名もなき勇者の物語

小鉢

第1話 影

 暗い暗い森の中、沼地の側で、明かりも持たず、老いた男が大地に手をつき屈んでいる。


 皮の外套がいとうに身を包み、彼は気配を殺し、息を潜める。

 汚れた外套に刻まれた幾多もの傷。

 小柄だがたくましい背中。

 腰からは、鞘に収まった剣が覗く。

 その柄に結ばれた紐の先には、とても小さな飾り。

 それは整っているが、表情が不細工な小さな縫いぐるみ。


 彼は静かに息を吐き、手を地に付けたまま、ゆっくりと顔を上げた。

 深いシワに覆われた細い目が、おもむろに開かれる。

 老いた手練れの眼光は、存外に柔らかい。


 彼の眼前に広がる沼地には、視界を遮る枝葉が無く、満天の星が一望できた。

 視線を落とせば、微かに揺れる水面に星々が映り、またたいている。

 遠方から霧が溢れ出し、まばらに生えた木々の隙間を縫うように景色の一部を白く染めていく。

 夜の虫が鈴のように寂しげに鳴き、蛙は合唱に夢中の様子。


 幻想的な風景。


 男は、心を奪われそうになり、

 剣にくくり付けられた飾りに視線を落とす。

 それは、彼の娘が形を縫い、孫娘が表情をつけた不細工な縫いぐるみ。


 我ながら年老いたと、男は思い、

 “景色に見惚れるなど、頭目の言う通り身を引く時期ということか……”

 と思わず、口元を緩ませた。


 “それにしても、ここの匂いは酷い……”


 時折、聞こえる野獣の叫び声と相まって、眼前に広がる景色は不気味とも形容できた。


 男は、顔を強張らせ、口を一文字に結ぶと、再び、周囲の気配を探りはじめた。


 大地に置いた彼の手の平に、湿った土の感触が戻る。

 体温で温められた地面は、土粒のざらつきと水気が強調され、彼を不快にさせた。

 その上、手の甲に蟻が歩いているかのような痒みを感じ、少し顔をしかめる。

 それでも精神を研ぎ澄まし、手の平へと意識を集中させると、俯瞰ふかんされた辺りの地形図が脳裏に浮かぶ。

 そこには、命あるもの達が競い合うように輝き鼓動していた。


 “うまく同期できた、成功だ”

 男は喜び、さらに神経を研ぎ澄ます。


 脳内の地形図では沢山のまばゆい星々が、この森は、生命に溢れた豊かな土地だと声高に主張していた。


 違和感を覚え、男は、すぐに、その原因に察しがついた。


 “ちっ、ハズレか……”

 血気盛んな若者のように、心の中で男は呟く。


 “運が良ければ、簡単な仕事”

 男は、彼の上司である頭目の言葉を思い出し、苦笑いした。


 探知阻害、


 それも、広範囲に魔力をばら撒く力技。

 森全体を魔力で覆うなど、およそ人間技とは思えない。


 男は、腰の袋から一枚の羊皮紙を取り出し、それに念を込めるような仕草をした。

 光る文字が、浮かび上がり、紙に念写される。

 次に、細かな装飾が施された親指程の小さな筒へ収めると、軽く浮かすように放る。

 それは、額の高さで宙にとどまると、何の前触れもなく消えた。


 “これで連絡は完了だ。

 後は、より正確な人数と、位置の特定を……”


 彼の思考を遮って、男の声が響く。


「用事は済んだかな?」

 ゆっくりとした穏やかな口調。


 男は、驚愕し、素早く立ち上がると、剣を抜く。

 百七十に満たない、低い身長に相応しい、短い剣。

 柄に結ばれた不細工な飾りが、大きく左右に揺れた。

 小柄で低い重心は、腰を落とし構えることで、さらに低くなる。

 これで、正面から見た男の姿に、死角は無い。


「教国の、いや、聖都と言った方が良いかな? 耳目じもく衆も大変だね」

「……」

 男は無言のまま、声のする方を探る。


 何も見つからない。

 焦りと恐怖から口の中が渇く。

 剣を握る手に力が入り、指先には自らの鼓動が脈打つのを感じた。


 大粒の汗が頬を伝わり流れる。

 男は死を覚悟し、密かに魔力を練った。


 二つの輝きが霧の中に現れた。


 深い深い赤。

 それが二つ、揺らめく。


「何者だ!」

 男が声を荒げる。同時に、彼の首は胴体から切り離された。


 血飛沫が勢いよく舞い上がる。


 首のない重心の低い胴体が、血を撒き散らしながら、ゆっくりと地に崩れていく。

 生首は沼地まで飛び沈む。不可解な事に、その口元は笑っているように見えた……。


「油断ならん爺さんだ」

 影が呟く。

 その手には、装飾が施された小さな筒が握られていた。

 男が密かに転移させようとした二個目の筒……、影は、中から羊皮紙を取り出し笑う。


「面白い爺さんだ」

 そう呟くと、影は霧の中へと姿を消した。


 数日後、聖都は、辺境の町に派遣した経験豊かな耳目じもく衆が一人、森で消息不明になった事を知った。


 そして、真相が掴めないまま、数週間が過ぎた。

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