第3話 想い

 目覚ましが鳴る。

 一時間早い起床だ。朝ご飯は手短であるがしっかり食べる。

 いつも通り玄関を出る。荷物が多く、玄関が狭く感じる。

 今日から騎馬部の活動、初日から朝練だ。


 いつも通る交差点、甲斐の姿。

「あれ? 甲斐、誰かと待ち合わせ?」

「有太、おはよう。いきなり朝練でキツイと思って。初日から朝練遅れたら和緒に怒られるだろうしね。何より、分からないことだらけでしょ? 登校一緒にすれば話も出来るしさ」

「和緒には何したって怒られるだろうけどな」


 冗談めかした言葉なんて、しばらく言ってなかった気がする。

 甲斐とゆっくり歩く。


「甲斐、朝練は何するの?」

「登山先輩に練習メニュー作ってもらっているから、校庭でそのメニューをこなす感じかな。昨日も、僕は登山先輩の作ってくれた練習メニューをこなしてたんだよ」

「登山先輩は甲斐、和緒と昔から知り合いなの? 入学して一ヶ月も経ってないのに慣れてる感じだし。特に、和緒は登山先輩にずいぶん可愛がられている気がして」

「そうだね。親が知り合いで、和緒は登山先輩とも良く遊んでいたんだよ。僕らの父は競馬の騎手で、登山先輩の父は競走馬の調教師だったからね」


 知らないことが多すぎだが、いきなり大事なことを知った気がする。

「競馬界の消滅で疎遠になってしまったけどね。ちなみに、登山先輩の父は“鬼の登山”と呼ばれた調教師だったからね。娘である登山先輩の練習メニューもなかなかハードでキツイよ」

 調教を連呼する登山先輩のことが腑に落ちたが、これからの朝練を前に聞きたくなかった。


 校門には和緒の姿。

「ちょっとお兄ちゃん、先に家を出たと思ったら有太と一緒なの? 有太、お兄ちゃんに手間取らせないでよね!」

「和緒、ごめんね。有太にはお互いに分からないことを色々話していこうと思って。男同士だと話しやすかったりするもんだしさ」

「ふ~ん。コソコソするのは感心しないけど、優しいお兄ちゃんに免じて許すわ」

 和緒の相変わらずの対応である。

 三人で校庭へ向かう。


 校庭では、既に登山先輩が陸上部の朝練をしている。

 甲斐を見た女子生徒の黄色い声援で、こちらに気付いた登山先輩。

「おはよう、諸君。今日から調教よろしくぅ! とりあえず、今後の流れ含めた騎馬部の調教メニューは出来ているよ。これを見たまえ」

 登山先輩から僕たちにメニューが渡される。


 甲斐と僕は同じメニューだ。

“騎馬の組手をし、五十キロの重りを二人で持って走ることに慣れる”

 様々なメニューが書かれてはいたが、太字のコメントが目に付いた。

「甲斐、騎馬の組手はどんな感じなの? あと、重りはどんどん増えてくるの?」

 脳裏に登山先輩のキツイ練習メニューが浮かび、重さが増えていきそうで不安だ。


「そうだな、まず軽く身体を動かそう。組手はその後に。重りは五十キロで増えないよ。騎娘が乗った状態を想定した重さだから」

「そうか、和緒を想定した重さね」

 察し良く甲斐の説明に答えたつもりだった。


「ちょっと有太、勝手に私の体重とか想像しないでよね、気持ち悪いから。騎馬の規定で、騎娘と鞍の重さを足してピッタリ五十キロと決まっているの。重さが不足する場合、もしくは実績によるハンデ戦の場合、騎娘は重りを背負って規定の重さに合わせ騎馬に乗るのよ。私は五十キロ未満」

