月面の金糸雀

森村直也

第1話 手放した月

 スマートフォンのニュース画面の文字を眺めて私は思わず動きを止めた。それを察したのか偶然か、珍しく素直に授乳されていた娘が身動ぎして口を離す。スマートフォンを傍らに置いて抱き直す。ようやく慣れてきた手で娘の背中を軽く叩くと、けぷけぷと娘はげっぷした。


 ――就任僅か二週間の悲劇。

 ――月面基地初の死者は日本人作業員。

 ――原因は食中毒か。


 スマートフォンが音を立てる。娘を片手に抱きながら、着メロ2コーラスでどうにか通話ONにした。

「はい」

「吾川です。中水さん?」

 発信者など、見る余裕もなかったから。

 声に思わず瞬いた。

「日本月面開発機構の吾川です。中水まどかさんの、」

「中水です。中水まどかです。吾川さん、お久しぶり」

 娘が手の中で身動ぎする。いつもは授乳後寝てしまうことが多い。眠たいのだ。眠たいのだが。

 私は寝かしつけることも出来ず、娘の頭を撫でてやる。

 受話器の向こうで吾川は溜息のような息をつく。

「久しぶり。お子さん、無事産まれたって聞いたわ。元気?」

「私も娘も元気よ。おかげさまで」

 あぶあぶと不機嫌そうな声が混じる。あぁまずいな。この泣き方は盛大な抗議の前兆現象。スマートフォンを肩に挟み、娘をベッドに連れて行く。

 よだれに汚れたシーツ代わりのタオルを剥ぎ取る。洗い立てのまっさらを片手でどうにか布団に広げる。石鹸の香りがふわりと舞った。

「四ヶ月くらいだっけ」

「三ヶ月よ」

 電動ベッドへそっと下ろす。スイッチを入れればベッドは自動で揺れ出した。

 娘は親指を咥えて私を見る。私の方を、じっと見ている。

 額を撫でる。安心したように目を閉じるから、少しばかり前屈みのちょっと辛い体制だけど、スマートフォンを持ち直す。

「あと、九ヶ月」

 声がする。固い、声。

「そうね。一年の約束だもの」

 声が止まる。声を待ちつつ、娘をあやす。娘の小さな手が私の指を掴んで、離し。

 吐息が寝息に変わっていく。

「ニュース、見た?」

 吾川が連絡してくるニュース。私と吾川の共通項。

 思い浮かぶニュースは、一つしかなかった。

「月面の食中毒」

 吾川は息を呑む。迷うような考えるような、そんな吐息が聞こえてくる。

「まどか」

「何」

 もう少し。もう少し。娘の額をそっとそっとなで続ける。

「もう一度、挑戦しない?」

「わたし、」

 即答は、出来なかった。


 *


 三〇歳以下限定、月面滞在作業員募集という広告が新聞に載った時、私はまだ学生だった。土木工学なんて女性の少ない学部で宇宙建築なんてSFじみた言葉に憧れていた。

 大手建設会社がこぞって先進開発部門として宇宙建築を掲げたり。宇宙エレベータの運用がいよいよ始まろうとするなんて、世界中が沸い ていた。

 だから少しばかり背伸びをした。

 背伸びをして、背伸びしたままに線路の軌道は切り替わっていたのだろう。

 大学院を卒業した春、私は『日本月面開発機構』の社員証を手に入れていた。

『月面作業員候補生』の文字が華々しく入ってた。

 軌道が再び切り替わるのは、三年ほどが経ったあたりで。月面作業員の最終選考直前に私は選考を降りることを選択した。


 熱も冷めたスマートフォンを傍らに、娘は熟睡体制に入っている。

 私は額をなで続ける。


 死亡したのは、あの時の選考を勝ち抜いた先輩だった。

 基地の医者は食中毒だと断言した。

 原因は水に食事。他のクルーには異変はなく、しかしいくつかのパーツの交換が次回の補給で成されることが決定したと。

 人員の補充も。

『うちから出す候補がいないの』

 吾川の声は淡々としていた。人が亡くなった、その事実より優先すべき事があるとでもいうように。

『どこも準備が出来ていない。チャンスよ』

 まって。なぜ食中毒なの。安全なの?

『他のクルーは無事なのよ。遺体が戻って来次第、こちらでも検視の用意はある』

 なら、原因がわかってからなら。

『若手技術者を募集しているのは向こうなのよ』

 娘はすやすやと寝入っている。電動ベッドの柔らかな動きをそのままに、スマートフォンを拾い上げる。

 キッチンへ戻る。窓を開ける。雪も嵐も雨もない、決まり切った柔らかな風が舞い込んでくる。遙か地下都市の天井からはファイバーを通した太陽光が降り注ぎ。

 行きたい。思う気持ちと。

 娘の小さな小さな指と。

 一人だけの死という事実と。

 憧れと。


 手放した月への切符は二度と戻らないと、思っていた。


 私は――。

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