#02 ふたりに辿り着くまで

 それから、向日葵は毎日父親に付いて行く事にした。身体に戻りたいのは山々だが、それより父親とあの女性事務員の事を何とかしなくては。


 意識体の向日葵に何が出来るのか判らないが、ともあれじっとなんてしていられない。


 父親に付いていった初日、向日葵は事務所内を浮遊し、父親の仕事を興味深げに眺めながら終業を待った。


 昼休憩、父親は大きな弁当箱と思われる包みを手に付いて来ようとする女性事務員を振り切り、事務所近くの蕎麦そば屋に入る。そして大して美味しくなさそうな表情で、もそもそとざる蕎麦をすすった。


 その店が不味い訳では無いだろう。現に店内は混んでいて、あちらこちらで「旨い」と声が上がっている。そして蕎麦は父親の好物でもある。


 ざる蕎麦の盛りが半分程崩されたところで、父親の前にひとりの小太りな中年男性が掛けた。


「おう、お疲れ」


 顔を上げた父親は、「お疲れさま」と気安く応える。


 この男性は確か父親の職場の同僚で、歳も同じか近いのか、午前中もこうして砕けた遣り取りをしていた。


 注文を取りに来た女性店員に、同僚男性は天ざる蕎麦を注文し、出されたお茶をずずっと啜り、お絞りで手と顔、首筋を拭いた。また何とも親父っぽい。


「またざる蕎麦だけか? 最近ずっとそうじゃ無いか? ちゃんと食わないとたねぇぞ」


「いやね、向日葵が怪我してから、どうにも食べる気がしなくてね。好きな蕎麦なら何とか食べられるから。このお店美味しいし」


 苦笑しながら言う父親に、向日葵は「パパ……」と胸を痛める。同僚男性は「ああ〜」と眉をしかめた。


「そりゃあそうだよな。うちは男だが、そんでも怪我したとなりゃあ心配になるし、意識が戻らねぇとなると尚更だわ。けど、そんな時にお前まで倒れたりしちゃあ眼も当てられん。出来るだけしっかり食えよ」


「……そうだね」


 父は眼を細め、小さく笑う。同僚男性の言葉は乱暴気味ではあるが、父親への気遣いが込められていた。本当に心配してくれているのだろう。


 そうしている内に、同僚男性の前に天ざる蕎麦が運ばれて来た。同僚はほかほかと湯気を上げる天麩羅てんぷらの盛り合わせから、2本そびえている海老天のうち1本を、父親のざるの上に乗せた。


「無理にでも食え。大丈夫だ、娘さんは生きてる。お前がしっかり食ってしゃんとして信じてやれば、必ず目覚めるからさ」


 父親はその海老天を見つめ、ほっと頬を和ませた。


「ありがとうな」


「おう」


 父親は海老天をはしで掴み上げ、蕎麦つゆに付けて小さくかじり付いた。そして嬉しそうに眼を細める。


「美味しいな。久しぶりにちゃんと食べてる感じがするよ」


「そうそう。食べてたら何でも大概大丈夫なんだよ」


 同僚男性の理論は乱暴でもあるが、今の父親にはこれぐらいが必要なのかも知れない。


 向日葵は同僚に「ありがとうございます、ありがとうございます!」と何度も頭を下げた。




 さて、就業時間である。以前は父親の帰宅時間はまちまちだったが、向日葵の怪我以降、ほぼ決まった時間に病院に立ち寄る様になっていた。


「所長、毎日すいません。ありがとうございます」


 帰り仕度を終えた父親は、室内の1番奥にある机に着いている初老の男性に頭を下げた。


「気にしないでください。娘さんがお元気になられたら、またバリバリ頑張って貰いますよ」


 所長と呼ばれた男性は笑みをたたえながら言ってくれる。


「娘さんの快復を願っておりますよ」


「ありがとうございます。お先に失礼します」


 父親は言うと、事務所を辞する。向日葵も父親に付いて行こうとすると、件の女性事務員も小さなバッグ片手に立ち上がった。


「私も失礼するわねぇ。後はよろしくねぇ」


 そう言って、誰の返事も待たずに事務所を出ようとする。するとそれを所長が呼び止めた。


「おい薫子、今は忙しい時期なんだ、少しは手伝ってやろうとかは思わんのか」


 すると、薫子と呼ばれたと女性事務員は機嫌を損ねた様に頬を膨らます。


「え〜? 残業なんて嫌よぅ。私は残業はしないって約束だったでしょう? パパ」


 何と、薫子は所長の娘さんだったのか。


「パパがこの事務所に来いって言うから来てあげたんだからぁ、それぐらいどうにかしてよぅ。じゃあね〜」


 薫子はそう言って颯爽さっそうと事務所を出て言った。所長は呆れ顔で大きな溜め息を吐く。


「皆さん、すいませんねぇ。どうにもままに育ってしまって……大学卒業後も親のすねかじるつもりだと知って、それではいかんと就職活動をさせたんですが、どこにも引っかからず、仕方無くここに誘ったんですが、皆さんにこんなご迷惑を」