 和緒の地獄耳。

 語尾がやけに強かった点、体重を気にしているのだろうか? 多少デリカシーが無かった気がする。


「和緒ちゃんの調教メニューはこれね」

「ミホ先輩、もっとハードで大丈夫ですよ」

 そのやり取りに、僕の地獄耳もまんざらでもないと思った。


「実際の重さを感じさせないフォームを作るのも、騎娘である私の役目だからね。私は体育館で別メニューしてくるから、有太はまず組手と重さに慣れてちょうだい」

 和緒の僕への文句だけではないアドバイスに少し驚いた。 

「それじゃお兄ちゃん、有太はドMみたいだからビシバシいって大丈夫。宜しくね」

 和緒は体育館へ足早に向かった。


「それじゃドMの有太くん、軽くランニングしてから組手、重りに慣れる練習をしよう」

——そのうち、登山先輩のように練習を調教と言ってしまいそうだ。

「おいおい甲斐、和緒の味方かよ。まぁとりあえず走るか」

「やる気だな、有太。それじゃ軽く校庭二十周からだね」

「え、マジ?」


 登山先輩の練習メニュー、思わず目を疑った。

 初日の朝練から己の限界を超えていた。

 部活とはそういうもの、そう思って今まで避けてきた。他を知らない。

 部活動が初めての僕にとって、これはただ当たり前の部活動である。


 朝練は散々だった。

 二十周のランニングから始まった朝練。

 甲斐はウォーミングアップと言わんばかりにランニングを終え、練習メニューを次々こなす。


 僕はランニング十五周ほどで朝練の終了時間となり、練習メニューをこなせなかった。

 騎馬の組手すら確認出来なかった。

 甲斐にエールを送られたが、己の力の無さに凹む。

 今日の授業に体育が無いだけで有り難い。

 僕は疲れきっていた。


 四限目を終え昼食の時間。

 いつも通り、教室でしか群れないグループで席を固め弁当を食べる。あまり食欲がない。

 入ってこない話に耳を傾ける素振り、会話の盛り上がりに合わせるだけの相槌あいづち

 突然、後ろから何かで背中をつつかれた。

 振り向くと小鳥遊さん。


「和緒殿の命により、和緒殿にょ使い魔には……」

 小さな弁当箱を差し出された。聞き取れないような小鳥遊さんの声、差し出された弁当箱。

 少女が緊張しながら、手作り弁当を渡しているような光景。

 一部始終見聞きしたクラスメイトにより、僕は冷やかしの対象となった。

 視線が集まること自体苦手だ。疲れていたのだろう、軽い冗談も笑えない。


「小鳥遊さん、ちょっと」

 差し出された弁当箱を手に取り、小鳥遊さんを連れて教室を出ようとする。

 冷やかしの声が大きくなる。

 その声が聞こえなくなる場所へ。

 気が付けば屋上だ。


「一体どうしたにょだ、和緒殿の使い魔よ」

 小鳥遊さんの相変わらずの口調。

「小鳥遊さん、いきなり弁当なんてどうしたんだよ。あと、僕は和緒の使い魔じゃないし、毎度そんな設定で話されたら周りにも変な誤解されるよ。困る」

 教室の冷やかしに動じ、少し意地悪な僕だと感じた。


「誤解、そんなものに私は解かれたくはにゃい。正しく解かれてこその我が闇。気にしない」


 小鳥遊さんの気持ちが分からないでもない。“気にしない”の言葉には僕にない強いもの、感じるものがあった。

 同時に、何も聞かず小鳥遊さんを連れ出してきたことに反省した。


「あー、なんだ、その。悪かったよ小鳥遊さん。いきなり教室から連れ出してさ。弁当なんてどうしたの? 和緒がどうとか言ってたけど」

