第2話
列車は、定刻に遠沢駅のホームにすべり込んだ。冷房の効いた車内からホームに降り立つと、たちまち熱気が身体を包み込む。
「うわ~、ここも暑いね」
梨夏が思わず顔をしかめる。
「山の中だから、少しは涼しいと思ってたのに……」
「山間の盆地は日中はむしろ暑いんだ。そのかわり夜になるとぐっと冷え込むよ」
そんなやり取りを交わしながら、俺たちは十人あまりの降車客に混ざり、跨線橋に向かってホームを歩き出した。
いかにもひなびた田舎駅の佇まいだが、上下線用の二本のホームがあり、列車の行き違いはできるようになっている。
跨線橋の階段を上りきった正面の壁に〈早岐宮大社への最寄り駅は、次の咲宮駅です〉と書かれた看板があった。どちらも「サキミヤ」だけど、有名な神社のほうは「早岐宮」で、地名や駅名は「咲宮」と漢字表記は異なるらしい。
(それにしても……)と思う。この看板はホーム上に設置して、列車の中から見えるようにしないと意味ないんじゃないかな。降車してから「次の駅です」なんて言われても……。
新幹線の中で地図を眺めて、このあたりの大まかな地形や交通網、行政区画は頭に入れておいた。
遠沢駅を出ると線路は左カーブを描いて北に向かい、三キロあまりで咲宮駅に至る。人口六万人の咲宮市の中心駅だ。ここ遠沢も咲宮市に属する。
一方、これから俺たちが向かおうとしている
ちなみに「緋剣村」というのは正しい地名ではない。数年前に政府主導で行われた全国の市町村合併に伴って、緋剣村は赤菜町とともに咲宮市に編入され、現在では「咲宮市大字緋剣」となっている。
(でも、おそらく地元では、そのまま「緋剣村」の呼称が使われているんだろうな)
そんなことを考えながら、改札口――田舎だけど自動改札だった――を抜けて小ぢんまりとした駅舎を出た途端、熱気に加えて夏の日差しが照りつけてきた。まぶしさに目を細めながら、閑散とした駅前を見渡す。
「なんとまあ、見事に何もないところだな」
翔吾が周囲もはばからず、呆れたような大声を出した。
確かにそのとおりで、駅前には、かつて商店だったと思われる間口の広い民家が数軒並んでいるだけ。コンビニエンスストアはおろか大衆食堂の一軒も見当たらない。駅前ロータリーが比較的新しくてこざっぱりとしているだけに、その落差が物寂しさを際立たせている。
それはともかく、案の定、翔吾の声が耳に届いたらしく、背後から男の野太い声が返ってきた。
「ああ、ここには何もないぞ。一つ先の咲宮か、バスで赤菜町まで行かんとな」
俺たちは振り向いて声の主を確かめ、次いでその身なりに目を見張った。時代劇あるいは昔話の世界から抜け出してきたような山伏姿の中年男だった。しかし彼は、俺たちの反応を意に介することもなく、赤ら顔のかなつぼ眼をぎょろつかせて俺たちを見やりながら
「兄さんたちはどこまで行くんだ?」
と、興味津々の体で尋ねてきた。その視線が、どうも梨夏の胸元あたりにチラチラ注がれているように感じるのは、気のせいか。
赤菜町経由で緋剣村まで、と答えると
「それなら、わしと同じだ。あのバスに乗るといい。十分ほどで出発するぞ」
山伏男は、殺風景なロータリーのバス停で時間待ちをしている、くすんだ薄緑色のバスを指さして教えてくれた。確かに車体側面の行先表示は「赤菜町」となっている。
炎天下での立ち話はつらいので、俺たちは山伏男に礼を言い、駅舎出入口横の自動販売機で飲み物を買って、先にバスに乗り込んだ。ほどよく冷房の効いた車内の最後部に席を占める。
「ねえ、あの山伏コスプレのおじさんも、緋剣村に行くって言ってたよね」
シートに腰を下ろして一息ついた梨夏の言葉に、俺は思わず吹き出しながら答えた。
「コスプレじゃなくて、たぶん山伏そのものだぜ、あの人」
その人は、バス停の前で地元の人らしい初老の女性と話し込んでいる。
「調べてみたんだけど、緋剣村の南にある緋剣山が修験道の霊山、つまり山伏の修行地になってるんだ」
「へーえ、今どき山伏なんて存在しているんだな」
翔吾も話に加わる。
「実際はお寺の坊さんや神社の神主が山伏に扮することが多いんだけど、中には普通の社会人もいるらしい。修行の時だけ山伏になるんだってよ」
「修行って、滝に打たれたり、裸足で火の中を歩いたり、あと断食や水断ちとか、ひどいのになると断崖絶壁から命綱一本で逆さ吊りとかあるんだよな。無理だわ~」
俺もそういうのはダメ。特に高いところは絶対に無理だ。
「で、そんな厳しい修行をして何がどうなるの?」
梨夏の疑問は至極もっともだが、正直なところ俺にもよくわからない。
「人々を救うための霊力を身につけるとか……ま、そういったところじゃないか」
ふと車内を見回すと、バスには十人たらずの乗客がいた。何となく見覚えがあるのは、さっきの列車から降りた客の大半が、このバスに乗っているということか。例の山伏男も、いつの間にか運転席のすぐ後ろに席を占めている。それにしても、この暑い最中にあの身なりでは、さぞや過ごしにくいことだろう。熱中症でぶっ倒れないのは、それこそ修行の賜だろうか。
十四時三十分ちょうど、バスは遠沢駅を後にした。
あっという間に駅前の集落を抜け、右手に見え隠れする鎌洗川の川岸に沿って、南下を始める。左手の車窓には、真夏の太陽に焦がされる田園風景が広がった。
