#10 間を置かずの再会

 向日葵ひまわりの話はこうだった。




 父親が出勤すると、始業前に所長に呼び出される。所長は苦虫を噛み潰した様な表情だった。


 薫子の事だろうか。向日葵はそう考える。


 ふたりに付いてパーティションで区切られただけの会議室に入ると、丁度それぞれが椅子に掛けるところだった。


 所長は他の従業員の耳に余り届かない様にする為か、父親にだけ聞こえる様な小さな声で口を開いた。


「君に話そうかどうか迷いましたが、もう既に迷惑を掛けてしまっている事、そしてこれからも迷惑を掛けてしまうかも知れない事。それを踏まえ、話しておく事にします」


「……はい」


 神妙な面持ちの所長を前に、父親はごくりと喉を鳴らした。


「昨夜、薫子が自殺を図りました」


「つっ……!」


 あまりの内容に、驚愕した父親の腰が浮き、がたんと椅子が音を立てた。


「大丈夫です、落ち着いてください。手首を切ったつもりで、場所はかなりずれていて、しかもかすり傷程度です。風呂で腕を切って傷口を湯船に付けていたのを家内が見付け、その叫び声で私が駆け付けました。家内が救急車を呼んで病院に運ばれましたが、入院どころか縫う必要も無い、消毒してガーゼを貼れば充分な傷でした。何せ湯船の水は殆どが透明なままでしたからね、出血は大した事は無かった筈です。薫子は「久木野さんの娘が入院してる病院に入院する」とかなりごねたんですが、そんな事をさせる訳も無く、そもそも入院の必要も無いので、家に連れ帰りました。今日は家内に殆ど見張られている状態です。で、部屋の机の上に、こんなものが置いてありました」


 所長がそう言いながら、スーツの懐から出したのは、原色がふんだんに使われている派手な封筒だった。宛名と差出人を書く部分が白地になっていて、表のそこには「遺書」とあった。


 眼の前に差し出されたそれを見下ろし、父親は問う。


「これは、私が読んでも良いものなんでしょうか」


「はい。よろしければ」


 父親は封筒から、揃いの派手な便箋を取り出すと、四つ折りにされていたそれを開く。向日葵も父親の背後からそれを覗き込んだ。



 私は、同じ職場の久木野さんにはずかしめられました。

 久木野さんはその責任を取るべきです。


               薫子



 たったそれだけが、癖のある丸い文字で書かれていた。


「これは、遺書と言うよりは」


「はい、遺書ではありません。君に因縁を付けて、責任と言う形で言う事を聞かせようとしているだけです。なので、この自殺未遂は君への当て付けです。君が薫子に何もしていないと言う事は、この職場の皆が知っています。なので、君がこれに従う必要はありません。私は薫子がここまで思い込みが激しいと言う事を知っておいて欲しかったんです。これからも迷惑を掛けてしまうかも知れません。本当に申し訳無い」


 所長に深く頭を下げられて、父親は、そして向日葵は慌てる。


「所長、止めてください。こちらこそ、私が気付かないうちに娘さんに何かしてしまっていたのかも知れません」


「いいえ、そうでは無いでしょう。君は何もしていない。これでも君の人となりを知っているつもりです。なのに薫子はこんな行動を取った。あの子はそういう子なのだと、今回の一件で思い知らされました。そうで無ければ狂言自殺なんて真似はしないでしょうから」


「ですが」


「良いですか。お願いですから責任を感じないでください。私はこれまで以上に君に注意をして貰いたいんです。娘さんの事にしてもそうです。娘さんと同じ病院に入院したいなんて、一体何を考えているのか」