「今日から騎馬部の練習。練習の練習からしないといけない有太には酷な日々の始まりだけど、せめて栄養価の高いものだけでも恵んであげて。と和緒殿ぎゃ」

——和緒の声真似すれば噛まず普通に話せるのか。


「この弁当、小鳥遊さんが作ってくれたの?」

 僕は弁当箱を見つめる。

「そう」

「開けて良い?」

 頷く小鳥遊さん。女の子の作る弁当は初めてだ。


「!!!」

 驚いた。

 弁当箱の中身はこんがり揚がった唐揚げにカットレモン、彩り豊かなサラダが添えられている。


 僕が小鳥遊さんと初めて会ったのは調理室。

 怪しい雰囲気と謎の食材の印象しかないので、想像とは正反対の弁当だ。

「美味しそう」

 無意識に言葉が出た。


「戦の前の腹ごしらえ、食べるにょだ」

 小鳥遊さんのまた良く分からない設定、何だか落ち着く。

 急に食欲が出てきた。 

「美味い」

 一口目の言葉が最後、あとは黙々と。

 僕はあっという間に小鳥遊さんが作ってくれた弁当を完食した。


 隣では、小鳥遊さんが自分の弁当箱を開けている。

「あれ? 小鳥遊さんそれしか食べないの?」

 僕への弁当箱にはぎっしり料理が詰まっていたのに、小鳥遊さんの弁当箱は所々空いている。

「うみゅ、最前線への食糧補給が絶たれたのだ」

 小さな唐揚げと少しのサラダ。どうやら、僕の弁当にずいぶんサービスしてくれたのだろう。


「小鳥遊さん、僕の弁当食べてよ」

 小鳥遊さんの弁当で食欲が沸き、僕は自分で持ってきた弁当箱も開けていた。

「箸はまだつけてないから、半分ずつ」

 人の持ってきた弁当とか、男と弁当半分ずつとか、小鳥遊さんは何も気にしていない。


「うみゃい」

 小鳥遊さん、料理も良く噛めて、言葉も噛み噛みだ。嬉しそうだ。

 屋上で弁当を分ける男女、これはもう誰に冷やかされても仕方ない。

 そんな心地よい昼休み。


 弁当を食べ終えた。

 昼休みの時間はまだ残っている。

 良い機会だし小鳥遊さんと話をしよう。

 共通の話題……。


「小鳥遊さん、その名前といい、マイペースな感じ良いよね。僕も中学の時は自分に理想の設定をして、何でも出来るんじゃないかと思った時があったよ。ヒーロー気分で、セリフめいた言葉を叫んだりもした」

 自分の黒歴史を普通に話してしまった。


「こなこ……。上から読んでも下から読んでもこなこ。延々と繰り返す無限ルーピュ。我が名は魂をこの世にとどめるための呪い。我が名を恐れるのにゃらば、こなちゃんと呼んでも良いにょだぞ。デュフッ」

 名字のことを言ったつもりだったんだが。

 最後の不敵な笑いの意味も分かってしまう僕。

 そして、自分の黒歴史をスルーされて恥ずかしい気持ちになる。


「呪われた名を恐れるなんてことはないけど、こなちゃんね。分かった。そしたら、僕のことも有太と呼んでよ」

「有太。その名前だけで呼ばれたら、今の小さな器のままで変わらんぞ。たまに呼びゅ」

「まぁ気分で呼んでくれ。って、けっこう失礼なことサラッと言うなよ」

“こなちゃん”とは少し気恥ずかしいが、話すと割と普通の女の子だと思った。


「こなちゃん、どうして料理が好きなの?」

「お母さんが喜んでくれたゃから」

 暗い表情にこの展開。

「もう居にゃい」

 やっぱり。

「ごめん、思い出したくないこと聞いてさ」

「仕事で居にゃい。ふふ」

 完全に騙された!


