#05 その、瞬間

 蛍馬けいま武流たけるが家に帰り着いた時には、陽も暮れ掛けていて、主婦や主夫の皆さまは「そろそろ夕飯の支度をしなくては」という時間だった。


 今日の柚木ゆのき家のメニューは決まっている。


 帰り途中でスーパーに寄って買った食材を冷蔵庫などに入れ、もうひとりの家族の帰りを待つ。


 ふたり並んでリビングのソファに掛け、テレビでニュースなどを追い掛けつつ。


「ただいま〜」


 玄関から声が響く。帰って来たのは、蛍馬と武流の兄、篤巳あつみだった。


 少し歳が離れていて、小規模ではあるが会社経営などをしており、現状柚木家の大黒柱である。


 リビングに姿を見せた篤巳は、満面の笑顔になると、手にしていたビジネスバッグをその場に放り出し、蛍馬と武流に抱き付こうとした。蛍馬は甘んじ、武流はける。


「武流、冷たいなぁ〜」


 蛍馬を抱き締めながら、篤巳はねた様に頬を膨らます。武流はソファに掛けながらも引きった表情で後退あとずさり。


「いや、本当にもう、勘弁してくれ」


 毎日の流れであるのに、武流はいつまで経っても受け入れない。蛍馬は順応性が高いのか、平気な顔で受け入れている。


 篤巳は自他共に認めるブラコンなのである。


「俺、飯作ってくっから」


 武流は言うと、更に篤巳と距離を取る様にキッチンへと逃げた。篤巳は不満げではあったが、すぐに笑顔を取り戻す。


「武流の晩ご飯! 今日も楽しみだなぁ!」


 武流はげんなりしながら、棚を開けた。出したものは瓶詰めのアンチョビとブラックオリーブ、冷蔵庫からはにんにくと生パスタ、乾燥パセリ。


 まずは鋳物いものホウロウ鍋に入ったままの一品を弱火に掛けて。


 鍋に湯を沸かしておく。


 次ににんにくを微塵みじん切りにし、アンチョビは包丁で良く叩いてあらいペースト状に。ブラックオリーブは半分に割って種を取ってから適当にカット。


 フライパンにオリーブオイルを引き、弱火に掛けてにんにくを入れる。じんわりと炒めてかすかに色付いて香りが立ったらアンチョビを入れる。これもじっくりと香りが出る様に炒めて。


 湯が沸いたので、生パスタを入れる。今回はフェトチーネを用意した。


 フライパンにフェトチーネの茹で汁と水を入れて少し煮詰めたら、茹で上がったフェトチーネを入れる。良く絡めて、ブラックオリーブを追加。塩と胡椒こしょうで調味して。


 皿に盛り、乾燥パセリを振って、アンチョビとブラックオリーブのパスタの出来上がり。


 鋳物ホウロウ鍋の中身もすっかり温まっているので、スープボウルによそう。足照が作ったホワイトシチューだ。


 夕飯の完成である。


「出来たぞー」


 ダイニングと繋がっているリビングに声を掛けると、蛍馬と篤巳がいそいそとダイニングに移り、カウンタに置かれている、出来上がった料理をテーブルに並べる。


 全員でテーブルに着き、手を合わせる。


「いただきます」

「いただきます」

「いただきます」


 蛍馬と武流は、まずはホワイトシチューに手を伸ばす。口に含んで、丁寧ていねいに味わった。


「うん、美味しく出来てるね」


「いけるな。隠し味だけは俺の指示だけどよ」


 ふたりにつられる様にホワイトシチューをすくっていた篤巳が「ん?」と小首を傾げる。


「このシチューに何かあるの?」


 そう訊かれたので、蛍馬が経緯を説明する。篤巳は「成る程ねー」と頷いた。


「これは勿論美味しいけど、僕はやっぱり武流が作ってくれるものが美味しくて嬉しいな!」


 あれ、これはそういう話だったか? 武流が眉をしかめるが、篤巳はどこ吹く風で、今度はパスタを口にした。ゆっくりと咀嚼そしゃくして。


「うん、やっぱり武流が作ってくれるご飯が美味しいな! いや、シチューも美味しいんだけどね。何と言うかな、愛の差かな!」


うるさいわ!」


 武流が反射的に突っ込むが、篤巳は気にする風も無く笑顔でパスタにがっつく。きちんとホワイトシチューも挟んで。


 この兄の重い愛に辟易へきえきしながら溜め息を吐く武流に、蛍馬が「まぁまぁ」と声を掛ける。


「シチュー、ちゃんと美味しく出来てて良かったよ。武流が付いてたから大丈夫だとは思ってたけどさ。お父さんに食べて貰えたかな。美味しいって言って貰えたかな。足照くんは満足してくれたかな」


