第3話

 赤菜町の集落を抜け、バスが峠に向かう上り坂に差し掛かった頃、ロングシートに座っている地元民二人の会話が、ふと耳に届いた。

 最後部に座る俺たちから遠い方、つまり進行方向に近い側の男は小太り、もう一人は対象的な痩身である。ただ、二人とも農林業従事者なのか、日焼けと、半袖シャツから覗く筋肉質な二の腕がたくましい。

 乗車した直後から、小太りのほうが時折、俺たちの方に視線を走らせる様子がうかがえた。というか、おそらく視線の先にいるのは梨夏だろう。

 山伏男にしてもそうだったが、ここに来てどうも梨夏が男たちの目を惹いている感じがする。修験者や巡礼者以外の外来者が珍しい上、夏の盛りということもあって、梨夏の装いが少しばかり、いや、かなり露出度の高いものになっているせいだろう。

 それはさておき、二人の会話である。それほど大音量とも思えないのだが、声の通りが良いせいか、最後部のシートを占領している俺たちのところにまで、会話の内容が聞こえる。

「そういや、おまえ、田辺の弟の話、知っとるか?」

 痩身の男が、何やら曰くありげな声色で小太りに語りかけた。

「田辺の弟って、どっちよ? 上か下か」

「一番下の哲平よ。あれが、死んだ婆さんに出くわしたという……」

 時折エンジンのうなりにかき消される箇所もあるが、「死んだ婆さんに出くわした」のくだりは聞き取れた。夏といえばの怪談か。

「はあ? 今、初めて聞いた。あそこの婆さん、先々月に亡うなったじゃないか」

「ほうよ。ほいで、おとといが五十日祭じゃったんじゃけど、その晩に出たらしいわ」

「出たゆうて、田辺の家にや?」

「ほうよ。哲平の部屋の箪笥の抽斗に……」

「箪笥の抽斗ぃ!? どういうことや?」

 俺たちは互いの顔を見合わせた。重度の怪談恐怖症を患う梨夏が、早くも怯えた表情を見せる。余談だが、この病のせいで梨夏は、ホラー系のB級スポット探訪イベントにはほとんど参加できない。

 ふと見ると、俺たちの二つ前の座席に着いているリュックサックの青年が、心持ち怪談コンビの方に身を乗り出し、さりげなさを装いつつも熱心に耳を傾けていた。

「最初っから話しするとよ、おととい、田辺んとこは午前中に婆さんの五十日祭を済ませての。ほいで、哲平は午後から巫女様に呼ばれとったんで、神社で教話を受けて、夕方に帰ってきたらしい」

「五十日祭」というのはあまり聞き慣れない言葉だが、四十九日法要と同じようなものなんだろうか。

「で、あいつ、焼酎を二、三杯やってそのまま居間でうたた寝しよったら、しばらくして天井から『哲平~哲平~』ゆうて、自分を呼ぶ声が聞こえたんじゃと。天井ゆうても誰もおるはずないし、その上は二階の自分の部屋じゃけ、気になって二階に上がってみたら、やっぱり自分の部屋の方から声がしたんじゃそうな」

「……」

「それが死んだ婆さんの声に似とるような気がしたもんじゃけん、あわてて部屋に入ってみたけど、誰もおらん。酒に酔っとるがゆえの空耳じゃったかと思って、しばらくそこで様子をうかがっとったら、箪笥の方から何やら物音がする。恐る恐る近づいて耳をすましたら、抽斗の中から身じろぎするような音や息づかいが聞こえたんじゃと」

「……!」

「それ聞いた哲平は、酔いがいっぺんに醒めて、全身総毛立って腰抜かしそうになった言いよった。でもどういうわけか、抽斗を開けんにゃいけん、中をちゃんと確かめんにゃいけんゆうて、頭の中の声が指図するんじゃ。ほいで、哲平はガタガタ震えながら抽斗に指をかけて、思いきって引き開けたら……」

「あ、開けたら……?」

「中に婆さんがおった。絶対に人は入れんような狭うて浅い抽斗に……」

「……」

「どこが手でどこが足かわからん、身体が不定形の軟体動物になって抽斗一杯に広がっとるような感じじゃったらしい。で、頭は半分身体にめり込んで、顔はニコニコ笑いながら『この馬鹿たれが!』ゆうて怒られたんじゃと」

「……!」

「さすがに、哲平は肝つぶして階下に駆け降りて、ちょうど台所におった母ちゃんに、実はかくかくしかじかじゃと説明したけど、本気にしてもらえん。それでもむりやり二階に引っぱって行って抽斗を改めてもろうたけど……」

