第8話 誕生 その1
険しく切り立った高い崖の淵に、質素なローブ姿で女性が凛と一人で立っている。
彼女の正面から、強い風が吹き抜ける。
長いローブが風にあおられ、一気に開く。
一瞬で露わになった紫色のワンピースと、その布地越しに分かる豊満な胸のライン、ひざ下丈のスカートからは透き通った白い肌の細い足が見てとれた。
慌てた彼女は、ローブを両手でしっかりと抑え、風に背を向け腰を少しひねる。
その間、長い髪は、乱れた曲線を描きながら激しくなびき、先の尖った長い耳は、風にジッと耐えていた。
風が収まり落ち着くと、直ぐに髪に手ぐしを入れ整え始めた。
しばらくし、おもむろに顔を上げると、眼下に広がる光景に口元を緩める。
彼女の視線の先に広がる盆地には、深い森に囲まれ、巨大な城壁に守られた都市がある。
多重構造を為す城壁は、中心部に向かう程、高くなり、数キロある壁と壁の間隔は建物でびっしりと埋め尽くされていた。
驚くべきことに、彼女の深い
そして、今、彼女が眺めている都市の名こそ、城塞都市セントシール、教国北部に位置し、その規模は、大陸三大国家の首都である聖都に匹敵する。
「小さな砦が大きくなったものだ」
女性は、強い意志をもった青年のような小気味よい口調で優しい声色の独り言を呟いた。
感慨深げに見ている都市の中心部には、建物が点在する急な傾斜な岩山がある。その頂上では、立派な建物が存在を主張していた。そこは、騎士聖堂と呼ばれ、建物は当時とは違うが、彼女が呟いたこの都市の始まりの場所だ。
女性の視線は中心部から西の街外れへと動き、霞みがかった森で止まる。
雲一つ無く、深い青が美しい夏の空には似合わない汚れた冷気が森を覆っている。
女性の顔が苦痛で歪む。
彼女は、何年も、何百年も、見続けてきた、この光景を許容することが出来ないでいた。
「…………」
悲しい表情で小さく何事かを呟いた。
女性は、人差し指で森の方向を指し示す。
指先に魔力を宿らせ淡く輝かせると、それを動かし文字を宙に描き始めた。
黄金に輝く文字が宙に浮かび始める。
彼女が宙に描く文字は、アルケスの秘文字、それを完全に理解できるものは、この世界にはもう居ない失われた古代の魔法の一端だ。
「ここに居られましたか、
彼女の背中から老人の声が聞こえる。
女性は、ムッとし顔をしかめ、声を無視して、アルケスの秘文字を書き終えることに意識を集中した。
次に、文字に両手をかざし、それらを発動させる。
宙に浮かぶ文字は輝きを増すと、一文字、一文字が規則的な回転運動をしながら、天に吸い込まれるようにして消えた。
それらを見送ると、彼女は目を閉じて祈りを捧げ、可愛らしい吐息を吐き、肩を落とす。
無視された老人は、その様子を黙って見ていた。
白髪に長い髭、骨太の立派な身体に装飾の施された黒いマント、さらに、腰には立派な剣を下げている。
数十年前の帝国と教国との戦で、敵味方問わず、鬼神と恐れられた武人、それが、この老人の正体だ。
「おい、婆さん、いい加減に、俺にも教えろ」
若い頃、一時期、彼女に仕えていた彼にとっては、今しがたの彼女の行為は、とても懐かしいが、なにも出来ない無力な自分を思い出させ、苛立たせる。
「坊やも、あの街の頂点に立つ身分になったんだ、それ相応の言葉遣いを覚えたらどうだ。それに、アルケスの秘文字は、坊やには使えまい」
女性は、先程から失礼な物言いをする老人に言い放つ。
「おいおい、儂を買いかぶるな、総団長といっても、騎士団と軍隊を統括してるだけだぜ。教えろと言ったのは、婆さんが奈落の女神に何を祈ってるかだ」
セントシールの西にある森は、晴れることない深い霧が充満しており、日中でも森の中は、暗闇が支配している。
セントシールの汚れた森を恐れない者はいない。
