#04 僕の喜びはたったひとつ
未だ決心の付かない様子の
門柱に掲げられた表札も、グレイの大理石で造られていた。
足照の話によると、
表から見る限りでは、庭の有無は
「でっけー家だな」
「そうだね。足照くんやっぱりお坊っちゃまだったんだね〜」
「そそ、そんな事は。あ、あの、跡取り
足照が慌てて
「いやぁ、このお家は立派だよ。お手伝いさんとかいた?」
「い、いえ、そ、そういう人は、い、いませんでした。か、家事とかは全部母が」
「そりゃあ大変そうだな、こんなでかい家。さてと、親父さんは流石にいねぇかな。平日の昼間だもんな」
「は、はい。ち、父は会社に行っている筈で」
「でも
「じゃあどうするんだよ」
「足照くん、お母さんとは連絡取ってた?」
「は、はい。と、時々でしたけど、で、電話とかで」
そう聞くと、蛍馬がニヤリと笑った。
「じゃあ大丈夫。多分簡単簡単〜。ちょっと駅前に戻ろうか。仕込みするよ〜」
蛍馬は楽しそうに歌う様に言うと、
母と話をした蛍馬と武流は、足照が作ったホワイトシチューが入ったタッパを置いて帰って行った。
夜になり父が帰って来る。その時間に合わせて、食卓には母が作ったきのこのオムレツとカルパッチョに並んで、温められたホワイトシチューが用意されていた。
「……今日は洋食か」
父は少し不満げである。
しかし子どもと言うのは、やはり茶色いご飯よりは色鮮やかな洋食が好きなもので、母はシチューやハンバーグ、オムライスなどを時々は作ってくれていたが、そんな時にも父には和食を出していた。
別々に作ると言うのは母には大変だっただろうが、父はそれを当然だと思っていた様だ。礼などの台詞は聞いた事が無かった。
「急にとてもシチューが食べたくなりましてね。たまにはあなたもお付き合いくださいな。とっても美味しく出来たんですよ」
母が穏やかにそう言うと、父は「うむ……」と渋々ながらも納得した。
弟たちも部屋から降りて来て、静かな食事が始まる。
その光景を足照は、ダイニングの片隅から眺めていた。
ああ、懐かしい。
内気で
大学では料理サークルに入った事や、アルバイトを始めた事もあって、そうした食事の機会も増えた。
それらは足照にとっては、とても嬉しい事だったのだ。
料理への興味のきっかけは料理番組だったが、美味しく食事をしながら、お喋りを楽しんで貰えたらと、料理人としてつくづく思ったものだ。
さて、父がホワイトシチューの器を手にした。スプーンで
足照は緊張しながらそれを見守る。肉体があれば、心音が周囲に気付かれるのでは無いかと思うほどの鼓動。
しかし父は、美味しいともまずいとも言わない。何を食べても無表情なのもいつもの事。母は料理上手だと思うが、父が母の料理を誉める様な台詞も聞いた事が無い。
だから足照も、張り詰めながらも期待はしていなかった。それでも少しは
美味しいと言ってくれたら勿論嬉しい。だがこの昔から変わらない食卓を見ていて、あらためて思う。食べて貰えただけでも恩の字なのだと。
それを思うと、蛍馬と武流、そして母にも本当に感謝だ。
蛍馬と武流は「足照の友人だ」と専業主婦の母を訪ねた。
「葬儀の時はろくにご挨拶も出来ずに申し訳ありませんでした」と、参列していない葬式に出ていた様に印象付ける事も忘れない。
そして、足照が
最初は半信半疑な母だったし、例え息子の友人を名乗られても、知らない人間に持ち込まれた食べ物を食べる気にはならないだろう。
そこで蛍馬が案じた
「これ、足照くんがお父さんに出そうとして書いた手紙です。でも出す勇気が出ないと言うので、僕たちが預かってました」
蛍馬がバッグから出してリビングのテーブルに滑らせたのは、淡い緑色の封筒。宛名が書かれ、切手も貼られている。当然父宛である。
「どうしてご友人のあなた方が?」
それは
「勇気が出たら僕たちが出すねって。例えばお酒でも入って、少しでも気が大きくなれば、出す勇気も出るかも知れないと思って。そしたらその隙に出してやろうと。
「あら、あの子はお酒を
母はくすりと、少し
「はい。少しでしたけど」
事実である。成人して酒の味を覚えたものの、強くも無いので、飲み会に参加しても、甘くて軽い酒を1杯2杯程度で心地良く。足照が蛍馬たちに聞かれて応えた事だ。
「そのタイミングを
「あら……」
大分
「でも、どうしてホワイトシチューなのかしら。私、主人が和食以外はあまり認めない
母が不思議そうに首を傾げると、蛍馬が笑顔で言った。
「ホワイトシチューは、足照くんが生まれて初めて作った料理なんだそうです。その時はシチューの素を使ったそうなんですが、練習してホワイトソースから作れる様になったって。レシピのメモも貰ったんですよ。これなんですが」
言って、蛍馬はバッグから1枚の白い
「ああ……やっぱりこの字、少し
封筒の宛名の文字も見ていた母の唇が
手紙もレシピも、足照が武流の身体を借りて書いたものである。
駅前の雑貨店でレターセットと便箋を足照の好みで選び、次にコンビニエンスストアで切手を買う。
すぐに手近なカフェに入り、手洗いで犬耳を外した武流の身体に入り、手紙とレシピを書いて、また手洗いで離れる。
武流の身体であるものの、
「レシピは良かったら、お母さんが持っていてください。手紙をお父さんにお渡しするかどうかは、お母さんにお任せします。お持ちしたホワイトシチューは武流が、弟が再現したもので、ご家族でいただくには少し少ないかも知れないですが、良かったら今日の夕飯にでもしてくれたら嬉しいです」
「ええ、ええ、そうね。足りない分は何か作って……ふふ、久しぶりに洋食を作る
母は嬉しそうにそう言い、そっと頭を下げた。
そうしている内に、食べるのが早い父が、いち早く食事を終える。
「ご馳走さま」
作法にも厳しい父が手を合わせ、席を立つ。その父に、母が声を掛けた。
「お父さん、ホワイトシチューはどうでした? 言いましたでしょ? 自信作ですって」
母にそう微笑まれ、父はそれでも
「……ああ」
そうしてとっとと書斎に行ってしまう。この家には当然リビングがあるが、父は
その父の返事は全く答えになっていない。美味しかったのか、そうでは無かったのか。
足照には判らずおろおろしてしまうが、まだ食事を続けている母を見ると、嬉しそうに
母には父の真意が伝わっているのだろう。その母があの表情だと言う事は。
少しでも美味しいと思って貰えたのでは無いだろうか。
あくまでも希望的観測である。それでも足照は嬉しさの余り、両手で顔を覆った。
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