「婆さんは……?」

「影も形もなかったそうじゃ。ただな……」

「ただ……何かあったんか?」

「うん。婆さんが愛用しとった櫛が、どういうわけか抽斗の中にあったらしい。葬儀の時、一緒にお棺に入れたはずなのに……」

「ふ~む……」

 話が一段落したところで、小太りは首にかけたタオルで顔を拭きながら

「ほんで、おまえ、今の話は哲平本人から聞いたんか?」

「ほうよ。昨日、寄合の帰りに錦湯でばったり会うての。飯を食いながら話聞いたんじゃ。あいつ、相当しょげとったで」

「なんで? 婆さんの霊が、よりによって自分とこに現れたけんか?」

「うん。あいつが言うには、自分はヤマガミ様への信仰が足らんけん、罰が当たったじゃと。婆さんにも、しょっちゅう説教されよったらしい。あそこの婆さん、信心深かったけんのう」

「まあ、哲平は昔からのボンクラじゃけん、兄貴もあれには難儀しよったし。本人の自覚どおり、少しヤマガミ様に仕置きしてもろうたほうがええわ」

「ほんまじゃ。そりゃそうと、仕置きで思い出したんじゃが……」

 それきり二人の会話は別の話題に移っていったのだが……俺の関心は、この言葉に囚われていた。

(〈ヤマガミ様〉って……何だろ?)

 〈ヤマガミ様〉は、山神様? そうだとすると、山神様の“山”は緋剣山のことか? 疑問が次々に湧いてくる。

 二人の話しぶりからすると、〈ヤマガミ様〉というのは緋剣村の土着神のようだ。

 土着神というのは、古くからその土地に根づいて棲まうとされる神様のことで、多くは、そこで強い存在感を示す山や湖などの自然物に宿る精霊である。一般的な宗教で崇められる神様よりも性格は荒っぽくて、祟りはつきものといわれる。

 ちなみに、こういった知識はサークル活動を通して身につけたものだ。BQSビジターズも捨てたもんじゃない。

 それはともかく……その〈ヤマガミ様〉が村の土着神あるいは鎮守神であるにせよ、大の大人が「罰を受ける」とか「お仕置きしてもらう」とか、真顔で口にするというのは、素朴を通り越して信心深さも度が過ぎるというか、少し異様な感じがする。

 また、そんなに深く村に根を下ろした土着信仰であれば、村について事前に調べた時に何らかの情報を拾えそうなものだ。だが実際、インターネットで検索しても〈ヤマガミ様〉という言葉などヒットしなかった。何か理由があって意図的に隠されているのだろうか。

 ごく普通の一寒村だと思っていたが、修験道とか怪奇現象とか土着信仰とか、予想外に因習に染まった村なのかもしれない。つい数時間前までの自分たちの日常とは、かなり異質な世界であることは、確かなようだ。結依に会いたい一心でここまでやって来たが、はたして本当に村に足を踏み入れていいものか、一抹の不安か頭をよぎった。

 ふと我に返って車内を見ると、例のリュックサックの青年が、いつの間にか怪談コンビの隣に席を移して、話に割り込んでいた。

 二人は面食らった様子だが、青年は特に意に介することなく、二人に劣らず通りの良い声で

「先ほどの箪笥に現れた霊のお話ですが、その恐怖の核心というのは、結局のところ怪異の因果をきちんと説明できる理屈がないことでしょうね。もっとも、ヤマガミ様に対する不信心という、一見理由らしきものがあるにせよ……」

 などと、話題を強引に蒸し返したうえ、よくわからない自説を披露している。山伏といい、怪異譚といい、この妙に馴れなれしい青年といい、今日はやけに風変わりな人物やできごとに遭遇する日だな。

 何やら小難しげな話になって、戸惑いの色をいっそう濃くする男たちに、青年が問う。

「それで……緋剣村では、このような怪奇現象というのが時折発生しているんでしょうか?」

 俺もそれは気になっていた。というのも、怪談コンビの会話を聞く限り、彼らが怪異自体をそれほど珍しいこととは思っていないように感じたのだ。抽斗の中の亡くなった婆さんの話にしても、「あり得ないこと」や「夢か幻か何かの間違い」ではなく、村における日常風景の一つとして怪奇現象をすんなりと受け入れているようにさえ感じられる。

 青年の質問に対し、痩身の方がすかさず反応した。その表情からは、どういうわけか一転して戸惑いが消えている。

「そうじゃのう。常識じゃ説明がつかん不思議な現象は、ときどき起きとるわね。わし自身も子どもの時に体験したことがあるし……」

「えっ! それはどういう……」

「子どもゆうても高校生の時じゃったけど、あれは……」

 どうやら痩身の男は、自身にまつわる怪異譚を披露したいらしい。頭の中で過去の情景を甦らせ、何から話すべきか思案している様子だったが、ふと視線を車窓の外に転じると

「ああ、もうすぐバスが村に着くわ」と告げた。

 男の言葉に、俺たちも顔を上げて車外の風景に視線を走らせる。

 バスはすでに峠を越え、もう間もなく、平坦地に入ろうかというゆるい坂道を下っていた。左には山肌が、右には鎌洗川の支流・土濃との川が、そして前面のフロントガラスからは、山に囲まれた村の佇まいが遠望できる。

