第10話 言葉はいらない

 二十万人を超える大観衆、鳴り響くファンファーレに合わせ、手拍子がこだまする。

 日本ダービー、全ての視線は大外八枠十六番、社ノ台へと向けられる。

 単勝オッズ一・〇倍の一番人気、勝つことは当たり前だ。

 どう勝つのか? それはもちろん圧倒的に勝つ。

 当たり前だ。

 これが紅城一羽、社ノ台高校二年、十六歳の騎娘が背負うもの。


 体操一家に育った紅城、幼少期より両親の厳しい指導で体操漬けの毎日。

 年齢が唯一彼女の障壁であった。

 年齢を重ねる度、出られる大会に出てはタイトルを獲得していた。

 全日本ジュニア優勝、世界大会でも表彰台を逃したことはない。オリンピック強化指定選手にもなった。


 物心ついた頃から、両親と同じ夢を見て、叶えるために努力することが当たり前だった。

 持ち前の運動神経に加え、勝者であり続けるためのプレッシャーをプライドに、気持ちの強さに裏打ちされた練習量。

 叶えられる夢。

 紅城本人、両親、世間でさえも疑うことは無かった。


 いつもの光景に一度だけの悲劇。

 全てが消えた。

 跳馬の練習中、トンと付いた手に痛みが走った瞬間、世界は制止、視界は暗闇に包まれる。


 夢から覚めてしまった。

 紅城が起きたのは病室のベッド、傍らには暗い表情で溜息をつく両親。

 左手首靱帯断絶、左肩脱臼、右足首骨折…………。

 損傷箇所全てを挙げては、少女に酷な話だ。

 何より、今まで厳しい中にも期待と希望の眼差しで自分のことを見てくれた両親の瞳がどんよりと曇っていた。

 自分より先に夢を諦めてしまった両親の姿が、紅城の夢を絶ったのだ。


 日常生活に支障の無い状態まで回復するのに、それほど時間はかからなかった。

 リハビリに取り組む紅城の姿勢の結果に他ならない。

 目の前のリハビリに打ち込むことで、目をそらしたい現実でもあった。

 紅城はいつものように病院でリハビリをし、休憩のため椅子に座った。

 スーツ姿の中年男性が声を掛けてきた。


「紅城さんだね。私は社ノ台高校、騎馬部監督の千葉だ。突然申し訳ない。一緒に騎馬で日本一、世界一にならないか?」

 見上げた男性の首元あたりをぼんやり眺めてはいたが、「日本一、世界一」という言葉が強烈に耳に残る。

 執着したい言葉だった。


 騎馬の名門、社ノ台高校。

 どんな名門であろうと、騎馬の登録は学年ごとに騎馬二人、騎娘一人。

 一学年で男子生徒二人、女子生徒一人しか選ばれない狭き門である。


 騎馬二人に関しては、全国騎馬選抜試験の結果である程度の人員が入学の段階で決まる。

 騎娘に関しては、明確な能力の指標となる試験もないため、入学後の校内での試験によって決められる。

 約束されていない一つだけの椅子ではあるが“社ノ台の騎娘”という一生に一度の名誉を求め、多くの女子生徒が試験に臨む。


 騎馬部監督から直接話を受けた紅城ではあったが、例外なく平等に試験を受ける。

 能力のある女子生徒が数多く揃う点、おそらくスカウトのような声掛けは紅城一人に限ったことではないと思われる。

 他校に行けば輝ける騎娘が、社ノ台の騎娘になれないだけで一生騎娘になれないのだ。

 それほど社ノ台の看板には重みがある。


 心技体の能力を計る社ノ台独自の騎娘選抜試験において、全項目一位となった前例の無い騎娘が誕生する。

 紅城一羽だ。

 満場一致、完璧であるが故に疎まれる存在。


 目を閉じて感じる闇などは、ひと時の安息に過ぎない。

 紅城は静かに深呼吸、目を開ける。

 ゲートが開くと共に大歓声、紅城の日本ダービーがスタートした。


 大外八枠から勢い良く飛び出す社ノ台。

 迎える第一コーナーのコース形状、インコースから一番離れた外枠からのスタートは逃げ、先行する作戦において絶対的に不利な状況だ。

 馬群を避け、なるべく前の位置取りを狙いたい社ノ台であったが、他校もポジションを譲らない。


 皐月賞よりも距離の長い二千四百メートルの道中、さすがの社ノ台とはいえ強引な位置取りは命取りだ。

 社ノ台が居なければ、それは他十五校が日本ダービーを制するチャンスがあるということ。

“最も運のある者が勝つ”

