第一章 争奪戦の幕開け
魔女/episode1
目を覚ますとそこは見慣れない洋室であった。
体の倍ほどあるベットには天蓋が張られ、まるでお姫様の寝室のようだった。
着ていたワイシャツはなく、上半身は裸で寝かされていたようだ。状況だけ見るとお城にでも拉致されたのかと勘違いしそうになる。
僕は——一体なにをしたのだろうか。
一瞬、今まで起きたことがわからなくなる。それはあまりにも奇天烈で刺激的で夢だったのだろうとすら思う。
それでもこの体は覚えている。あの狼男を真っ二つにした時の感覚を。命を奪い、奪われた感覚を。
九条愛梨彩を助け……僕は死んだ。
——紛れもない事実だ。
そして、九条愛梨彩を守るために戦った。
——実感はないが体が覚えている。
今までのできごとがすっと腑に落ちる。——僕は死体でありながら九条さんを守ったのだ。
いても立ってもいられなくなった。早く九条さんに会いたいと思った。
周囲に人の気配はない。見ず知らずの世界にたった一人取り残されているようだ。
「ベットから立ち上がって人を探してこよう。まずはメガネを……」と思ったが、体が鉛になったかのように重く、思うように動かない。せいぜい上体を少し起こすので精一杯だ。
血が通ってない。感触がない。
自分の手を見遣る。そこにあったのは雪のように白く、生気を失った
実体はメガネがなくてもくっきりと見える。だが自分の腕だとは到底思えず、幽鬼の手が見えているみたいだった。
焦る。引くだけの血の気もない。恐怖に
自分が生きていないことを改めて認識した。決して蘇ったわけでなく……九条愛梨彩によって屍のままこの世に姿を留めている。
「あら? 起きたのね。ちょっと待ってて」
不意に女の声が部屋に鳴りはためいた。心配するわけでもなく、さっきからずっとそこにいて一部始終を知っていたかのように淡々と喋る。
声の主は九条さんに違いなかった。見慣れた黒のセーラー服を着た彼女がそこにいた。
初めて声を聞いたあの日の夜と同じ口調だ。九条愛梨彩とはこういう人物だったのだと嫌でも理解させられる。僕が抱いていた九条愛梨彩像はやはり幻だったようだ。
心の底で悲しんでいる僕のことなんていざ知らず、九条さんは黙ってこちらへ歩み寄ってくる。
——なにをするつもりなのか?
こうも無言でいられると末恐ろしいものがある。なにより家の中でも黒のセーラー服姿というのは不気味さが増す。ましてやこちらは死体に毛が生えた程度の活力しかない。なにをされても抵抗は……不可能だ。
九条さんが物言わずベットに上りこむ。そして……四つん這いになって僕を覆った。
——え?
「動かないで。と言っても動けないでしょうけど」
九条さんは前に垂れてきた髪をかき上げながら意味ありげに口角を上げる。状況が状況だからか、彼女の面持ちがとてもいたずらに見える。
——ちょっと待って! ストップ! ストップ!
僕の言葉は声にならず、九条さんには届かない。されるがまま……「まあ、九条さんになら」とか考える自分もいる。彼女のブルーグレーの瞳が僕を捉えて離さない。ええいままよと腹を括るしかない。
「開門」
優しく、心臓に暖かさが宛てがわれる。九条さんは心臓マッサージをするかのように手のひらを押した。
……ドクンと強く鼓動が胸打った。
彼女の手から伝えられた暖かさは全身をめぐり、体には血の気が戻っていく。手が動く。体も起こせる。そしてなぜか頰が熱い。
九条さんはそれだけ済ませるとそそくさとベットから去っていく。雑事を済ませたと言わんばかりの早さだ。
「ありがとう。九条さん……」
それでも彼女に感謝せずにはいられなかった。自然と僕の口から言葉が漏れる。
「気にしなくていいわ。消耗した
九条さんはベッドの前に椅子を持ってきて、腰をかけた。組んだ足から見える太腿は健康的でしばしば目を奪われそうになった。
「え、あ、うん」
言っていることがいまいちピンとこず、曖昧な返事をしてしまう。
「それと私のことは愛梨彩でいいわ。ね、太刀川黎くん?」
「太刀川黎くん」。彼女は確かにそう言った。
なぜか胸が熱くなる。高嶺の花だと思っていた彼女が僕を知っていた。それだけで心が躍った。
「九条さ——じゃなくてあ、愛梨彩は僕の名前知っててくれたんだね」
「ええ、まあ。あなた色々と有名だもの」
「そうなんだ……」
色々……とは一体なんなのだろうか。
僕がそこまで目立つ人間だとは思えない。それに有名ということは人づてに聞いたのだろうか? 友人と話している姿をつゆも見せないあの九条愛梨彩が?
