第4章 向日葵ちゃんのドキドキ事件簿

#01 こんにちは、生きています

 平和な数日が続いていた。


 近辺の霊も心穏やかなのだろうか、柚木ゆのき蛍馬けいまと柚木武流たけるの元へは殆ど訪れず。来ても話を聞くだけで穏やかに成仏していたのだが。


 その日飛び込んで来たセーラー服を着た少女の霊は、蛍馬たちを見るやいなや、両のこぶしを慌ただしく上下にばたつかせ、途端にまくし立てた。


「助けてください!」


 それだけを言いながら、窓際の蛍馬に詰め寄った。


「え?」


 呆気に取られた蛍馬が短くそう返事をした後で、武流が鋭く言う。


「お前、生き霊だな?」


 犬耳を付けている武流の眼に、霊は半透明に見える。だが例外がある。生き霊ははっきりとした人の姿に見えるのだ。


 なので、出掛けている時にたまに驚く事がある。はっきりと人の形を取ったものが、宙を浮いていたりするのだ。


 その大概たいがいは何かを憎む様な形相ぎょうそうで、それゆえに関わり合いになりたく無いので、見て見ぬ振りをする。


 生き霊を飛ばす大半は恨みだ。それには逆恨みも含まれる。それは霊能者の野洲やす喜太郎きたろうにも何度も聞かされて知っているからだ。


 少女は武流に言われ、やや狼狽うろたえる。だがそれを振り払う様に声を上げた。


「はい! そうです! 私、お父さんに付きまとっている人に殴られて、今意識不明で病院に入院しています! あの人危ない人なんです!」


「解ったから落ち着いて」


 蛍馬が少女を落ち着かせる様に、穏やかに言う。


「ちゃんと話を聞くよ。大丈夫だからね」


 蛍馬が更に言うと、少女は顔を下げ、おとなしくなった。


「は、はい、ごめんなさい。あの、ここに来たら助けてくれるって聞いて、焦ってしまって」


「うん、ゆっくりで良いからね。まずは話を聞かせて」


「は、はい!」


 少女は顔を上げると、大きく頷いた。


 少女の名前は久木野くぎの向日葵ひまわりと言った。両親が「いつでも明るくほがらかでいられる様に」と付けてくれた名だ。


 その願いの通り、向日葵はすくすくと育つ。しかし向日葵が高校生になった頃、母親が急逝きゅうせいしてしまった。


 交通事故だった。信号をちゃんと青信号で渡っていたのに、運悪く居眠り運転の車にねられてしまったのだ。


 喪に服し、やや落ち着いた頃、小さな異変は起こった。それまでは仕事からいつも笑顔で帰宅していた父親が、玄関を閉めた途端に大きな息を吐いたのだ。


 その表情はやや強張こわばっており、出迎えた向日葵は驚いて父親に声を掛けた。


「どうしたの? 何かあったの?」


 すると父親はぎこちない笑みを浮かべて言った。


「大丈夫、何でも無いよ」


 今にして思えば、それが始まりだったのかも知れない。しかし向日葵は父親の言葉を鵜呑うのみにし、日常をいつも通りに過ごした。


 その日、向日葵の帰宅は遅くなった。高校ではバスケットボール部に所属しているのだが、練習試合を間近に控え、レギュラーメンバーである向日葵はミーティングに参加していた。


 決して強豪では無い。だが負けたい訳では無い。出来るなら勝ちたい。


 そうして熱のこもったミーティングを終えた時には、陽はすっかりと落ちていた。


 夜道、向日葵は家までの道のりを、前を見てしっかりとした足取りで歩く。


 人通りの少ない住宅街。だが向日葵はあまり警戒していなかった。これまでもこのくらいの時間に出歩く事はあったし、危険な目にった事が無かったからだ。


 練習試合が楽しみで、鼻歌さえ出ようとしていたその時。


 後頭部に感じた、鋭い痛み。


 身体が大きく揺れ、足に力を入れてどうにか踏ん張ろうとした。だがそれは叶わず、向日葵は脱力し、地面に崩れ落ちて行った。


 一瞬意識が飛び、しかし次の瞬間には、向日葵はやや上空からその景色を眺める事になったのだ。


 向日葵を殴ったと思われる暗い色のフードを被った人間は、倒れ込む向日葵の身体を前に、息荒く肩を上下させていた。


 線が細く見えるので、極端にせ型の男性か、それとも女性か。


 なぜ向日葵がその時冷静でいられたのかは判らない。とにかく顔を、相手の顔を見ないと、と、強く感じ、無意識にその身体を動かして、地上付近にまで降りていた。


 倒れている自分と、自分を殴った相手。自分の身体は微動だにしない。それもそうだ。こうして意識が抜け出ているのだから。


 向日葵は相手の顔を見る。そしてゾッとした。


 女性だった。見覚えの無い若い女性だ。大きく見開かれて血走った眼、汗が浮き、乱れた髪が張り付く額、歪みながらも上がる口角。その口からは「ふふ、ふふふ」と小さく震える不気味な声が漏れていた。


 女性と向日葵の意識の距離は近い。だが女性は向日葵を見向きもしない。まるで気付いていない様だ。もしかしたら見えていないのかな? 向日葵はそう結論付けた。


 女性は仕上げだと言わんばかりに、動かない向日葵の身体を力任せにり上げ、するともう興味を無くしたと言う様にきびすを返し、手にしていた木の棒、凶器となったそれを握り締めたまま、覚束おぼつない足取りでその場を離れて行った。


 そして残される向日葵の身体と意識。ここで漸く向日葵は焦りを覚える。


 え、どうしよう、どうしよう! どうしたら良いの? 私どうなるの!?