 競馬のある頃、日本ダービーを制する条件として有名な格言。

 この状況では不穏な言葉だ。


 一対十五のような構図、勝てなくても社ノ台を負かしたい。

 そんな捨て身の逃げ、先行策を取る高校が飛び出し、社ノ台の位置取りは中段やや後方。

 各校に囲まれる社ノ台。


 騎馬のルールとして、自校の校旗を奪われたらレース失格だ。

 全ての高校が社ノ台の校旗を奪おうと紅城に襲いかかる。

 右手一本、時には手放しでハンドルをさばきながら、各校の騎娘から自校の校旗を守る紅城。

 騎馬の接触も激しい。


 杜ノ台が居なければ、日本ダービーの優勝を狙える。

 紅城が居なければ、たった一つの椅子に辿り着ける。

 夢が叶わず、社ノ台の騎娘になれなかった同級生の姿に重なる。

 絶対的な存在が受けるよこしまな気持ちを、正面から受ける紅城。

 それは王道。


 紅城から校旗を奪えず、バランスを崩す騎娘たち。

 紅城が他校の校旗を奪うチャンスは何度もあったのだ。

 他校の攻撃を退いては、自分のレースに集中する紅城。

「紅城、どうして旗を奪いにこない! 私たちなど眼中にないということか!?」

 ある騎娘が不満そうに紅城に問う。


「ルールで勝つのではない。勝負で勝つのだ」


 馬群の真ん中で紅城が言い放つ。

 校旗を奪おうとする各校の騎娘の動きが止まる。

 社ノ台の校旗が誇らしげに揺れている。


 レースは残り八百メートル。

 スタートから続いた社ノ台への執拗な攻撃は、レース全体としてスローペースの展開を生んだ。

 各校がある程度スタミナを残し、最後の直線を迎える状況。

 紅城の言葉に、皆が心を射抜かれた。

 社ノ台の校旗を奪おうとする騎娘、他校の校旗を奪おうとする騎娘はもう居ない。

 全ての騎馬が全力で最後の直線を迎えられるこの状況、皆が社ノ台、紅城と勝負をしたいと思ったのだ。


「ダービー史上初、全校が最終コーナーを回って最後の直線へ!」

 実況席の興奮が凄まじい。

 全校が失格も無く最後の直線を迎えるのは、騎馬のダービー史上初めてのことだ。

 校旗を奪うことで他校を脱落させて勝ちを引き寄せるのではなく、己の全てを懸けた勝負をしてみたい。

 この舞台を生み出したのは、一言で皆の気持ちを変えた紅城擁する社ノ台によるものだ。


 最終コーナー、馬群を力強くこじ開け一瞬にして先頭に躍り出る社ノ台。

 二番手以下の騎馬は横一線になり、三ハロンの直線を全力で駆ける。

 青鹿毛の騎馬に漆黒の騎娘、その背中はどんどんと遠ざかる。

 死力を尽くして走る騎馬の先にはただひたすらに前を見つめる紅城の姿。

 実況は息を呑み、歓声の盛り上がりが社ノ台優勝へのカウントダウン。


 次元の違う騎娘、騎馬。

 同世代に強者が居る不運を呪い続けた騎馬が日本ダービーなど勝てるはずがない。

 運に見放されていると自覚している時点で”最も運のある者が勝つ”というダービーの格言にあてはまらないからだ。

 強者と戦える幸運、それを打ち破ってこその勝利を求める。

 そんな騎馬がいればあるいは、このダービーの結果は違ったものになったかもしれない。


「社ノ台、無敗で二冠達成!」

 ゴール板を駆け抜ける社ノ台と共に、実況が叫ぶ。

 ダービー史上、最大着差での圧勝。

 ゴール後、徐々にスピードを落とす社ノ台に、走り終えた全騎馬が声を掛ける。

 全てを出し切った騎馬たちは良い表情をしている。

 紅城、騎馬の二人に一言二言残し、足早にコースを出る。


 コースにはただ一校、社ノ台のみが残される。

 悪いことではないのだが、社ノ台だけをルールで負かそうとした。

 他校の騎娘、騎馬たちのせめてもの償いのように見えた。

 勝者だけでコースを引き上げる。これがウイニングランというものだ。


「社ノ台! 社ノ台! 社ノ台!」

 二十万人の大観衆が、声を揃えて社ノ台の名を叫ぶ。

 大型スクリーンに映し出される社ノ台、圧勝の光景に全く気付きもしなかった。

 騎馬の衣装は所々破れ、レースの激しさを物語る。

 鞍上の紅城、サドルに深く腰掛けているのは初めて見た。

 ハンドルを持つ手は右手のみ、左手に痛みを抱えているようだ。


 圧勝の裏には余裕が見え隠れするが、このレースにおいては全力を以て圧勝する杜ノ台の姿。

 次元が違う、圧倒的な強さとは、それを求める強さがなければ成し得ない。

 そんな強さを共有出来る三人の出会いが騎馬となった時点で、ダービーを制する運を既に掴んでいたのかもしれない。


 祝福に包まれる東京騎馬場。

 冷静沈着、感情をあまり表に出さない紅城が、珍しく恥ずかしそうな表情を浮かべる。

 いつもより高い位置に鞍を構え、紅城を押し上げる騎馬二人の表情は誇らしい。

 社ノ台はウイニングランをする。


「紅城さん、また遠くなっちゃったな」

 隣で涙しながら呟く和緒に、僕は声を掛けられなかった。

 僕自身、声を出そうものなら涙も出そうだった。

 騎馬でこれほど心が動くものなのか。


 スタンドから騎馬部の皆で観戦した日本ダービー、言葉は必要なかった。

 勝つことは当たり前だ。どう勝つのか?

 それはもちろん圧倒的に勝つ。

 紅城一羽を擁する社ノ台。

 当然だ。

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