第7話
「あの……一年前にも同様の事故がありましたよね」
結依の話が終わるのを見計らったかようなタイミングで、後ろから声が聞こえた。
振り返ると、いつの間に現れたのか旅行者風の若い男が立っている。俺たちに話しかけてきたのかと思ったが、彼の面は原塚巡査に向けられていた。
視線を外しかけた瞬間、記憶が甦って男を二度見した。間違いない。昨日、赤菜町から村までのバスで一緒になったリュックサックの青年だ。
同年輩と見える青年に対して、原塚巡査は不審の色もあらわに、
「一年前というと……東京のテレビ局の関係者が亡くなった件のことですか?」
「そうですそうです。去年の八月六日、ちょうどこのあたりで遺体が発見されたと聞いたんですが……」
答えつつ、青年はゆっくりと歩み寄る。
原塚巡査の表情から訝しさは拭えないものの、相手の口ぶりに思い当たるところがあったのか、
「えーと、被害者は……そう、確か
「ええ。友人でした」
「それは……」
ご愁傷様です、というように、原塚巡査は軽く頭を下げて弔意を表した。
「で、こちらへはお弔いとか……?」
青年は頷くような仕草を見せながらも、はっきり問いには答えず何事か考えている様子だったが、おもむろに面を上げて逆に巡査に問いかけた。
「今回の件、お巡りさんの見立てはどうなんでしょう?」
「見立てというと?」
「これが事故なのか、事件なのか……」
原塚巡査は、どう返答したものか迷いながらも神妙な面持ちで
「さあ、まだ何とも言えませんが、おそらく事故じゃないでしょうか。神社の方の話によると、被害者の婆様は昨日、山の御堂で夜籠りをしていたということなので、修行の最中に何らかの理由で御堂の外に出て、足を滑らせて崖から……」
「……落ちて死に至り、遺体となって、崖下からここまで川伝いに流されてきた、というわけですか」
「この小川は緋剣山の中腹に源があるんですけど、流れの途中に、ちょうど御堂付近の崖下を通る箇所があるんです。そのあたりでは流れも急なんですが、この現場の手前に小さな滝があって、そこからは勾配が緩くなると同時に、この現場あたりの川底が浅くなっているんです」
小川の上流に目を向けると、巡査の言葉どおり、二十メートルほど先で滝と思しき落水が飛沫を上げているのが見えた。さらにその先となると、生い茂った樹木に遮られて、ここからは窺い知ることができない。
「なるほど。地形的に山中からここまで遺体が流れ着くことは、十分にあり得るわけですね」
青年は納得した様子でうなずきながら
「ちなみに、去年の事故はどうでした? 鴇松は同じ場所で転落したのか……」
「いや、鴇松氏の場合は、もう少し上流で川に転落した痕跡がありました。山を調べるのに難儀しましたけど」
語る相手が死者の友人であるとはいえ、すでに事故として処理された過去の案件であるため、原塚巡査の口もやや滑らかになっている。
青年は小首をかしげて
「そんなに険しい山なんですか? 緋剣山は」
「そうじゃないんです」
原塚巡査は苦笑いを浮かべた。
「緋剣山は緋劔神社の祭祀対象、つまり御神体で、この村にとって聖域なんですね。法律的にも栞梛家の私有地になっていますし。したがって、神社の許可なくして緋剣山には入れないんです。その許可をいただくのが……」
「簡単じゃなかったと?」
「はあ、このたび亡くなられた紫乃婆様を説得するのに、えらい骨が折れましてね。ヤマガミ様の聖地を汚すような不届き者には罰が下されて当然じゃ、このうえ何を調べることがあるかと、まあ大変な剣幕で……。結局、私のような若輩者では相手にしてもらえず、本署の署長からの口添えで、どうにかこうにか調査を認めてもらったような次第で……」
「ははあ、『ヤマガミ様の聖地を汚す不届き者』ですか……」
青年はどことなく皮肉な表情で視線を転じ、目の前にそびえる緋剣山を仰ぎ見る。原塚巡査が慌てて、