「さっきの話の続きだけどよ」
車窓を流れる風景をしばし眺めた後、翔吾がおもむろに口を開いた。
「そもそも、なんで山伏が緋剣村で修行するようになったんだろうな? 何か由来があるんだろうけど」
それは俺自身も少し興味を抱いていることだった。
修験道に特に詳しいわけでもない俺だが、山形の羽黒山や和歌山の熊野山が有名な霊山であることぐらいは知っている。ただ、今回の旅に先立って調べた結果、霊山や修験道系の社寺というのは意外に数の多いことがわかった。
“超”有名どころでは富士山や箱根山、白山、立山、阿蘇山。さらに東京の高尾山や長野の戸隠山、伯耆大山、愛媛の石鎚山もそう。社寺では奈良の薬師寺や滋賀の園城寺、福岡の英彦山神宮、等々。緋剣山もその中の一つとして数えられるべき存在なのかもしれない。また、そうであるからには、翔吾の言うように、それなりの由来をもっているはずだ。
「向こうに着いて結依に会えたら、聞いてみよう。実家が神社なんだから、村の歴史とかいろいろ知ってるだろうし……」
バスは、路線に点在する停留所に停まりながら、相変わらず南下を続けていた。乗客の増減は片手で数えられるほど。
いつしか右手の車窓から鎌洗川は消え去り、道路は緩やかな上り勾配に差しかかっていた。道路の両側の風景も、田んぼから段々畑に、そして樹木に覆われた山肌へと変化していく。
峠道に入ると、勾配はいっそう急になった。エンジンは高く低くうなりをあげ、バスは蛇行をくり返しながら、山肌迫る道をひたすら登っていく。
それが十分ほど続いた後、今度は下り勾配に入り、右手に鎌洗川が戻ってきた頃から、再び車窓に人家が見られるようになった。勾配が緩やかになるにつれ、人家の密度も高くなる。
到着までの残り時間から察するに、どうやら赤菜町の中心部に近づいているらしい。山伏男の言葉どおり、遠沢駅周辺よりも道行く人々の往来はずっと盛んだ。
やがてバスは、人家の集まる赤菜町の中心部を走り抜け、小さな商店街の端に位置するバス乗降場に到着した。終点なので、乗客は全員下車する。
バスを降りると、観光案内所の建物の壁に掲げられた〈ようこそ、赤菜町へ〉という看板が目に入った。
さて、いよいよ最後の行程になる緋剣村行きのバスは……と、探すほどもなく見つかった。車体前面と側面の行先表示板に「緋剣村」とある小さなバスが、乗り場の隅っこに遠慮がちに停まっていた。いわゆるマイクロバスなのだが、淡い緑のベースカラーと丸みを帯びたデザインがなんとなく微笑ましい。高齢者に優しいノンステップ仕様だ。このあたりのバスはすべて緑色を、文字どおり特色としているらしい。
それに思ったとおり、「緋剣村」の呼称も地元ではまだ健在のようだ。
翔吾が開いたドアから車内をのぞき込み、運転手に出発時刻を尋ねると、まだ多少の余裕がある。
時刻は十五時十五分。おやつの時間だからというわけでもないだろうが、小腹が空いてきた。新幹線に乗る直前に、駅のファーストフード店で軽く食べただけだもんな。
「何か腹の足しになるもの、買っていくか」
翔吾の提案に同意した俺たちは、商店街の中の手頃な店で手頃な食料を調達し、バス乗り場に戻った。外から眺めると、緋剣村行きバスの車窓に、数人の乗客の影が映っている。
「狭い車内で食べ物の匂いをまき散らすのは……ちょっとまずいよな」
俺の言葉に、梨夏も思案顔で
「そうねえ……じゃ、ここに座ってさっさと食べちゃおうか」
と、傍らの待合コーナーのベンチを指さした。
「じゃ、そうしよう」ということで、さっそくベンチに座って慌ただしいおやつを済ませ、俺たちは小さなバスに乗り込んだ。
予想どおり、車内は狭い。しかし、車輌そのものが新しく、内装もデッドスペースを極力排したデザインのためか、それほど窮屈さは感じなかった。
進行方向左側に五人がけのロングシート、進行方向右側には一人がけシートが四つ、そして最後部が三人がけの座席プラス荷物置きのスペース。これで定員は十二人。
一人がけシートの前二つは、なんといずれも山伏姿。運転席のすぐ後ろに座っているのが、遠沢駅から一緒だった例の山伏男で、もう一人は言うまでもなく、ここ赤菜町からの乗車だ。
他にも新顔が二人ほど、こちらはロングシートに座っている。風貌や身なりから察するに、どうやら土地の人らしい。年の頃は三十代半ばというところか。
俺たちにとっては新顔でも、彼ら地元民にしてみれば、こちらの方が他所者だ。しかも、この地では山伏よりも旅行者の方が珍しいようで、彼らの無遠慮な好奇の視線が俺たちに注がれる。
それはともかく、俺たちは運良くここでも最後部に座席を確保することができた。
「あと三分ほどで発車しまーす」
運転手が肉声で車内にアナウンスした。小ぢんまりとした車内なので、マイクなど必要ない。
アナウンスの直後、リュックサックを背負った二十代後半と見られる青年が乗ってきた。彼も、山伏より俺たちに物珍しげな視線を送りながら、山伏のすぐ後ろの一人がけシートに腰を下ろした。これで乗客は計八人。
やわらかな音色のアラームとともに自動ドアが閉まり、バスは発車した。
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