 蛍馬の言葉に、武流は冷静さを取り戻す。


「どうだろうな。あのお袋さんが巧くやってくれそうな気はしたけどな。ま、何かあれば本人がまた来るだろ」


「そうだね」


 武流のぶっきら棒ながらも足照を気遣う台詞に、蛍馬は笑みを浮かべた。




 翌日、昼。蛍馬はまた部屋のベランダへと通じるガラス戸を開ける。


 足照は来るだろうか。やはり結果が気になる。話が聞けたらと思っていた。


 しかし時計の短針が3時を指しても、他の幽霊どころか足照も姿を見せなかった。


 誰も来ない事なんて珍しくも無い。なのでそれは構わないのだが、足照はどうしたのだろうか。


「もしかしたら、もう成仏しちゃったのかな」


 蛍馬が外を見ながらぽつりと言うと、武流が「あー?」と声を上げる。


「だったら満足したって事だろ。良いんじゃねーの?」


「そうなんだけど、やっぱり気になるよ。あ、野洲やすさんに視て貰おうかな」


 言うや否や蛍馬はスマートフォンを掴み、霊能者の野洲喜太郎きたろうに電話を掛ける。


 事情を話して一旦切った。


「どうだって?」


「視てくれるって。折り返してくれるってさ」


 それから10分も掛からず、着信があった。


「はい。どうでした?」


 野洲の回答を聞いた蛍馬は、表情を綻ばせた。


「そうですか。良かった!」


 礼を言って電話を切ると、笑顔のまま武流を見た。


「成仏出来たって! 凄っごい満足しちゃって、自分の意思に関係無く上がっちゃったんだって。野洲さんが降霊して話をしてくれて、僕たちに凄く感謝してくれてたって」


 お父さんにホワイトシチューを食べて貰えたのだ。美味しいとも言ってもらえたのだろうか。そこまで満足したと言う事は、きっとそういう事なのだろう。


「へぇ、良かったじゃねーか」


「うん、良かった」


 武流も嬉しそうに口角を上げ、蛍馬はまた笑みを浮かべた。




 時はさかのぼり、昨夜の事。


 父が毎晩書斎で何をしているのか気になった足照は、父の後を追う様に書斎に入ってみた。


 父は国営放送のラジオ番組を低音量で流しながら、実用書を開いていた。人に厳しいが自分にも厳しい父は、毎夜こうして勉強していたのか。


 足照は不機嫌そうにも見える表情の父を、あらためて眺める。足照が家を出て数年。そう長くは無いが、しわや白髪が増えたか? 当たり前だが父も齢を取るのだ。


 しばらく後、書斎のドアがノックされた。父が「はい」と短く返事をすると、ドアが開かれる。入って来たのは母だった。


「お昼間、足照のお友だちが訪ねて来てくれましてね、足照からのお手紙を持って来てくれたんですよ。お父さん宛てです」


 母がそう言い差し出した手紙。薄緑色の封筒に入れられたその手紙は、昼に足照本人が書き、蛍馬たちが母に託したもの。母は渡す事を選択した様だ。


 父は眉をひそめ、それでも手紙を受け取ってくれた。


 母が書斎を出た後、読んでいた実用書にしおりを挟んで閉じ、ペーパーナイフで封筒を開く。


 読んで貰えるんだ……! 足照は嬉しくて、うるむ眼をしばたかせる。


 母にしてみれば、勝算があったので渡したのだろうが、父の厳しい面しか知らない足照は、破り捨てられてもおかしく無いと思っていたので、父のこの行動は予想外だった。


 折り畳まれた便箋びんせんを広げ、眼を通した父は、小さな声を漏らした。


「……ああ、そうだな、旨かった」


 足照が初めて聞く、慈愛じあいが含まれている様にも感じる、穏やかな声だった。


 その言葉を聞いた足照は、余りある程の充足感に包まれ、目尻に止まっていた雫が頬を伝った。


 元は手紙は母親の警戒心を解く為の小道具だった。だが読まれる事を前提として足照は真剣に書いたし、それは蛍馬たちにも言われた事だ。


 だからもし読んで貰えたら良いな、そう淡い期待でしか無かったのに、こんな、こんな事が起こるなんて。


 蛍馬と武流に会いに行かないと。どう礼を尽くしても足りないのでは無いか。そう思いながら、しかし足照の意識は薄れて行った。




 父さんへ


 拝啓


 お元気ですか。僕は元気です。


 縁を切られてしまった事は悲しかったけど、でも、この数年、僕は好きな事をさせてもらえました。


 料理の腕も上がりました。調理師免許も取り、チェーン店だけど洋風居酒屋に就職する事もできました。


 得意料理はホワイトシチューです。


 僕がいちばん最初に作った料理です。美味しく作れる様になりたくて、何回も練習しました。


 いつか、父さんに食べて欲しいです。美味しいと思って欲しいです。


 その時には、どうか追い返したりしないでください。


           敬具

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