#14 覚醒の時

 もう面会時間は過ぎている。だがそんな決まり事に構っていられない。それでも病院内なので、蛍馬けいま武流たけるは出来る限りの早歩きで、そして鞠右衛門まりえもんとハシビロコウ先輩がその後に続いた。


 目指すは向日葵ひまわりの病室。ふたりは必死で向かっていた。その時間が長く感じる。


 やっと到着すると、蛍馬は緊張でごくりと喉を鳴らし、ドアをノックした。すると中から「はい、どうぞ」とやや上擦うわずった父親の声がした。


 蛍馬がそろりとドアを開けると、振り向いた父親の眼はわずかにうるみ、口角がやんわりと引き上げられていた。


「お父さん、あの」


 蛍馬が戸惑った様に声を掛けると、父親は眼を嬉しそうに細めて口を開いた。


「向日葵が、眼をましました」


 蛍馬、そして武流は「ああ……!」と掠れた声を上げ、ゆっくりと病室に足を踏み入れた。


 父親の向こうのベッドの上、上半身を起こした病院着姿の向日葵がこちらを見ていた。


「蛍馬さん、武流さん、そしてもう見えなくなっちゃったんですけど鞠右衛門さん、ハシビロコウ先輩さん、いますか? ありがとうございました!」


 そうはっきりとした口調で言って満面の笑みを浮かべる。


「向日葵ちゃん、良かったぁ……!」


「本当だぜ。突然俺の中から消えた時は吃驚びっくりしたぜ。戻れたんだな」


「はい! 薫子さんが逮捕されたのを見た瞬間、ああ良かった、終わったんだって思ったら、戻れていました」


「え、あの……?」


 蛍馬たちの会話の意味が解らず、父親は困惑した声を上げる。


「一体何の話を?」


「向日葵ちゃんの身体の調子はどうですか?」


「あ、ああ、担当医の見立てでは問題無いとの事です。念の為明日は検査との事ですが」


「本当に良かったです」


 蛍馬は胸を撫で下ろし、次にはくいと顎を引き、表情を引き締める。


「お父さん、後ほど警察から詳しい説明があると思いますが、ついさっき、向日葵ちゃん殺害未遂容疑で相模原さがみはら薫子が逮捕されました」


「あ、見つかったんですね」


「さっきの包丁云々もですが、そもそも向日葵ちゃんをこんな目に遭わせたのが相模原薫子だったんです」


「え、ええ!? どうしてそんな」


 父親が驚きで眼を見開く。


「あなたと一緒になるのに、向日葵ちゃんが邪魔だと思ったんだそうです」


「は? 一緒も何も、私にはそもそもそんな気は微塵みじんも」


「はい。ただの思い込みです。相模原薫子は私たちの常識とは外の世界、考えで生きていました。そこから来た行動です」


「そんな、私の所為せいで……」


 父親は呆然と口を開き、頭を抱えた。


「違います。お父さんの所為ではありません。相模原薫子は人間では無かった。それだけです」


「そうだよ! パパの所為じゃ無いよ。だからお願いだから、顔を上げて」


 向日葵も言って、父親に両手を伸ばす。


「済まない向日葵。パパがもっとちゃんとしていれば」


「だからパパの所為じゃ無いんだってば。ねぇパパ、私ね、パパに聞いて欲しい話があるの。私、身体が眠っている時、生霊になっていたの。それでね、蛍馬さんと武流さんたちに助けて貰って、犯人を追ったんだよ!」