「あなた随分と大人しい感じなのね? この前の夜の方が勇ましくてよかったのだけど」
「そ、そうかな?」
照れ臭くなり、頰を人差し指で掻いた。って褒められたのは今の『僕』ではなく『俺』か。
おぼろげだが、なんとなく今と違ったことは覚えている。あの時は『俺』と言っていた。普段から使う人称代名詞ではないし、二重人格というわけでもない。
「急に魔力を浴びたから体の変質だけでなく性格の変質が起きてるのね。でも、平常時は攻撃的じゃない……か。過剰に魔力が流れ過ぎたのかしら」
愛梨彩がぶつくさと呟く。正直、なにを言っているかわからない。
さっきもそうだが、僕には知らないことが多過ぎる。なにも知らないまま、愛梨彩を守るために首を突っこんだ。そして、死んだ。とんだ愚か者だったと今は思う。
——首を突っこんだ僕には知る義務があるんじゃないか。
「ねえ、なんで君はあの日教会にいたの? 君は一体何者なんだ?」
そう思った僕は自ずと口走っていた。
「そうね。もう無関係とはいかないわけだし、最初から話さないとのようね。……さて、どこから話せばいいかしら」しばしの間、愛梨彩が沈黙する。なにから話そうか整理しているようだった。「いきなり言っても信じられないかもしれないけど、私は魔女なのよ」
——魔女。
あだ名が言い得て妙だと思ってはいたが、まさか本物の魔女だったとは。
にわかには信じられなかったが、驚きはしなかった。現に僕は彼女の不思議な力によって動いている。理屈はわからないが感覚でわかる。
「少し昔話をしてもいいかしら?」
「うん」
愛梨彩は静かに語り始める。
「かつて……まだ神がいた時代の話よ。人々には魔力が流れていて、
「はずだった……?」
「実際はお察しの通り、魔女が牛耳る世の中は訪れなかったのよ。魔女が奇跡を手にするよりも早く、平民たちが一から考え、努力を積み重ねた科学が台頭することになったのは皮肉な話ね。科学の発達により魔法は時代に取り残された。当然魔法は廃れ、人々は魔法を捨てることになったわ」
地球のあらゆる要素——それはこの星を構成する水や空気、大地。そして今や人類には必要不可欠な火などの要素のことを言っているのだろう。それだけのことができる魔法がなぜ衰退したのかわからない。「なんでさ?」と自然と疑問を口にしていた。
「理由は簡単よ。その多くは取るに足らないものだったのよ。魔力を使って火をつけたり、電気を流したり、水を出したり。わざわざ継承する必要のない魔法たちね」
「それでも充分すごいじゃないか」
自分が思い描いた魔法は魔女からしたら全部取るに足らない魔法だったようだが、正直納得がいかない。それだけのことができれば現代でも通じるのではないか? なにもないところから火や水や電気が生まれるなんて夢物語だ。
「魔法はね、自身のエネルギーを消費して初めて具現化するのよ。考えてみなさい。今の世の中、ワンタッチで火がつき、電気が流れ、水が湧くのよ? そんな環境でわざわざ自分のエネルギーを膨大に消耗してまで魔法を使う理由があると思う? 本当になにもない僻地くらいでしか使いどころがないわ」
「確かにそうだ……」
科学が未成熟の頃ならまだしも今の世の中なら楽な方に傾倒するのは道理だ。加えて科学が発達すればするほど地上は開拓され、文明が浸透していく。戦闘ならともかく日常生活では無用の長物だ。
「それに魔法——魔術式の継承はいいことばかりじゃないのよ」
「魔術式?」
聞きなれないワードが出てきて、愛梨彩に問い返す。今までの単語はニュアンスで理解していたが、これだけはわからない。魔術の式? と言われてもなにを思い浮かべていいのやら。
「私たちが魔法を行使するには『魔術を発動するための公式』に魔力を通す必要があるの。この公式を魔術式って呼んでる。私たち魔女は体内に呪文みたいなものが刻まれてると思ってくれればいいわ」
『魔術の公式』で魔術式。公式の中に『魔力』という数値を当てはめると解という『魔法』が生まれ出る——というところだろう。まさかの読んで字のごとくであった。
「わかった。その、デメリットって?」
「魔術式は世代を経るごとにその力が増すわ。増した力は放出されることがない限り、魔術式自体に溜まっていく。要は自身の体内の魔力に加え、サブの魔力回路——サーキットを持つことになるのよ」