「あっ、いえ、それは私じゃなくて、婆様が……」
「わかってます。お気になさらずとも大丈夫です」
青年は苦笑を浮かべて、狼狽する原塚巡査をなだめていたが、不意に表情を引き締め、
「ところで、ひとつ気になることがあるんですが……」
と、話題を転じた。
「遺体に被せてあるシートが少しめくれて、足先が見えてるんですけど」
「えっ!?」
見ると、確かに青年の言うとおり、水流のせいで重しにした小石が外れてシートがめくれ、下から白い足袋を履いた足が覗いている。
「おっと、こりゃまずい」
原塚巡査は慌てて流れの中に足を踏み入れ、シートを直そうとしたが、
「あ、ちょっと待ってください」
青年は原塚巡査を制しつつ、何やら意味深長な確認と同意を促した。
「足袋の足裏の部分、汚れてませんね」
「ん?」
原塚巡査が身をかがめて検分する。俺も彼らの背後から姿勢を低くして確かめようとしたが、死角になってよく見えない。が、結果的には青年の指摘どおり、ことさらひどい汚れの痕跡がないことを原塚巡査も認めた。
「遺体の足の裏がどうかしましたか?」
「いえ、それなんですけどね……」
原塚巡査の問いに、すぐには答えようとせず、青年は怪訝そうな面持ちで、別の質問を発した。
「遺体のお婆さんの履物は見つかっているんでしょうか? 巫女装束なので、おそらく足袋に草履を履いていたと思われますけど」
原塚巡査は首を傾げながら
「いや、草履などは目にしてないような……」
と、半ばひとり言のように答えて、結依たち村人にもの問いたげな視線を向けた。しかし、村人たちも互いに顔を見合わせて首を振るばかり。
「もし、履物がどこからも見つからなければ、少し変ですよね」
青年が言う。
「お婆さんは、崖から滑り落ちる直前、足袋のままで山中をうろついていたことになる。それなのに、足袋の足裏は汚れていません」
「あっ!」
原塚巡査は青年の示唆するところを理解したらしく、目を見張った。
俺も、二人の会話を傍らで聞きながら、頭をぶん殴られたような衝撃を覚えた。胸の鼓動が速くなり、暑さとは別の理由で、背中に不快な汗がにじみ出る。
昨夜──結依が両腕で抱えていた“足”は、足袋だけで何も履いていなかったように見えた。だから、草履にしろ何にしろ、履物が遺体の周囲で見つかるわけがない。しかも遺体は、結依たち二人に御堂から運ばれたうえで投棄されたのだから、足裏が汚れるはずもない。
昨夜のできごとの一部始終を知っている俺と結依たちにとっては、至極当然の状況だが……これでは、お祖母さんが誤って崖から落ちたという事故説は成り立たなくなる。あの青年の言うように、屋外、しかも山中を足袋で歩いたはずなのに、足袋にその痕跡がないという、矛盾した証拠が揃ってしまっているのだから。
(やばいよ、結依……。遺棄がバレてしまう)
俺は横目で隣にたたずむ結依の様子をうかがった。彼女も、原塚巡査と青年の会話を聞きながら頭の中で筋道をたどり、同じ理解に達したらしい。内心で激しい動揺に襲われているのか、横顔が凍りついたように青ざめている。
しばらく沈黙が続いた後、原塚巡査が口を開いた。
「履物がもっと下流に流されてしまった可能性もありますよね。逆に、崖の途中とか山中に残されているのかも……」
と、別の見方を示してみたものの、なんとなく歯切れが悪い。
「まあ、この場合、そう考えるのが妥当かもしれませんね」
幸いなことに、青年はそこで追及の鉾を収めてくれた。
「ちなみに、この小川は先で土濃川に流れ込んで、さらに鎌洗川に注ぐんですよね」
「そうです」
「となると、下流域を捜索するのは、それこそ大変な仕事になるな」
青年の言葉は、最後は独り言のようになってしまった。そうだな。原塚巡査の言うとおり、履物が川の下流に流されてしまって見つからなかったということになればいいのだが……。