その森の淀んだマナは凶悪な魔物を育て、人の世界を脅かす。
さらにそこには、恐ろしい奈落の女神が、勇者によって封じられたとされている。
セントシールは、奈落の女神が解き放たれる事が無いように見張る為、勇者と騎士達が住み着いたのが始まりだと老人は幼い頃から聞かされていた。
いつのまにか老人の側に移動していた女性は、彼を睨みつける。
女性の方が遥かに背が低いが、老人は叱られた子供のように肩を丸めた。
「その呼び方は、あまり好きでは無いと、いつも言ってるはずだ」
「なら、婆さん、奈落の女神をなんて呼べばいいんだ」
「口応えするな」
女性は少し背伸びをし、老人の頭を小突いた。
老人は、小突かれた頭に手を当て困り顔になった。
この様な場合、昔は小突くのでは無く、殴っていた事を女性は思い出し、老人の姿をじっくりと見つめる。
目の前にいる白髪の老人の顔には深いシワが刻まれており、ふと見えた手の甲など皮膚がだらし無くたるみ、骨の形がくっきりと浮かび上がっている。さらには肌にシミのような物さえ確認できた。
彼女の種族は、尖った耳を持ち、絶大な魔力を誇るエルフだ。
その寿命は永遠とされており、精霊に満たされた豊かな環境では、容姿が老いる事は無い。
精霊で満たされていないこの場所では、彼女は徐々に老いていく。
それでも、当然、その寿命は、人より遥かに長い。
老人と目が合う、彼は視線を彼女の胸元へと外した。
すかさず、女性は両手を老人の首元へと回し、自らの胸へとグッと引き寄せる。
老人の視界は、柔らかい物で塞がり、ついで、甘い香りが包み込む。
フガフガと老人は抵抗するが、彼女がそれを許さない。
「ファーガス坊やも、老いたものだな、あと何年で、お前は逝くのだ?」
彼女は両腕に名一杯、力を込め、大切な者を取られないように抱きしめた。
老人は、返事はせず「フガフガ」と唸るばかり、やがてその声も小さくなっていく。
彼女は異変に気付き、力を緩め、ファーガス老を自由にした。
「ぶはっ、殺す気かっ、ババア!」
真っ青な顔で、ファーガス老が怒鳴る。
「おい、顔色が悪いぞ。死が近いのか? 元来、男というものは、女の胸で英気を養う生き物だったのではないか?」
女性は、紫のワンピース越しに豊満な胸を両手で持ち上げ、ほれっという仕草をした。
「
「偽物?」
女性は小首を傾げ、
「本物なんだが、なんなら見て、触って、確かめるか?」
とブラウスのボタンを一つ、外した。
「おい、そういう意味じゃねぇ、魔法で作った姿なんかには興味ねぇという事だ。俺に、見栄張ってどうすんだよ! 婆さんの本当の姿を、知らない者は、セントシールにはいねぇ」
ファーガス老は、頬を赤らめて、彼女の手を抑え、ボタンを外すのはやめさせた。
彼女は少女のように笑い出し、目に溜まった涙を拭いた。
「歳をとっても照れるのだな、坊や、顔が赤いぞ、それに、肉体の時を遡らせる魔法なのだから、これが、私の本当の姿だと言い張っても良いだろ? それに、老婆の姿は、男から貞操を守る為の手段かもしれんぞ」
悪戯っぽい振る舞いでファーガス老の顔を下から覗く女性の姿に、彼は、顔が紅潮していくのを感じた。
「ちっ、エルフを、どうこうできる人間が、そんなにいるかよ。まして、婆さんは、勇者と一緒に、邪神を倒したのだろ。セシル・ハーン・ラメッツァ、エルフの王族の血を引き、セントシールの創成期を支えた功労者が婆さんだ」
セシルは、つまらなそうに、くるりとファーガス老に背を向け離れ、
「今は、ただのセシルだ。もう……、国は、もう無いのだから……」
とうつむく、ファーガス老は口を開こうとするが、
「お前は、何をしに来たのだ? 用が済んだのなら帰れ、それとも、屋敷で茶でものむか?」
とセシルは隙を与えない。
