第10話 誕生 その3
壁に据えられたランプの灯りが周囲を照らす。
心もとない光は、影を作り、人の心を不安がらせる。
コツーン、コツーン、
階下から響く足音に、重厚な扉を守る衛士は、思わず身震いをしてしまう。それから、石壁に反響するその音を聞きながら、同僚が詰所で思い思いに気楽に過ごしているだろう姿を想像し、窓の外、微かに見える夜空に自らの不運を呪う。
すぐに、老婆と並ぶ総団長の姿が、衛士の視界に入り、慌てて職務を思い出した彼は身を硬ばらせた。
杖を持つ背の低い老婆に、鬼神と恐れら、英雄とも讃えられる総団長、その額には、真新しい血の跡が……。
衛士がしばらく前に感じた、ただ事では無い魔力、二人の姿は、その時、何があったかを彼に悟らせた。
衛士は、総団長を傷つけたであろう老婆こそ、セシル・ハーン・ラメッツァだと確信し、同時に、月桂冠の乙女にまつわる勇ましい神話の方を思い出し、血の気を失い、恐れおののく。
騎士聖堂の最上階、衛士が守る入口には、月桂冠の乙女が彫り込まれた白銀の紋章が見える。ここがセシルの居所だ。
セシルは、衛士を冷ややかに笑う。
衛士はゴクリと生唾を飲み込むと、作法も忘れ、後ずさりをするように道を譲った。
老婆は気にも止めず、扉に歩み寄り、懐かしむように、そこに手の平をそっと当てる。
「守りなど不要。この扉は、私にしか開けない」
そう言い放つと、この老婆は、指先をわずかに動かすだけで重厚な扉をいとも容易く開けてしまう。
屈強な男達が総出でも、ピクリとも動かなかった扉をだ。
衛士は、その様子を横目で見ながら、思い出したかのように、必死の形相で作法通りの動きをし汗を流すが、その全てを、セシル・ハーン・ラメッツァは無視をした。
主人の帰りを歓迎するかのように、開かれた扉から続く廊下の灯りが、次々とともる。
セシルは、案内を終え立ち去ろうとするファーガス総団長を呼び止めた。
ファーガスが振り返り、動きを止める。
そこには、眩い光を背にした老婆の姿。その光景に、傍にいる衛士ですら、思わず見惚れ我を失う。
「明日の打ち合わせをする。しばらく、付き合え」
セシルは、自らの問いの返事を待たず、待ちきれないといった様子で手を彼の方へと差し出す。
その仕草は、恋をしているうら若き乙女が意中の人を誘うようで、それが、老婆の姿なのに、違和感がない。
虚をつかれたファーガスは、
「畏まりました」
と慌てて返事をし、セシルに誘われるように、ついて行く。
残された衛士は呆然と立ち尽くし、彼らを見送り、扉は静かに、そして誰の力も借りることなく閉ざされた。
二人が向かった応接間は、普段手入れがされていないにもかかわらず、塵一つ無く美しい。
飾りは少なく質素だが、置いてある物どれもが上品で嫌味がない。そして、壁には邪神に立ち向かう月桂冠の乙女の姿が神々しく描かれたレリーフが飾られている。
セシルは、ファーガス老に、ソファへ座るよう促し、自らは部屋の奥の方へと消えていく。
残されたファーガス老は、やれやれと袖で額を拭う、当然のようにそこは血で汚れた。
「袖で拭くとは、まだ子供だな、ハンカチぐらい持たぬのか」
すぐに奥から戻った彼女は、若い女性の姿で、水を浸した布を持ってきていた。
彼女は、サッと近寄り、ムツとするファーガス老の額を、その布でポンポンと優しく拭いてやる。彼は大人しく目を瞑りながらなすがままだ。その際、彼女の気配を感じながら、時折触れる長い髪をこそばゆいとさえ思うぐらいの余裕はあった。
「婆さんは、何がしたい」
拭き終わった額を確かめるようにさすりながらファーガス老は尋ねる。手の感触で、傷はすっかり治っていることが、彼には分かった。
セシルは、彼が壁に飾ってある月桂冠で飾られた乙女のレリーフへ、ほんの少しだけ視線を動かしたのを見逃さず、目をしかめ、
「あれは、私では無いぞ」
と言う。
彼は何度も聞いたセリフだが、マジマジと見比べる。
「婆さんは、あんな美人じゃ無いからな」
「そうだな、私の方が大きい」
セシルは、自らの胸を、その弾力を楽しむかのようにしてホレホレと持ち上げ、呆れ顔で不快を示すファーガス老の表情を楽しんでいる。
月桂冠の乙女は、セントシールの紋章の、又、滅多にお目にかかれない、この素晴らしいレリーフのも、セシル・ハーン・ラメッツァがモデルとなっているとされている。しかしながら、これらには、彼女との決定的な違いがあった。
セシルは楽しそうにテーブルに置いたカップを手に取ると、それを小さな口ですするように飲む。