 結局、話の口火を切る前に、痩身男の怪異譚は取り止めになったようだ。

 坂を下りきったバスは、やがて緩やかな左カーブを描いた道を曲がり、村の中心と思われる区域に入ったところでスピードを緩め、その一角にゆっくりと停車した。


 緋剣村のバス停は、“元”村役場の前に置かれていた。

 前述のとおり、行政単位としての「緋剣村」は存在しない。便宜上、地元の人々は「緋剣村」という呼称をそのまま使っているようだが、正しくは「赤菜町大字緋剣」地区であり、かつての村役場は、建物の入口に掲げられているように「赤菜町役場緋剣支所」である。

 結局、始発の赤菜町から終着の緋剣村まで、俺たちを含むバスの乗客の顔ぶれは、まったく変わることはなかった。途中にあった三つほどの停留所は、なぜこんなところに置かれたのか理解に苦しむほど、辺鄙な場所に設置されていたので、無理もあるまい。

 バスを降りると、たちまち熱を帯びた外気に身体を包まれた。じんわりと額に汗がにじみ始める。太陽はだいぶ西に傾いているが、まだ日差しは強い。

「結依からLINEの返信が来なかった理由って、これじゃないか?」

 自分のスマホ画面をのぞき込んでいた翔吾が、それを俺の目の前にかざした。なんと右上隅に〈圏外〉の表示が見える。

「もしかして、ここ、電波が入んないのかよ!?」

 俺も慌ててポケットからスマホを取り出し、確かめる。やはり〈圏外〉だ。

「あっ、わたしのも……」

 梨夏の声も重なって、圏外確定。この村ではスマホというか携帯電話は使えないらしい。

「でも、そもそもの始まりは、結依からのLINEだったんだけどな。あのメッセージだけどうして届いたんだろ」

 俺の疑問に、翔吾が首を傾げながら答えた。

「時間帯とか気象条件によっては、つながる時があるのかもな。それとも、結依が村の外からLINE送ったとか……」

 なるほど、そういうことかもしれないな。

 さて、ようやく緋剣村に着いたのはいいけど、結依の実家である神社の場所がわからない。

 さっきの怪談コンビにでも尋ねればよかったのだが、スマホ圏外についてやり取りしている間に、降車客は三々五々、それぞれの行き先に向かって散ってしまっていた。山伏男もリュックサック青年も姿を消している。

「そうだ。バスの運転手に聞けばわかるかも」

 俺は思いつきを口にして、バス停のほうを振り返った。幸いバスは赤菜町に向けて折り返し運転をするらしく、エンジンをかけたままバス停に待機している。

 バスの前からフロントガラス越しに運転手に合図を送ると、運転席横の窓を開けてくれた。

「あの~、栞梛さんの神社を訪ねて来たんですけど、場所がわからなくて……」

「栞梛さん? ああ、緋劔神社かいの。神社は川向うじゃ。今バスで来た道をちょっと戻って、橋を渡ったら鳥居が立っとる。ほれ、あそこじゃ」

 窓から身を乗り出すようにして運転手が指さす方向に目をやると、旧村役場の建物の向こうに赤い鳥居の一部が見えた。

 運転手にお礼を告げて、俺たちは歩き出した。

 町役場の支所や古めかしい食料品店兼雑貨屋、喫茶店、駐在所が、バス停とそれに続く小さな広場を取り囲むように建っている。どこにでもありそうな田舎の風景だ。人通りは少ないが、ここが村の中心なのだろう。

 前方から大きな荷物を背負った中年女性がやって来た。すれ違いざまに、やはり物珍しげな視線を俺たちに投げかけ、背中の荷物を揺らしながらバス停のほうにゆっくりと歩いていく。

「バスの中で怖い話聞いたから、どんな村かとビビっちゃったけど、今のところ普通ね」

 梨夏が安堵の表情を見せた。

 大きな土蔵造りの農家の脇を過ぎると丁字路があり、そこを左に曲がると土濃川にかかる橋が見えた。橋の向こうに立派な赤い鳥居が屹立している。

 二十メートルほどの長さの橋を渡ったところで、改めて鳥居を見上げると、その神額に「緋劔神社」の文字が見えた。「剣」ではなく、古い「劔」の字があてられている。

 神社への参道は、鳥居の下から右手の小高い丘に向かって伸びており、丘の上の木々の間からは、神社のものらしい焦茶色の大きな屋根がのぞいている。

 出発から六時間以上を経て、ようやく目的地にたどり着いたわけだ。

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