「魔力は魔術式によって発生するものじゃなくて体に元々流れているもので……それに加えて魔術式の魔力がさらに流れることになる。そして、魔力は放出されない限り溜まっていく……ということ?」
話を自分なりに噛み砕いて言うと、彼女は大きく首肯した。ここまでは理解できたようだ。
「魔力があるかないかは遺伝や体質によるものなの。そして魔女に選ばれる者は往々にして魔力が豊富な人間よ。そんな人間がさらに魔術式を持てばあり余るでしょう? 」
「それは魔女にとってメリットに感じるけど」
愛梨彩の説明通りなら、魔力量が多ければ多いほど魔法が際限なく使えるはずだ。燃費の悪い取るに足らない魔法だって有効活用できると思った。
「そうね。魔術戦をするならメリットに聞こえるわね。でも違うのよ。本来魔術戦はそうそう起きない。だから蓄えられた魔力は体へと作用していくの。成長はせず、体の状態は一定に保たれる」
「それって……」
僕は固唾を呑むことしかできなかった。もし愛梨彩が次に口にする言葉が想像通りなら、それは末恐ろしいものだ。人の既存の価値観を壊す、この世にありえてはいけないものだ。
「そう、不老不死よ」
——不老不死。
それは人類が宿望してやまない事象だ。
古典や神話の中の登場人物たちも不老不死を求めていた。しかしそれはついぞ叶わなかった願望だ。
でも、それが実在する。彼女ははっきりと不老不死と言ったのだ。
「魔術式を持った魔女はね、寿命では死ねないの。自身の魔術式を継承者に託すその日まで生き続けなければならないの」
僕はなにも言えなかった。愛梨彩の目があまりにも儚くて。どこか別の世界を見ているようで。誰もが羨むものを持っているはずなのに、彼女にとっては不要なものに違いなかった。
周りが歳を取り、老いて死んでいく中で自分だけは不変かつ不死。やがて自分を知っている者はこの世界からいなくなり、自分だけがこの世界の変遷を嫌というほど知ってしまう。久遠の時を生きていくということは孤独と一緒だ。その辛さは想像に難くない……と僕は思う。
そして、その生き地獄の螺旋は繰り返されるのだ。何世代も幾数年にも渡って。
「話がだいぶ逸れてしまったわね。本題に戻るわ」
「ああ、うん」
なにごともなかったかのように愛梨彩が言う。
彼女は表情に起伏がない。一見先ほどとなにも変わっていないように見えるが、真っ直ぐ僕を見ている瞳にはもう憂いはなかった。
「わざわざ取るに足らない魔術式のために永遠の時を生きる必要はない。だから魔術式は別の形で記録されることになったのよ。それが
愛梨彩の言葉を聞いて思い出す。アインも彼女もカードを通して魔法を使っていた。愛梨彩は水魔法を、アインは炎魔法を使っていた。どちらも彼女が言う「取るに足らない魔法」だ。つまりこれらは外づけの魔術公式による魔法の再現だったのだろう。
「魔術式が継承されなくなれば、当然魔法を使う人間は稀有になるね」
「加えて中世に起きた魔女狩りの影響もある。ハインリヒ・クレーマーの『魔女に与える鉄槌』や『セイラム魔女裁判』なんかが有名ね。まあ、あれらは無辜の人たちがほとんどだったけど」
「なおさら魔法は希少なものになるわけだ」
「そうね。魔術式は継承されてなくても魔力が残ってる人間は
『普通』が『特別』に変わる。言葉の響きは素晴らしいはずなのによい事柄には思えなかった。『普通』でいるのがいいことなのか。『特別』なものは幸せか。判断は主観でしかできない。
ただ一つ言えるのは『特別』であることは希少だということだ。ほかにはない価値がそこにはあるのだ。
「じゃあ、現存している魔女はすごい魔法を継承して持ってるんだろうな」
「その通り。魔法の中でも奇跡に近づけた特別な魔法が生き残った……というより複雑過ぎて体内に刻んで継承するしかなかったのよ。それが
彼女の体に刻まれた魔術式は『復元魔法』の力を持つものらしい。色々なものを元に戻せるなんてそれこそ奇跡としか言いようがない。デタラメだ。
「わかったかしら? これが現代における
長く、とても複雑な話だった。理解度は七割程度だと思う。愛梨彩の話を聞いても僕の中で魔法はどんなものでも魔法に違いなかった。擬似魔法だ、ウィッチクラフトだとか大差ない。
それでも話を聞いて一つだけはっきりと理解したことがある。さっきまで漠然と自分が死体であることだけは理解していたが、確信した。