彼女は、更に、最近、南方の珍しい茶が手に入ったとか、今年は、自家製の果実酒の出来が良いから飲んでいけとか、ダラダラと話しを続ける。
それを聞いていたファーガス老の顔が、先程とは別の意味で紅潮していく。
「婆さん、今年の夏至会に参加するって、年初に儂に伝えてきた事を忘れてねぇか!」
ファーガス老が大声で怒鳴った。
夏至会とは、夏至の時期に開かれる、セントシールの議会の事、通年なら、会期は二、三日と短く、会議が終われば夏祭りが開催される。
しかし、今年は、七日経っても閉会する気配は無かった。
「ああ、それか……、時に、坊やに孫が出来る予定はあるか?」
「おい、婆さん、呆けるのもいい加減に……」
「良いから、答えろ、これは、命令だ」
セシルの物言いに、ファーガス老は、拳をグッと握りしめ堪える。
「最近、息子のリックが、嫁に子が出来たと伝えて来た。生まれるのは、多分、来年の春頃だ」
「面倒だな……、彼の言っていた通りか……」
セシルは、眉間にシワを寄せ、
ファーガス老は、
「おい! 祝えよ!」
と食ってかかる。
「聖都からの使者は来てるのか」
セシルは、ファーガスを無視して質問する。
彼はぐぬっと呻き、
「あぁ、婆さんの望みどおり呼んでるぜ」
と答えた。
元々、夏至会は、形式だけで、対した議題は挙がらない。都市の顔役が一堂に会して行う夏祭りの余興の様な物だ。なので、聖都からの使者に伝えるべき事も無く、「セシル様からお話がありますのでお待ちください」と引き留め、幾日も無駄な時を過ごさせていた。
流石の聖都も、セシル・ハーン・ラメッツァを無視する事は出来なかった。
だが、それにも限度がある。
それなのに、呼び寄せた張本人は、
「聖都の者には会いたく無いから、行く気がしない」
とのたまった。
「おい、婆さん、頼むぜ」
ファーガス老は、困り果て泣き出しそうな声を出す。
実際、彼の目には涙がたまっている。
鬼神も形無し、鬼の目にも涙、いや、この場合は慈悲を請うてる訳……、というより我儘を諌めているのだが……。
何にせよ、議員達から、セシルに気に入られているという理由で大役を任されたファーガス老は、引く訳にはいかない。
「おい婆さん、セシル様、顔をちょっと出すだけで良いから」
と彼の懇願は続く。
「やれやれ、坊やがそこまで言うなら、行ってやる」
セシルの周囲が淡く光り、彼女の身体の時間が進む。
背は低くなり、肌の艶は無くなり彼女は老婆の姿になった。
「さあ、連れて行け」
子供ぐらいに身長になった老婆のセシルが偉そうに命令をしている。
着ている服も彼女に合わせて小さくなっているが、それでも少しだぶついている。
いつ見ても便利な服だと感心しながらファーガス老が見ていると、
「何をしておる、さあ、早く連れて行け」
とセシル婆さんは、まるで親に抱っこをせがむ子供のような仕草を見せた。
「自分で歩けよ」
ファーガス老は、呆れるが
「若い女子の姿の方がおぶりがいがあるなら、姿を変えてやっても良いぞ、男は、幾つになっってもスケベェだからな」
彼女は、ニヒヒと笑う。
「違えよ」
ファーガス老は、仕方なく、逞しい腕で彼女を抱き上げ背負った。
「久しぶりに街に行くから化けてたんじゃ無いのか?」
背中の老婆に、ファーガス老は語り掛けた。
「人を化物の様に言うのは良くないぞ。あれは、ただの気まぐれじゃ、心配せんでも、あの姿は、そうそう他人には見せん。昔から、坊やは、嫉妬深いからな。こわい、こわい」
セシル婆さん、ケタケタと笑い、ファーガス老は、深いため息をつきながら、屋敷の前に止めてある馬車までの長い道のりを歩き続けた。
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