言いたいことを言い終えた様子の青年は、どこかさばさばした表情で、おもむろに原塚巡査に背を向け、歩き出そうとした。何気なく視線が交差する。すると青年、人好きのする笑みを浮かべて、こちらに歩み寄りながら話しかけてきた。
「確か昨日、バスで一緒だった人たちですね」
何だ、向こうも俺たちの存在に気づいていたんだ。
そのバスの中で怪談コンビに接近した時のように、馴れなれしくかつ自然にこちらの懐に入ってくる。こうなると返事をしないわけにはいかない。
「ええ。赤菜町からのバスで……」
我ながら芸のない答えだ。そんなことは向こうもわかっているだろう。
「皆さん、ご旅行ですか?」
「まあ、旅行といえば旅行です」
奥歯に物が挟まったような含みのある返答だが、青年は意に介することなく続ける。
「こちらの神社のお嬢さんとはお知り合いなんですか? 親しく会話されていたようですが……」
巡査とのやり取りや村人同士の会話を聞きかじって、結依が神社の娘であることをすでに知っているらしい。なかなか抜け目のない人だ。何か迂闊なことをしゃべると、後々まずいことになるかもしれないな。
返事に窮していると、代わって翔吾がいともあっさり答えた。
「ええ、彼女も大学生の同級生なんです」
「ああ、なるほど。皆さん、大学生なんですね」
それから青年と翔吾の間で、しばらく他愛のない会話が続いた。
それによると青年は、先ほど原塚巡査に語っていたように、去年事故死した友人の終焉の地を訪ねるという目的で、この村にやって来たという。
もっとも、その地を訪れて弔うだけでなく、できるだけその死の経緯を明らかにしたいがために、この村で見聞きするさまざまな事柄に注意のアンテナを張り巡らせて、情報を収集しているらしい。
俺は、遺体の履物に関する追及ぶりから、青年に対して少し警戒心を抱いている。
それは、この村に来てからの怪異譚や結依の後継ぎ問題などのもろもろの出来事、とりわけ昨夜の山中での体験が原因で、俺自身の猜疑心の感度が上がっているせいかもしれない。
だが一方では、どういうわけか、あの青年を忌避できない、いや忌避すべきでないという直感めいたものが、頭の中で時折り光を放つのだ。それを信じて行動するべきかどうか、俺はまだ逡巡を捨て切れずにいる。
ふと気がつくと、いつの間にか、野次馬と思しき村人が増えていた。その数十数人。神社に参拝に来た村人が、変事を知って足を止めているのだろう。
「巫女様がのう、おいたわしいことじゃ。ヤマガミ様のご加護もおありんさったじゃろうに……」
グレーシートの下の遺体に向かって手を合わせながら、嘆き悲しむ様子の老婆もいる。
またしても〈ヤマガミ様〉だ。
昨日、バスの中で聞いた怪異譚の当事者である男は、信仰心の欠如を生前の婆さんに厳しく咎められていたという。高齢者ほど信心深いのは世の常かもしれないが、それにしても村における〈ヤマガミ様〉信仰の根深さには驚かされる。
そういった村人たちの織り成す光景を、少し気抜けした状態で眺める俺の視界の隅に、土濃川沿いの県道をこちらに向かってくる一台のワゴン車が映った。
例の青年も、目ざとくそれを見つけたらしい。
「ああ、赤菜署からの捜査班がやって来たかな」
よく見ると、確かにそのグレーのワゴン車は屋根の上に赤色回転灯を載せている。が、作動してはいない。もっとも、渋滞はおろか他の車もろくに走っていないような田舎道で、仰々しく緊急走行をしても仕方ない。
ワゴン車は丁字路で右折して、土濃川にかかる橋──社橋(やしろばし)というらしい。言うまでもなく神社の“社”だろう──を渡り、一の鳥居の脇に停まった。
運転席以外のドアが開いて車から三人の男が下り、人だかりを認めてこちらに近づいてくる。
一人はラフな感じのシャツ──開襟シャツというやつか──を着た、絵に描いたようなオヤジ刑事。一人は警察医と思しき白衣姿で、最後の一人は刑事ドラマでよく見かける鑑識課員のユニホーム姿だ。