「やっぱり僕が生きているのは君の魔法のおかげなんだね」
「ええ。ワーウルフの一撃で死んだあなたを絶え間なく魔法で復元し、魔力を通して無理矢理動かしてる。今のあなたは動く死体——レイスってことね」
「復元ってことは元に戻るんじゃないのか? 死体のままって……今まで僕はどうなっていたんだ?」
「残念ながらあなたの傷を回復させたわけじゃないの。魔法は科学にできないことができても万能ってわけじゃない。私の復元魔法は魔力を通すことで形を一時的に元に戻しているに過ぎない。今は私が近くにいるからいいけど、私のそばから離れて魔力が切れれば復元も続かない。この世界で回復と言えるのは自然治癒くらいよ」
わかってはいたが、改めて告げられると胸が痛んだ。回復魔法というのはRPGの世界にしかないということを痛感した。多分、この先『蘇生魔法』というものと出会うことがないのも同時に理解した。
「あなたは死んだことで私と魔力で繋がった。だから、あの剣——魔刃剣を使ってワーウルフと戦えた。でもあの剣は魔力を刃にする剣。あなたはワーウルフを倒すために自身の魔力をフル動員したが故に力尽きたの。それが一週間前の話」
「一週間……? 一週間も寝てたって言うの!?」
「そうよ。さっきも言った通り、あなたの魔力は底が尽きたのよ。体を動かすだけの魔力もなくなった。あの日、私のカードもだいぶ消耗していてね。私のカードの補充を優先してしまったから、あなたには維持する最低限の魔力しか流れてなかったのよ」
「だから、起きてすぐに動けなかったわけか」
さしずめ電源は切られているが、充電コードは刺さったままで待機電力が流れている家電……いやロボットとでも言うべきか。電源をつけられるのは主人のみだから、僕が動きたくても動けないわけだ。
「最低限の魔力でも少しは癒えが早かったんじゃないかしら? 死体でも肉体には限界があるのだからね」
「不死身ってわけじゃないんだな」
「あなたが使ってるのはあくまで生身の肉体よ。いわゆる病気や感染症にはならないけれど、外傷は別。手が切断されればなくなるし、頭がなくなれば動けなくなる。復元魔法を使うことはできるけど、その分維持費が倍取られることになるから慈善事業でも興さない限りしたくないわね。だから気をつけてちょうだい」
愛梨彩の言葉は冷たく聞こえた。「二度目はないわ。私もお人好しじゃないから」と言っているようだった。
その言葉を聞いて、ふと考えた。この先の自分のこと。これから先僕は生き返ることができるのかと。
「いつかは自然治癒が追いつくのかな? 心臓の穴が塞がって、元通り高校生として生活できるくらいに」
言葉が漏れた。自分でも驚くくらいあっさりと口から出た言葉は間違いなく本心だった。
「結論から言えば難しいわね。基本的に一度壊れたものはなにをしても直らないわ。あなたの心臓は一度完全に停止してる。人間には自然治癒があるとはいえ、心臓を完全に再起させるのは難しいわ。それこそ奇跡に値する代物がない限りね」
愛梨彩はばっさりと淡い希望を砕いた。
わかってはいた。気づいてはいたさ。それでも口にせずにはいられなかったんだ。
彼女の結論になにも言い返せず、しばし静寂が流れる。
ここまで愛梨彩と密に話してわかったことだが、彼女はいつも冷静沈着、正確無慈悲で思ったことを包み隠さず喋る。難しいものは難しい。できないことはできない。嘘がなく、ある意味清々しいが、今は気休めが欲しかったのが率直な気持ちだ。
二人の静寂を裂くように呼び鈴の音が屋敷に鳴り響いた。彼女は呼び鈴に応答する様子を見せず、じっと僕の顔を見据えている。
「そう言えばあなたの質問にまだ答えていなかったわね。私があの日、なぜ教会にいたのか」言われてみて思い出す。彼女の素性の話に気を取られてすっかり失念していた。「ついてきて。ここからはあなたとの取引にも関わるから」
彼女は一足先に部屋を出ていった。
今は愛梨彩に従うしか道がない。僕はベッドから起き上がり、近くのポールハンガーにかけてあったワイシャツを手に取る。血のにじみや破れ傷一つない真っ白なワイシャツだ。それを羽織り、愛梨彩の後を追いかけた。
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