 父親は思案する様に顔を伏せる。数秒後、顔を上げると、口を開いた。


「所長、申し訳ありませんが、しばらくく仕事を休ませてください。念の為、その間住処を移ろうと思います。娘も転院させます」


「うん、それが良いと私も思います。こちらも、薫子は退職させます。不祥事という形の解雇にします。家内としっかりとしつけし直したいと思います」


「……はい」


 話が終わった頃には、既に始業時間は過ぎていて、従業員は業務を始めていた。父親と所長も仕事を始めるべく、席へと戻って行った。


 向日葵は「所長さん、凄い人だな……」と漏らした。


 幾ら生命に別状は無いと言っても、娘が自殺を図ったのだ。その原因を、この場合は向日葵の父親を恨んでも無理は無い。


 実際には逆恨みではあるものの、詰め寄られても仕方が無い状況なのだ。


 なのに所長は自分の娘の否を全面的に認め、頭まで下げている。


 流石、父親が尊敬しているだけの事はある。


 そんな立派な父親を持つのに、何故なぜ薫子はああ育ってしまったのか。不思議ではあるが、これは所長のお宅の問題である。向日葵がうかがい知る事は出来ない。


 それももしかしたら、薫子が刑に服したら明らかになるのだろうか。




「斜め上行っちゃったなぁ。自分が傷付くのを何よりも嫌がるタイプだと思ってたからさぁ」


 蛍馬けいま憮然ぶぜんとした表情を隠そうとしない。


浅慮せんりょで短絡的で脊髄せきずい反射で、自分が手に入れたいものの為なら何でもする女なんだな。全くたちが悪い」


「それ程父親の事を思っておるのだろう。だがその様な押し付けは本物にあらず。ただの独りよがりである。許されざる愚行ぐこうだと我輩は思うぞ」


「俺もそう思うよ」


 ハシビロコウ先輩の言葉に、武流たけるが呆れた様に息を吐いた。


「じゃあ、今は薫子は家にいるんだね、母親に監視されて。昨日そんな事があったんだから、母親もそう気を抜かないだろうけど、こっちも出来る手を打って行こう。今日も夕方にはお父さん、病室に寄られるよね?」


「あ、はい、多分。毎日来てくれてますから」


「じゃあ病室でお父さんを待とう。前のお見舞いから3日しか経ってないけど、近くに来たから少し寄ってみたって事で、今回は手ぶらで。名刺は渡したけど、お父さんからの連絡は無いと見て良いと思う。僕たちへの信用云々は別として、多分誰かに頼ったり迷惑掛けたりしたがらないと思うから」


「そうだな」


「じゃあ……武流、ごめんだけど服貸して貰って良い?」


「服って、何着て行くつもりなんだよ。親父さんに会うんなら女装だろ?」


「うん。だから、武流用に用意してある大人し目の女性の服」


「俺はそもそも女装する気は無いっての」


「可愛いのに〜」


 まだ時間はある。それまでに家事などを済ませておこう。




 夕方になった。蛍馬は手早く女装をし、武流の運転で病院へと向かう。ハシビロコウ先輩は父親の終業時間を狙って父親の元へ。向日葵は先に病院に向かっていた。


 父親は毎日寄り道をせずに病院に寄ると言う事で、大体の時間も判っていた。その時間の前後を狙う。


 父親はまず向日葵の顔を見て無事を確認したら、院内のレストランで夕食を摂るとの事なので、出来ればそれに合わせたい。


 車を降りて建物に向かうと、向日葵が病室の窓から飛んで来た。


「パパ、まだ病室にいます」


「ありがとう。じゃあそっちに行こう」


 そうして病室へ。ドアをノックすると、中から「どうぞ」と返事があった。


 室内に入ると、振り向いた父親はスーツ姿だった。今回は髪もしっかりと撫で付けられ乱れは無い。だが数日前よりも頬がこけている気がする。恐らくろくに食べていないのだろう。


 向日葵の事に加えて薫子の事もある。父親にとって、ここ数日は災難ばかりだ。


 これは早々に何とかしなければ。蛍馬と武流はさりげなく視線を交わし、小さく頷いた。


「あ、柚木さん」


 今日の蛍馬はネイビーのミモレ丈のワンピース。武流はチャコールグレイのニットに青のジーンズだった。犬耳を隠すバンダナはカーキの地味な迷彩柄をセレクトした。


 向日葵の身体が眠るベッドの脇では、鞠右衛門まりえもんとハシビロコウ先輩が並んで浮いていた。挨拶代わりにさっと眼を伏せる。


「こんにちは。近くに来たので、寄らせていただきました。今日は手ぶらですいません」


「いえ、とんでもありません。ありがとうございます」


 そう言う父親の小さな笑顔は、弱々しいものだった。それだけでも相当参っている事が窺える。


「向日葵ちゃん、どうですか?」


「相変わらずです。本当に、一体どうしてなのか……」


 父親は辛そうに眼を伏せた。蛍馬は少しだけ覗き込む様にし、遠慮がちに口を開いた。


「絶対に大丈夫だって、私が言えないとは思いますが、でも、絶対大丈夫だって私たちは思ってます。お父さんのお立場で楽観的になるのは難しいとは思いますが、そう思ってみませんか?」


「そう、ですね。そうですね。そう言っていただけて、少し気が楽になりました。ありがとうございます」


 そう言って父親が浮かべた笑みは、少し希望が見えた様な、そう思わせるものだった。蛍馬は些か安堵する。


「あの、お父さん、もしよろしければ夕飯ご一緒にいかがですか? 院内に確かレストランがありましたよね」


「ああ、そうですね。私、向日葵が入院してからは、毎晩の食事はここのレストランなんです。行きましょうか」


 そうして蛍馬と武流、父親、向日葵とハシビロコウ先輩は鞠右衛門に後を任せて、レストランに向かった。

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