 自分の身体の周りで向日葵は慌てる。あ、身体、身体に戻らないと!


 向日葵は身体に手を伸ばす。するとその手はするりと身体を通り抜けてしまった。


 手じゃ駄目なの? じゃあ身体ごと合わさったらどうだろう。


 向日葵は倒れている身体に同調する様に横たわり、重なる。しかし戻る事は出来なかった。


 そうこうしていると、頭上から「うわっ」「きゃっ」と、男性と女性の驚いた様な声が降って来た。


「た、倒れてるの?」


「や、そうなのか? あの、大丈夫ですか?」


 女性が去った方とは逆方向から来たであろうふたりは、尻込みする様に訊いて来る。向日葵は咄嗟とっさに姿を隠そうと身体を起こすが、見えていないだろう事に思い至り、息を吐く。


 ああそうだ、助けを求めなくては。向日葵は浮き上がるとふたりに近付く。だがやはり気付いて貰えず、ふたりの視線は向日葵の空っぽの身体に釘付けになっていた。


 どうやって意思表示をしたら良いのか判らない向日葵は涙目になる。どうしよう。


「あ、あの」


 女性が、腰が退けながらも向日葵の身体のそばかがみ、その肩を軽く揺する。そしてその目線が向日葵の頭に移ると、「きゃあ!」と声を上げた。


「どうした?」


「あた、頭! 怪我してる! きゅ、救急車呼ばなきゃ!」


「お、おう!」


 男性は慌てながらスマートフォンを出し、「ええと、救急車って何番だっけ」と呟きながら操作する。


 そうして数分後、無事到着した救急車に乗せられた向日葵の身体は、いつの間にか集まって来ていた数人の野次馬と、消防署から連絡があったであろう警察官に見送られ、病院に運ばれた。




 凶器がそう硬くは無かった木の棒であった事、そして打ち所が良かった事で、幸いにも向日葵の身体そのものは生命に別状は無かった。


 意識体のまま全ての流れを見ていた向日葵は、意識が戻らない事に首を傾げる医者に「ごめんなさい」と手を合わせ、自分の身体に寄り添っていた。


 その傍には、向日葵が処置されている最中に駆け付けて来た父親が、憔悴しょうすいした顔を晒してパイプ椅子に掛けていた。


 パパも、心配掛けてしまってごめんなさい。向日葵は父親の太腿ふとももにそっと手を添え、その顔を見上げ、心を痛めた。


 この一件は事件性有りと言う事で、警察が動いていた。父親は警察官に「娘さんが誰かに恨まれる様な心当たりは?」などと言う無神経な事を聞かれ、ますます落ち込んでしまった。それが警察の仕事だと解っていても、良い気がする訳が無い。


 警察は捜査の詳細を父親に話す事は無かったが、「全力を尽くします」と言い、帰って行く。


 さて、父親は娘がそんな状況であろうとも、日が経てば暗い表情のまま出勤して行った。


 未だ意識体のままの向日葵は、元に戻る機会を窺ってずっと自分の身体の傍にいたが、ある日、父親に付いて行く事にした。仕事をする父親と言うものに多少の興味もあったが、沈んだままの父親が心配でもあったからだ。


 父親は出勤前に病院に顔を出してくれた。向日葵が救急車を呼ばれたのが自宅近くだった事もあって、自宅から1番近い総合病院に運び込まれていたのだった。


 ほんの短い時間だが、向日葵の顔を見て、息をしている事を確認して、出勤して行く。


 父親は税理士だ。安定や利便性を重視して独立はせず、中規模な事務所に所属していた。


 職場である相模原さがみはら税理士事務所に到着した父親は、既に出勤していた他の税理士や事務員などに挨拶を交わしながら自分の机に。椅子に掛けると小さな溜め息をひとつ。そしてパソコンを立ち上げた。


 すると、父親にひとりの女性事務員と思われる女性が近付く。


「おはようございまぁす」


 そんな甘ったるい声を出し、湯気の上がる湯呑みを父親の机に置いた。


「ああ、おはよう。いつも言うけど、お茶は自分でやるから。それか淹れてくれるのなら、皆に平等にしてくれ」


 父親はやや面倒そうに言う。父親のそんな声を聞く事が無かった向日葵は「あれ?」と首を傾げる。意外な一面だ。


「私は先生専属の事務員ですからぁ、先生のお世話をするのは当然ですぅ」


 女性がそう言い、父親との距離を詰める。すると父親はそれに合わせる様に仰け反った。


「専属の事務員なんていないだろう。どうしてそんな思い込みをしているんだ」


「そうしてくれる様にパパにお願いしたんですってばぁ」


「本当にそういうのはいいから」


 話からすると、どうやらこの女性はこの事務所のお偉いさんの娘らしい。その態度からして、明らかに父親に好意を持っている。そして父親はそれに迷惑をしている。


 パパに嫌な思いをさせるなんて。向日葵はふくれっ面になり、女性の顔を見てやろうと回り込んだ。そして「あっ!」と口を抑える。


 その女性は、向日葵の頭を殴り付けた女性だったのだ。

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