の集まりがあるとかで、直会を終えてすぐに引き上げていた。

 食事の後、舞依・結依姉妹は舞依の部屋に引きとった。そこでしばらく雑談をしていたが、ふと窓の外を見ると、母屋から社務所に続く渡り廊下を正隆・成隆の二人が社務所の方に歩いていくのが見えたという。

 その人目をはばかるような挙動に胸騒ぎを感じた姉妹は、二人して部屋を出て社務所の入口近くに忍び寄り、中の気配に耳をそばだてた。

 最初は穏やなやり取りだったが、次第にそれは激しさを増していき、時折り言い争いのような怒声も聞こえてきたという。二人の応酬は高くなったり低くなったりを繰り返しつつ、姉妹が聞き取れたのは次のような会話の断片だった。

「……兄貴、警察が……もう手を引くことを考えて……」

「今さら……しても……身が危なくなるだけじゃ」

「勇人の件が……早う発覚した……誤算……」

「……姉妹のことも考えてやらんと……」

「おまえはそう言うけどのう、こっちは……」

「兄貴、声が……」

 激した調子で正隆氏が言葉を発したところを成隆氏が抑え、その後は聞き取れないほどの小声で延々と密談が続いていた……


 意味深長な単語のオンパレード。特に「警察」という言葉は、赤菜町での昼食時に遭遇したおばさんたちの会話にも、六条病院の絡みで登場したいわくつきのキーワードだ。どちらの会話も、正隆氏が警察医を務めていることと関係するようなニュアンスではなく、逆に司直の動きを警戒しなければならない不安が窺える。

 それに勇人さんの件がどうしたとか……いったい何なんだ。彼が行方をくらましていることが、今回の──お祖母さんの一件──に何か関係しているのか。というか、あの人たちが一枚噛んでいるというのだろうか。

 何がどうなっているのかわけがわからないし、真相に踏み込むのも怖い。疑えばきりがない。姉妹が取り乱して錯乱状態に陥るのも無理はなかった。

 二人は母屋に戻るのが怖いと訴え、結局、梨夏にあてがわれている部屋で一緒に寝ることになった。

 三人の女性が隣室に引き取り、翔吾と顔を見合わせて思わずため息を洩らしたところで、ふと戸外の雨音に気づいた。

 とうとう降ってきたらしいな。朝までに止んでくれるといいのだが。

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