 向日葵が興奮して頬を紅潮させると、父親は「何を言っているんだ」と怪訝けげんそうな表情を浮かべる。


「信じられないかも知れないけど本当なの! あのね、あのね!」


 元気に前のめりで父親に語り掛ける向日葵に「もう大丈夫だ」と頷き、蛍馬たちはそっと病室を出た。


「ああ、本当に良うござりました」


「うむ、落着であるな」


 鞠右衛門とハシビロコウ先輩も、安堵の表情だ。この2体にも本当に助けられた。


「本当にありがとうございました」


「ありがとうな」


「いえいえ、お役に立てたのでしたらば僥倖ぎょうこうでござりまする」


「うむ。これがハッピーエンドと言うやつであるな。我輩は満足である」


「では、我々は失礼いたしまする」


「はい。野洲やすさんにはあらためてお礼の電話をします。よろしくお伝えください」


「心得た」


「良かったらさ、今度は遊びに来い」


「はい、是非に! では」


「うむ。ではな」


 そう言い残し、笑顔の鞠右衛門とハシビロコウ先輩はすうっと消えて行った。


「じゃ、僕らも帰ろうか」


「そうだな」


 蛍馬と武流は穏やかな表情で、ゆっくりと足を踏み出した。




 兄の篤巳あつみ伝手つてで紹介して貰う予定だった弁護士が必要無くなったので、翌日、蛍馬と武流ふたりでお詫びに行く事にした。


 元々昼以降に伺うとの約束だったので、その通りに向かう。


 弁護士事務所の受付で名乗ると、シンプルな椅子とテーブル、テレビなどが置かれた、こじんまりとした部屋に通される。同じドアの部屋が幾つか並んでいたので、この部屋は普段は依頼人を通している部屋なのだろう。


 まず出て来てくれたのは、篤巳の会社の顧問弁護士だった。


「いやぁ、いつもお兄さまにはお世話になりまして」


 そう言いながら出された名刺をそれぞれ受け取る。そこには「弁護士 片野山かたのやま涼明すずあき」とあった。


「いえ、こちらこそ兄がお世話になっております」


 蛍馬と武流が揃って頭を下げると、片野山は「いえいえ」と笑顔を浮かべた。


「付きまといなどに詳しい弁護士を紹介して欲しいと伺ってますが」


「それなんですが、申し訳ありません、昨日解決しまして」


 蛍馬が言葉の通り申し訳無さげに言うと、片野山は「ああ、そうなんですね!」と破顔した。


「それは良かったです」


「本当に申し訳ありません。折角ご都合付けていただきましたのに」


「いえいえ、弁護士の出番なんて無い方が良いですからね。あの、失礼で無ければ、どうなったのか教えていただいても?」


「ストーカーとは別件で、警察に逮捕されました」


 蛍馬の台詞に、片野山は「ああ……」と眼を伏せた。


「それはまた、被害に遭われていた方には良かったのでしょうが、大変でしたね」


「それはまぁ、はい、まぁ、なかなかに」


 蛍馬は詳細を言う事が出来ず、苦笑しながらそれだけ応えた。


「ああ、紹介しようと思っていました弁護士を紹介しておきますね。勿論ご入用が無いに越した事は無いですが、万が一の為に、選択肢を広げる事は悪い事ではありません」


「そうですね。ありがとうございます」


「少々お待ちくださいね」


 そう言い残し、片野山は部屋を出て行く。その間に事務員と思しき女性が、上品な湯飲みに注がれた緑茶を持って来てくれた。


 有り難く唇を湿らせ、その数分後、片野山はひとりの女性をともなって戻って来た。


「お待たせいたしました」


「初めまして。弁護士の鈴山すずやまと申します」


 ショートカットの女性弁護士は笑顔で言い、名刺を差し出して来る。鈴山百合葉ゆりは、その名前に武流は聞き覚えがあった。確かそう多い苗字では無かった筈だ。


 知っている人か? 武流が鈴山の顔をつい見つめてしまうと、鈴山は「あら?」と指を口元にやった。


「間違っていましたらごめんなさい、あなた、もしかして夜逃げ専門の引越し業者さんで働いておられませんか?」


「あ、はい。やっぱりお客さんでしたか。ああ、思い出しました」


 武流が頷くと、鈴山はゆったりと頭を下げた。


「はい。その節はお世話になりました。あれから無事に離婚が成立し、職場だったこの事務所の近くに引っ越す事が出来ました」


「そうでしたか。それは良かったです」


 そうか、弁護士だったのか。道理で他の客に比べたらきもが座っていた筈だ。


「何せ職場が職場ですから。職員が一丸となって守ってくれました」


 鈴山はそう言って、頼もしげな笑顔を浮かべる。


「この弁護士事務所の弁護士は、刑事は勿論民事に関してもエキスパートばかりです。もし何かありましたら、是非頼ってください。お力になりたいと思います」


 そう言う鈴山の横では片野山もにっこりと笑顔を浮かべている。蛍馬と武流はそのふところの深さに敬意を表し、深く頭を下げた。


「はい。ありがとうございます」


「ありがとうございます」


 そしてふたりは清々しい気持ちで弁護士事務所を辞したのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る