第2話 聖都

 聖都中心部、教皇庁に隣接した建物の中、石造りの長い廊下を、一人の女性神官が歩いていた。


 ヒールの高いサンダルからリズミカルな足音を響かせ、細かな装飾が丁寧な黒のテールスカートを揺らす。

 腰に届く長さの美しい銀髪は、後ろ髪の一部が一本に編み込まれ、青いリボンで清楚に飾られていた。

 清潔感漂う凛とした顔立ち、年は二十代後半、華奢な肩にはケープを羽織り、襟元から僅かに覗く細い首、白い肌、そこから大人の色気が漂っている。


 若い男性事務官とすれ違い、彼女と目が合う。

 彼は、涙目で慌ててお辞儀をすると、抱えた書類で自らを隠すようにして、急いで立ち去った。


 彼女が外に目をやると、窓に映った己と目があう。

 “少し剣があるな……”

 と思い、意識して表情を緩めた。

 最後に、前髪をいじり、再び先を急ぐように歩きだす。


 彼女が同僚とすれ違う度、相手は、男女問わず、彼女に対して慌てて道を譲り、こうべを垂れる。


 数人とすれ違い、

 女性は、ある扉の前で立ち止まった。


 ノックの音が二回響く。

 そして、返事を待たずに、彼女は部屋の中に入って行った。


「長官、辺境の、例の件ですが……」

 立派な執務机に座る神官の男性に、女性は話しかけ、途中でやめた。

 執務机の手前に置かれたソファに、見慣れた老人を見つけたからだ。

 その老人は、彼女の上官ではないが、その地位は高い。


「続けたまえ」

 彼女が長官と呼んだ、執務机に座る男性は、魅力的な低い声で先を促すと、机に肘を置き、鼻の高さで両手の指を組んだ。


「既にご存知かと……」

 女性は、長官から視線を外し、ソファに座る老人の方を見た。


「エルザ、またシワが増えとるぞ! また、男にでも逃げられたのか?」

 老人は、彼女の愛称、“姫”に嫌味なイントネーションを付けた。


 エルザは、魅力的な素晴らしい笑顔で答えた。

 茶目っ気たっぷりな少女のような魅力的な表情だ。


 だが、その表情とは裏腹に、

「氷像にするぞ……、ジジイ!」

 と殺意のこもった恐ろしい声で、老人との間にあるテーブルに手を付き威嚇した。


 老人も距離を詰める。


 速い。


 短刀が、エルザが羽織るケープを切り裂いた。


「売女の小娘が、調子にのるなよ、わしの機嫌は、今、すこぶる悪い」

 老人の目が開く、どおやら片目が潰れているようだ。

 隻眼が、彼女の瞳を覗き込む。

 エルザの顔が赤い。


「だ、誰か売女よ! もうろくジジイ!」

 彼女の首元には短刀の切っ先。

 今にも、それが肌に触れそうだ。


 エルザの銀髪が淡く輝く。


 部屋の気温が一気に下がっていく。

 家具に霜が降り、部屋全体が軋み、寒さに悲鳴を上げた。


 極寒。


 老人の口から白い吐息が漏れ、直ぐに凍りつく。


「挨拶は済んだか?」

 執務机から長官の溜息混じりの呆れた声。


 二人は顔を見合わせたまま、

 老人はニヤリと笑い、エルザの方は、ピクリと眉を動かした。


「命拾いしたわね」

 エルザは、老人の手首を無造作にどかし、短刀の位置を変えると、壁側に離れた。


 室温が温かくなり元に戻る。


「こっちのセリフじゃ」

 老人は腕を組み、ソファに深く腰を下ろす。


 今日、辺境の町で、また、耳目衆が消息を絶った、これで五人目。

 最初は、たかが賊の動向を探る仕事だった。

 それが、普通の賊でないと判明し、

 詳細な情報を得られないまま、犠牲ばかり積み上がっていた。


 そして、偶然、いや、必然と言うべきか、教国治安維持機関【天秤リーブラ】の幹部が、一室に集う事になった。


 すっかり話をする気を無くしたエルザは、口をムスッとさせ、小さな形の良いアゴを動かし、老人に合図した。

 老人の方は、やれやれという表情で、おもむろに口を開く。


「耳目衆は、この件から手を引く。既に、五人の犠牲を出した、これ以上は、容認できないということじゃ」

 テーブルの上に置いてあったコップを手に取った。

 しかし、中身が凍っていて飲めない。

 少しムッとして、逆さにしたコップをエルザに見せつけるようにして睨んだ。


「頭目の言い分はもっともね」

 エルザは、先程の一件で切られたケープを指で振り回しながら、耳目衆頭目の意見に理解を示した。


「……で、君の意見はなんだ、執行部統括、エルザ?」

 執務机に座る、教国治安維持機関長官が問いただした。

 老人も、興味深そうに彼女を見る。


 エルザは、ストールを肩に掛け、先程切られた結び目に指を添える、よく手入れされた爪が美しい。


「執行官の派遣を提案します」

 結び目から手を腰へ動かす、彼女以外なら、それは不遜な態度かも知れないが、自信に満ち溢れた立派なものに見えた。

 ストールも、すっかり元通りになっている。


 執行部としても、これ以上の犠牲は看過できない。

 元々、武闘派集団、殴られたら、殴り返せという勢いで部内は騒然としていた。


「情報は、あまりないぞ、氷の姫」

 頭目の老人が口を挟んだ。


 耳目衆と執行部は、お互いが、お互いを必要としている。

 詳細な情報、それに基づく綿密な作戦が、最小の犠牲で最大の成果を得ることを可能にしていた。


「なんとかするわ……、後は、こちらの仕事よ」

 彼女は少し伏し目がちに返事した。

 少ない情報で、堂々と勝利を約束するほど、彼女は愚かではない。

 分かっているのは、相手に魔導士が存在していることだけだ。


「勝手にせい」

 老人がコップの液体を一気に飲み干した。

 いつのまにか溶かしたようだ。

 頬が赤く染まっている。


「誰を派遣するつもりだ?」

 長官がエルザに問うた。


「北東辺境には、今、アレンがいます。彼を派遣するつもりです」

 エルザは、懐から書類を取り出すと執務机の上に置いた。

「儂もアレンには目を付けておったが……、純粋な剣の腕なら、そう敵う者もいまい……、魔力の扱いも器用じゃ……、だが火力が足りん。暗殺者向きじゃ」

 現役の頃は死神と恐れられ、今も、席次の執行官から一目置かれる、耳目衆頭目が空のグラスに酒を注ぐ。


「彼の力では、町を守る事は出来ないのでは?」

 長官は、いつものように肘をつき、鼻の高さで手を組み、真っ直ぐエルザを見つめた。


「誰を派遣しても犠牲は出ます。そして、アレンには、リズが付いてます」

「彼女は、失敗作で不完全だ」

 長官は、彼女の提出した書類に了承のサインをした。


「人は、皆、不完全な生き物です」

 エルザの言う通り、生物はどの種族も不完全で弱点を持っている。


 調和が取れているように見える、この世界ですら、その根底は、不完全で危うい……。


 その後、会談はしばらく続き、教国治安維持機関【天秤リーブラ】の意見は纏まり、教皇庁に具申された。


 辺境の町へ執行官アレンを派遣することの報告、そして防衛戦力増強の進言がその主たる内容だ。

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