 所長が言うと、従業員は一様に「いえいえ」と首を振った。


「ぶっちゃけあの子はあんまり戦力になってないですが、こっちの邪魔もしないので、ま、大丈夫ですよ」


 とんでも無く失礼な事を言うのは、昼に父親に海老天を分けてくれた同僚男性だ。その台詞に全員が苦笑する。そして誰も否定しない。


「邪魔と言えば……最近久木野くんにモーションを掛けている様ですが、誰か何か聞いていませんか?」


 所長の言葉に、皆は首を傾げる。


「気になるっちゃあ気になりますが、久木野本人が俺にも何も言って来ませんので、大丈夫だと思うんですが」


 同僚男性が言うと、所長は「ふむ……」と眉間にしわを寄せた。


「久木野くんの迷惑になっていなければ良いのですが」


 パパは迷惑してるよ! 向日葵は心中でそうごちて、あ、急がなきゃ、と慌てて父親の後を追った。


 事務所を出て駅の方へと向かうと、まず薫子の後ろ姿を見付けた。そしてその前に父親の姿。


 薫子は早足で急ぐ父親を追って小走りで掛け、「久〜木〜野さんっ」と甘えた声を上げて、細い両腕を父親の腕に絡ませた。


 すると父親は、即座に乱暴とも言える動作でその手を振り解いた。


「あんっ、酷〜い」


 薫子はそう言いながらも、懲りずに父親にまとわり付く。


「久木野さん最近定時に帰るから、一緒に帰れて嬉しいですぅ」


「君の為じゃ無い」


「良いじゃ無いですかぁ。娘さん入院してるんでしょう? じゃあご飯行きましょうよぅ。早く帰っても仕方が無いじゃ無いですかぁ」


「これから娘のところに行くんだ」


「そんなの久木野さんが行っても目覚める訳じゃ無いんですからぁ。良いじゃ無いですかぁ。美味しいフレンチのお店があるんですぅ」


 父親はその無神経な台詞を無視して、更に足を早めた。置いて行かれそうになり、小走りになる薫子。


「もう、久木野さんたらぁ。パパに言い付けちゃいますよぉ」


「したければすれば良い」


 父親は忌々いまいましそうにそう言って、薫子を振り切る様に足を動かした。追い掛けるのが難しくなったのか、薫子は「もうっ」と唇を尖らせて、その場に立ち止まる。


「良いも〜ん。何処どこに行くかは判ってるんだしぃ」


 薫子はそう言って、ニヤリと口角を上げた。


 向日葵はそんなふたりのり取りを見ていて気が気では無かった。あの薫子は、向日葵を殴り付けた張本人だ。だが警察はそれに辿り着いていない。


 向日葵は警察の動向を掴んではいないが、父への事情聴取から見て、向日葵の周りの人間関係から辿っている様だ。それだと確かに薫子とは結び付かない。


 どうにか警察に知らせる方法は無いだろうか。警察の誰かに取り憑いたり出来ないだろうか。ああ、でもそんな事をしたらその人に迷惑だ。


 薫子が何を思って思い人の娘を手に掛けたのかは判らない。父親に知られれば心証が益々ますます悪くなるどころか恨まれてもおかしく無いと言うのに。


 薫子を捕まえて貰う事も勿論だが、父親と引き剥がすなりなんなりしないと、何か悪い事が起こりそうな気がする。向日葵はそんな予感にさいなまれる。


 でも、本当にどうしたら良いのだろうか。向日葵は現状答えの出ない事を考えながら、父親の後を付いて行く。


 電車に乗って、向日葵が入院する病院の最寄駅に着く。電車を降りて、病院へ。そして到着した時、入り口の自動ドアの前に、ひとりの幽霊がたたずんでいるのが見えた。


 穏やかな顔をした、小さな身体の老婆の幽霊だった。向日葵の視線は父親と老婆を行ったり来たりして、結果老婆の傍に寄って行った。何、父親の行き先は判っている。


「お婆ちゃん、どうしたんですか?」


 声を掛けてみると、老婆はゆっくりと向日葵を見た。


「あら、お嬢さん貴方、まだ生きている様に見えるわねぇ」


 高めの可愛らしい声だった。


「そうなんです。身体に戻る事が出来なくて、困ってしまって」


「あらあら、大変ねぇ」


 老婆は痛ましげに眼を伏せた。


「それも困っているんですが、他にも困ってしまっている事があって」


 話し易い雰囲気の老婆相手に向日葵は話す。すると老婆は少し考えた後、口を開いた。


「幽霊さんのお話を聞いて、相談に乗ってくれる双子の男の子たちがいるのだけども、1度行ってみてはどうかしら。困っているのだったら、生霊さんのお話も聞いてくれると思うの」


「そんな人たちがいるんですか?」


「そうなのよ。私もね、心残りがあって、前にお話を聞いて貰った事があるの。それは残念な事に解決出来なかったのだけどもね」


「え、大丈夫なんですか?」


 聞いて、やや向日葵の心中に不安が過ぎる。


「大丈夫よ。まずは行ってご覧なさい。あのご兄弟の存在を知れば、不思議と導かれるみたいだから。お昼過ぎから夕方まで待っていてくれているわよ」


 すがれるならわらでも何でも良い。そこまでやけくそでは無いが、現状、他に方法は無い様に思えた。まずはその兄弟に訴えてみよう。


「じゃあそうしてみます。ありがとうございます! あ、あの、失礼で無ければ、あの、お婆ちゃんの心残りと言うのは……?」


 威勢良くお礼を言った後、おずおずと聞いてみる。すると老婆はにっこり笑って言った。


「この病院に看護師として務めるまだ独身の孫娘の、花嫁姿を見れなかった事よ」


 ああそれは確かに、兄弟にはどうしようも無かっただろう。


 そうして向日葵は、蛍馬と武流の元に辿り着いたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る