僕たちが叶えたい極上の夢

#08 その始まりは

　蛍馬（けいま）と父親がベッド脇のパイプ椅子に掛け、武流（たける）は立ったまま。その周りを向日葵（ひまわり）と鞠右衛門（まりえもん）が漂っている。

　これまであった薫子との関わりを、ぽつりぽつりと話す父親。

　それは向日葵が殴られる前から始まっていた。それこそ妻、向日葵の母親逝去（せいきょ）の直後から。

　それを聞いた時、まさか母親まで、と蛍馬と武流は顔色を変えて顔を見合わせたが、向日葵が「違います」と首を振った。

「ママを居眠り運転で撥（は）ねた人は、警察に捕まりました」

　それを聞いてふたりは些（いささ）か安堵する。

　薫子は忌引（きび）き明けで出社した父親に纏（まと）わり付き始めた。

「お茶を飲みに行きましょう」「食事に行きましょう」「お酒を飲みに行きましょう」

　そう執拗（しつよう）に絡み始めたのだと言う。

　妻逝去の衝撃和（やわ）らがぬまま、そんな事をされてもまともに聞く事も出来ないし、当然受け入れる訳が無い。

　それでも薫子はしつこかった。

　父親の勤める事務所には数人の税理士と事務員がいるが、専属の形は取っていない。案件ごとに専属になる事はあるが、基本的にはその時手透きの事務員が付く事になっている。税理士と事務員の人数がイコールでは無いからだ。

　なのだが、薫子は父親の専属事務員を公言し、父親に案件が回って来ると、薫子自身の状況がどうであれ、父親に付こうとする。

　先日父親の同僚が言っていた通り、薫子はまるで戦力にならない。やる気が無い事もあるが、何せ事務能力が低いのである。所長もそれを理解しているので、決して薫子を大型案件には付けようとしなかった。

　父親が手掛けていたのは、殆どが企業関連。とても薫子の手に負えるものでは無いのである。

　なのに父親に付こうとするものだから、その度に所長に叱られ、文句を言いつつも別の案件に回される。

　だが隙あらば父親の近くにいようとするので、父親はすっかりと困り果てていたのだ。

　そうなると、父親が溜め息を吐きながら帰って来た日などは、そういったごたごたに晒（さら）されていたのだろう。

　妻の死はショックだった。だが向日葵もいるのだし、そう沈んでばかりはいられない。何より嘆（なげ）く向日葵を見たく無い。

　だから父親は無理に笑顔を作った。すると向日葵もぎこちないながらも笑ってくれた。

　最初は痩せ我慢だったそれも次第に本物へと変わって行き、妻の仏前でも笑顔で向日葵の話などを出来る様になって来ていたと言うのに。

　ひとりの女性が、この安寧（あんねい）を壊そうとしていた。

　毅然（きぜん）と拒絶して来た。それでも相手は所長の娘だ。あの所長は多少の親バカではある様だが、正しい事と間違っている事の混合をしない。例え可愛がっている娘であっても、叱る事を厭（いと）わない、そういう人だ。

　自分が本気で困っている事を訴えれば、何らかの策を講じてくれるだろう。

　だが、事を大きくしたくは無かった。所長は尊敬出来る人で、とても良い職場環境で働かせて貰っていて、恩義も感じている。

　これはまだ個人の事として解決出来る。父親はそう思っている。

　そして向日葵の為にも早々に何とかしなければ。そう思っている矢先の、向日葵の事件だったのだ。

　向日葵が暴行を受け、意識が戻らず、また喪（うしな）ってしまうかも知れないと言う恐怖に晒されながら、あの女性は人の精神に無神経に土足で踏み込んで来る。

　話を聞いて、向日葵は「パパ……」と泣きそうになって口元を押さえ、鞠右衛門も沈痛な面持ちで眼を閉じている。

「あの、お父さん、例えば、例えばですよ、職場をお移りになられるとか、そういう事はお考えには？」

　蛍馬の問いに、父親はゆっくりと頷いた。

「それは最後の手段だと思っています。もし次の職場の都合で引っ越す事になってしまえば、向日葵を転校させなければならなくなるかも知れません。向日葵は今高校２年生。頑張って勉強して入学した高校です。卒業まで通って欲しいと思っています」