水気を増した唇が、無邪気な色気を放った。
その様子を見ながらファーガス老は、セシルが普段通りを晒せば、いや、言葉遣いをもっと女性らしくするだけでも、皆に好かれるのではないかと考える。
そんな思いを知ってか知らずか、彼女は、無防備に笑い、邪魔になった長い髪を片手でそっと耳にかけた。彼女は、間違いなく美しい。
エルフの容姿は、総じて美しいとされている。
だからといって、美しいだけでは、エルフとは言い切れない。
エルフ最大の特徴は、耳にあるからだ。
そして、その先の尖った長い耳は、人には無い特徴でもある。
月桂冠の乙女の耳は尖ってもなく長くもない。人の耳。
視線を感じたセシルの耳がピクッと動く。
「だから、あれは、私では無いと」
「だったら、月桂冠の乙女は誰なのだ」
ファーガス老は、当然の疑問を口にした。
しかし、彼女は、
「坊やたちが忘れたのなら、それで良い……」
と素っ気ない。
ファーガス老が、若い頃から、同じ問いをする度に、彼女は同様な受け答え、一字一句全く同じではないが……、をしていた。
それでも、彼は、いくら否定されても、月桂冠の乙女は、彼女なのだろうと考えていた。
確かに、彼女と月桂冠の乙女の耳の違いは大きな相違だが、レリーフや紋章のデザインに、権力の介入があったと考えるのが妥当だからだ。
つまり、他種属であるエルフを讃えるような紋章を採用するのに抵抗があったに違い無いと……。
そして、権力が事実を曲げようとしても、彼女のことを人々が語り継ぎ、彼女の名が歴史から消えなかったとも……。
だから、月桂冠の乙女は、やはり彼女なのだろうと結論づけていた。
しかし、人々が語り継ぐ歴史は、正確では無いというのも事実。
様々な人の思惑、偏見、更には、物語として面白くする為に、脚色や、虚実すら加え、事実を捻じ曲げ改変してしまう……。
それを、ファーガス老は、体験をしている。
彼が名を上げた、帝国との戦いの開戦理由に、教国内ですら諸説あるのだ。
更に、彼の功績でないことも、セントシールで公演された劇では、彼の功績に……、流石にそれは、彼は直ぐに否定し、脚本を書き直させる事態になったが……。
このように、たった、数十年前の出来事ですら不確かであやふやになっているということだ。
それが千年近い過去の事なら尚更だろう。
ファーガス老の手元には、いつの間にやら、カップが準備され、暖かな茶がそこに注がれる。
そこから漂う芳醇な香り、彼の目の前の女性は、自慢げな表情を見せていた。
彼は、月桂冠の乙女が誰かより、もっと大切な事がある事を思い出した。
「婆さんは、何がしたい?」
今度は、しっかりと彼女の目を見て問う。
そして、もう一度、額をさする。
騎士聖堂の入り口で、彼が、敬称を省略した際、彼女はそれを責め、額に傷を負わし、ここでは、その傷を癒した。
その事から、彼女は、権力者であることを望んでいるのだと彼は思うが、それが、彼女の本心とは思えない自分もいる。
どちらにせよ、
「今更だが、婆さんのことを知りたい」
と言葉に出し、彼女に強く願う。
「そんなに見つめるな」
セシルは、あらやだっと頬を赤らめた。
「おい、茶化すなよ」
ファーガスは、苛つき、テーブルの上で拳を握る。
カップが揺れ、茶が少し、ほんの少しだが、溢れてしまう。
その様子に彼女は視線をそらし、
「坊やの気持ちは嬉しいが……、言っても理解できぬよ」
申し訳なさそう返事した。
セシルの答えに、ファーガスは顔を真っ赤にして席を立つが、彼女は動ぜず、堂々と、
「もう、遅いから帰るが良かろう。明日……、いや、今日は会議に出るから、聖都の使者を呼んでおけ」
と言い放つ。
ファーガスは、彼女の態度に肩を怒らせ
「畏まりました、セシル・ハーン・ラメッツァ
と言い残し、扉をバタンと大きな音で閉め、ヅカヅカと去っていった。
静かになった応接間で、セシルは、一人うつむき、先程の布を、ギュッと握り見つめた。
線の細い小さな肩が震えている。
しばらくして、立ち上がると、大きく振りかぶり、その布を扉へ向けて、勢い良く投げる。
濡れた布が、バシッと威勢の良い音を出した。
彼女は肩で息をしながら、そこに向かって、
「ファーガスのバアーカ、バアーカ!」
と大きな声で叫び、溜まった涙を散らす。
手の甲で目を拭き、半べそで、フーと息を整えると、囁くような声で、
「様を付けるなんて、ほんと、バカ……」
と言い残すと部屋の奥へと消えていった。
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