あなたがそれを望むなら
「あなたも弾いてみたらいいのに」
トゥニカの老婆は私を、教会の一室、小さな小部屋に連れて行った。ふたりが入ると、ずいぶんと窮屈なくらいの、こぢんまりとした部屋だった。その部屋には、ひとつの、黒く光るピアノがおいてあった。
聖堂にあったピアノに比べたら、かなりぼろく、ところどころ色が落ちている部分もあり、それが痛々しくも見えた。調律はされているのだろうか、と私は少し不安に思う。
「それじゃあ──
シスターレアと名乗ったその老婆は、私の名前を呼ぶ。やっぱりこの人は、私をずっと見てきたのだ、と少し緊張がほぐれた。
「なにか、弾ける?」
微笑んで、シスターレアは私をトムソン椅子に促す。ひさびさに座るその椅子を、少し睨んで、私はまるでなにかに戦いを挑むような心境で、腰を下ろした。
緊張とは、少し異なる。
まるで旧友に出会うような、疎遠になった人間と再会するような、そんな感覚。
私は少なからず、このピアノというものを、嫌ったはずなのだから。
妹とばかり仲良くして、私には応えてくれなかった、ピアノをはじめとする、楽器の数々。私が好き好む理由はおろか、嫌う理由しかないじゃないか。しかし妹のせいだけにはしたくなかった私は、これらから、離れて逃げて、考えないように生きてきた。
だから、やっぱりちょっと、変な気分だった。
この修道女はある意味、私にとって大きな行動を促しているのだ。あの天才さを見せつけた
そこまで考えて、私は。
もう、やめた。
しがらみは過去のもの、今の私は今のもの。
一度は、諦めたもの。
そんなことは、弾かない理由になんかならない。
シスターレアの顔をみる。
彼女は、その包み込むような眼差しを、私に向けた。
親のような眼差しを。
私は決心するように鍵盤に触れ、そしてゆっくりとはじめの音をならした。
私は昔に練習した、この村の誰もが知っているあの曲を弾いた。
私が弾き終えると、シスターレアは拍手はせず、私が弾き始める前と変わらない表情で、微笑んでいた。満足しているようで、同時に不満そうでもある、まるで読めない雰囲気を醸し出しながらも、彼女は私の方を見続けている。
「おつかれさま」
と、修道女はいった。
久しぶりで、疲れたでしょう。と、私の肩を叩いて、また微笑んだ。
私が返す言葉を探していると、シスターレアは急に子どもらしい表情を見せて、こういった。
「お礼に、私も弾いてあげましょう」
私の座っていたトムソン椅子に腰掛けると、老いた修道女は、その老いをも感じさせないようなスピードで、その鍵盤を叩き始めた。急な演奏に戸惑っていた私も、次第に彼女の素晴らしさに気づく。
「シスターレア、あなたは──」
「──それはもちろん、私だって伊達に修道女をやっているわけじゃありません」
純粋に私は、彼女がかっこいいと思ってしまった。それはまるで、私がピアノを弾く妹に感じていた感情にそっくりだった。
だから──その感情が久しぶりなことに、私は気づき、戸惑った。
妹のことが急に懐かしくなって、そして悲しくなってきた。シスターレアの旋律が、そんな私の涙腺をさらにつついた。
「あらあらあら」
シスターレアはその手を止めると、私の方に向き直って、私を抱きしめた。
シスターレアの、その優しげな匂いが、した。
「妹さん──
シスターレアは私に言問う。
私は頷く。
「京師までは歩いて十日以上かかります。それでも──その距離を歩くとしても、あなたは会いにいきたいですか」
私はその修道女を見上げた。
彼女は続ける。
「もし妹に会いに行けるとして、あなたは歩いて、京師まで行く根性がありますか」
彼女の顔からは、なにも読めなかった。
私は頷く。
「ならば」
シスターレアは私にいった。
「連れて行ってあげましょう」
シスターレアの眼差しが、一層強くなる。
「あなたがそれを望むなら。私は手助けをしてあげても良いといっているのです」
シスターレアは、はっきりとそういって、また微笑んだ。
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