「そう、ですね」

　向日葵は武流の隣で「私の事なんか気にしないでよぅ……」と顔を覆ってしまう。

「それに、今の家は、妻と私とで購入したマンションで、妻との思い出も詰まっています。今はまだ、離れる気になれないんです」

　その言葉に向日葵がぱっと顔を上げ、「そう、そうだよね！」と何度も大きく頷いた。

　それは至極当然の感情である。

「それはそうですよね。あの、さっきも言いましたが、私たちにはいろいろな職業の知り合いが居ます。もしお父さんが何らかの形で動かれるのであれば、お力になれるのでは無いかと思います。もし何かありましたら」

　蛍馬はバッグから茶色の革製の名刺入れを出し、名刺を取り出す。それは店用のものでは無く、蛍馬個人のもの。本名と携帯の電話番号、メールアドレスが印刷されただけのシンプルなものだ。

「こちらにご連絡ください。向日葵ちゃんが目覚めた時、解決出来ていたら良いなって私も武流も思います。どうか力にならせてください」

　向日葵からの依頼なので、それを解決する事が先決だ。しかし事は犯罪も関わっている。今でも犯人は何も無かったかの様に父親の前に姿を現し、翻弄（ほんろう）し続けているのだ。

　早く警察にも動いて貰わなければ。

　父親はほっと頬を綻ばせて、ゆっくりと震える声を紡いだ。

「ありがとうございます。私よりもずっとお若い、向日葵のお友だちに頼ってしまうのは本当に心苦しいのですが、向日葵の為でもありますよね。何かありましたら、是非よろしくお願いします」

「勿論です。喜んで」

　蛍馬が父親を安心させるかの様な笑みを浮かべ、武流も小さく頷いた。

　病室を辞し、病院を出て車へと戻る。向日葵と鞠右衛門も一緒だ。

「私、パパのところに戻ろうと思います。今はひとりでいて欲しくなくて。パパに私は見えないですけど、でも」

「うん、解るよ。僕も行った方が良いと思う」

「そうだな。けど、何かあったらすぐにうちに来いよ。明日は日曜で、蛍馬も俺も家にいるからよ」

「はい。ありがとうございます。行って来ますね！」

　向日葵はほっとした様な笑みを浮かべ、病室へと飛んで行った。

「ふぅむ、向日葵さまは、とてもお強く聡明（そうめい）な女性でございまするカピな」

　向日葵の後ろ姿を見送って、鞠右衛門は感心した様に言う。

「そうだね。普通こんな状態になったら、もっと取り乱しても良い筈なのにね。いつでも冷静でいてくれるから、僕たちも助かってる」

「おや、お相手が亡者であらせられても、大変なお方がこれまでにおられたのカピで？」

　蛍馬と武流はつい目線を合わせ、どちらとも無く溜め息を吐く。すると鞠右衛門が「おやおや」と眼を見開いた。

「死んだところで、生きてた時の性格が直るもんでも無いからな。「あいつのせいで死んだ、あいつに復讐しろ、殺せ」ってがなりこんで来られたりよ」

「亡くなられたのは気の毒だとは思うけど、僕たちは犯罪行為までする気は無いしね。事件なら警察官の知り合いにリークするし、場合によっては僕たちも動くけど、基本話を聞いて手助けをするだけだもん。それを「人でなし」って怒鳴られてもねぇ」

　蛍馬はそう言って苦笑し、武流は鼻を鳴らす。鞠右衛門も「それはお気の毒にカピ」と眦を下げた。

「しかしながら、蛍馬さまと武流さまが真摯（しんし）に、誠実に皆さまと向き合っておられるのは、この向日葵さまとの一件を拝見しましても明白でござりまするカピ。期間限定ではござりまするが、この鞠右衛門、最後まで見届けさせていただきまするカピ」

　鞠右衛門の優しい物言いに、蛍馬も武流も口元を綻ばせた。

「うん。ありがとうね」

「ありがとな」

「いえいえ、どういたしましてでござりまするカピ」

　鞠右衛門もそう言い、口角を上げた。