原塚巡査が彼らに向かって大声で呼びかける。
「細萱警部補! こちらです」
どうやら開襟シャツが細萱警部補らしい。風貌は典型的な現場叩き上げタイプ。年の頃から言えば「警部」とか「警視」でもおかしくないのに、警部補にとどまっていることからも、失礼ながら上司の覚えがめでたくないノンキャリアの無骨な警察官であることが推察できる。なんて、先入観満載のまったく余計な勘ぐりだが。ついでに言えば、“細”萱という姓なのに逆にやや太り気味の体躯だ。
それはともかく……近づいてくる一団の中の白衣の警察医を見て、隣にたたずむ結依が反応した。えっ、というような軽い驚きの声を漏らし、警察医の顔を見つめている。
警察医の方もその視線に気づいたらしく、結依の姿を認めて口許に薄笑いを浮かべた。妙に歪んだ嫌な感じの笑みだった。
どうやら二人は知り合いらしい。ただ何となく、あまり良好な関係ではないような気がする。
本署の係官が来たというので、村人たちは現場を遠巻きにしつつ、参道のあたりまで後退する。
遅れてワゴン車から下りてきた運転手の男──これも鑑識課員っぽい──が、折りたたんだグレーの袋のようなものを抱えて、細萱警部補たちに合流した。
一団は、原塚巡査の説明を聞きながら、ざっと現場の状況を検分した後、遺体をグレーの袋に丁重に収容し、担架に乗せて鑑識課員二人がかりでワゴン車の方に運んでいった。
少し離れたところから彼らのやり取りを聞きかじったところでは、とりあえず遺体を駐在所に運び、そこで検視というのを行うらしい。
細萱警部補以下の赤菜署員が出馬して来たからといって、事態が劇的に動くこともなく、事故か否かの判断は検視の結果次第ということになりそうだ。
腕時計を見ると午前八時過ぎ。一時間以上、とりとめもなくここで時間を費やしていたことになる。思い思いの表情で事態の推移を眺めていた十数人の村人たちも、そろそろ散り始めていた。
さて、これからどうするか。
結依は、事情はどうであれ肉親の死に際して、今日明日は通夜やら葬儀やらで、てんてこ舞いになるのではなかろうか。俺たちにばかり構っているわけにはいかないだろう。やっぱり、ここは早々に退散するべきかもしれない。
でも、何一つ成果を得られないどころか、わからないことだらけのままというのは、心残りに過ぎる。特に俺にとっては。
考えがまとまらず、鉛を飲み込んだような重い気分のまま、何となく立ち去り難くて無為にたたずんでいると、例の青年が
「君たち、もう朝食は済んでますか? もしまだなら、一緒にどう?」
と、誘いの言葉をかけてきた。
俺たち三人は互いに顔を見合わせ、無言で意思の疎通を図る。
青年に対する警戒心はまだ拭い切れないが、正直なところ、興味あるいは期待の芽も摘んでしまうには忍びないものがある。先ほど披露してくれた洞察力で、八方塞がりのこの状態を打開するきっかけでも見つけてくれないものか。
それに、何となく神社に戻るのが憚られる雰囲気に、俺たちは囚われていた。特に俺は、昨夜の出来事が心に重くのしかかっていて、とりわけ結依への対応に内心わだかまりを抱えている。
誰がリードしたわけでもなかったが、その場の空気は青年の誘いに応じる方向に流れていった。
とはいえ、結依によけいな心配や気遣いをさせたくないので
「少し村の中を歩いて、ついでに朝食を済ませてくるよ」
と伝えたところ、結依もすぐには神社に帰らず、成隆氏と一緒に捜査班に同行して、駐在所で再度の事情聴取を受けることになったという。
それならなおのこと、神社に戻っても手持ち無沙汰になるだけだな。
俺たちは、いったん結依と別れて、風早青年と一緒に村の中心部に向かって徒歩で移動を始めた。
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