「そ、それでこなちゃんは今日の放課後の部活はどうするの? 僕と甲斐は校庭行くけど」

「和緒殿のために、体力回復に効果的な薬草入りスープを作りゅ。家に持って行く」

「和緒は僕たちと別メニューだけど、放課後の部活は休みなの? 確かにあいつはずっと動きっぱなしだからな。たまにはゆっくり休むべきだよね」

「お主、知らぬのか?」

「何が?」

「和緒殿は早退した」

「早退? 和緒が?」


 和緒は朝練の直後から体調を崩していたようで、二限目で早退していた。

 練習の付き添いをしていた姫宮先生が大事を取ってくれたようだ。

 大まかな説明を聞き終えたタイミング、昼休みも終わる。

 こなちゃんと別れた後、和緒のことをもっと聞きたかった自分に気が付いた。

 和緒のことが心配だ。

 僕は元気な和緒以外を知らない。


 六限目を終え、足早に校庭へと向かう。

 和緒のことを聞くなら二組のこなちゃんを訪ねるか、一組の甲斐のもとへ向かうのが良いと思ったのだが。

 僕は、やり残した朝練をクリアして放課後の部活に臨みたかった。


 黙々と校庭を周回。

 走ることで、少しは心配を紛らわすことが出来ると思ったのが正直なところではある。

 何も考えないように駆けようとする意識が強くなりオーバーワーク、一定のペースを刻むことすら出来ない。

 朝練のメニューは終えたが、どこか身になっていないと感じながら、校庭脇の鉄棒に寄りかかる。


 甲斐がやってきた。

「有太、初日から飛ばしてない? 大丈夫?」

「和緒は大丈夫なの?」

 それが一番気になっていたことだ。


「聞いてた? 心配かけたみたいで悪い。和緒は朝練に気合い入りすぎたみたいで」

 話を聞けば、登山先輩の練習メニューを自分で倍に設定していたようだ。

「でも大丈夫、早退してから家でゆっくり休んでたようだし。寝たら良くなったと、さっき電話もきたしね」

 甲斐の笑顔にやっと安心出来た。


「良かった。けど、なんで和緒はそんなに無理するんだ?」

「無理してる感覚ではないと思うよ。有太が入部してくれたおかげで創部出来て、騎馬部の活動が出来る。嬉しくてじっとしていられないんだよ」

 確かに、出会った時から和緒はずっと騎馬のことばかり。

「兄として、和緒が無理することは想像出来たからな。もっと見てやれれば良かった。みんなに心配かけちゃったし、反省」


 僕は和緒に言われるがまま入部しただけだ。

 和緒が喜べば力になっていると勘違いしていた。

 自分で何もしていない。


「甲斐、僕はもっと頑張りたいな」

 力不足は承知だが、ぽつりと言葉が漏れる。

「ありがとう。正直、有太がこのタイミングで居合わせてくれて創部出来た。それだけでも有り難いことなんだ。騎馬は兄弟、和緒の叶えたい夢でもあるから」

「そんなことで感謝されても複雑だ。居合わせたのが僕じゃなくても、創部は時間の問題だったと思うよ」


 本音が思わず口を突いた。

“僕じゃなくたって”そんな気持ちには慣れていたのだが……。

 少しの間に、こみ上げてくるものがある。


「確かに僕は騎馬の経験もないし、人並み程度の知識であまり良く分かっていない。話の流れで入部したのも認める。でも、今日初めて部活動をして、自分の不甲斐なさに腹が立った。入部したからにはみんなの力になりたいんだ」

 頭を下げる甲斐。

「ごめん、そうだよな。有太が朝練の残りを消化する姿を見ていた。自分の意思で頑張っていることに、僕は失礼なこと言ったよ。謝る」

「い、いや。頭上げてくれよ。そんなたいそうなことでもないし、気にしないで。聞きたいんだけど、叶えたい和緒の夢ってなんだ?」


 入部からの流れ。

 和緒の強引な印象に終始していたが、それはきっと強い意志の現れだったのだと思い、和緒の夢というのが気になった。


「兄弟のことで有太を巻き込むのは悪いと思ったけどそれは違うと分かったよ。同じ騎馬だし、有太が何をどう感じるかが大切だからね。有太はみんなの力になりたいと言ってくれた。それが有太にとって騎馬をする理由なら、僕たち兄弟が騎馬をする理由も話さないとね」

 僕は静かに頷いた。

「これは競馬界がある頃、僕の父親が騎手だった頃の話」


 広井ひろい晴信はるのぶ

 甲斐と和緒の父。

 競馬界の中では中堅騎手。

 大きなレースに縁は無かったが、堅実で真面目な性格そのままに、手堅いレース運びで安定した成績を残していた。


 任された競走馬の能力を引き出し、ファンの期待に応えて勝つ。やりがいを持っていた。

 登山未歩の父、登山とやま景虎かげとら調教師が運営する登山厩舎きゅうしゃの主戦騎手でもある。

 ある一頭の競走馬との出会いが、彼の人生を変えた。


 サイレンスサーキット。

 超良血馬である。

 競走馬のセリでは三億円もの価格が付き、デビュー前から競馬界ではその存在が知られていた。


 持って生まれた素質、能力に任せたままの走りでも他を圧倒し、デビューから無傷の四連勝。

 世代最強を決める日本ダービーでは圧倒的一番人気に推される。

 しかし、能力に任せたままの走りが通用しないのが大舞台。

 スタートから勢いそのままに先頭奪取してハイペース。ゴールまでの最後の直線、スタミナ切れで大失速。六着に終わる。


 周囲の期待の大きさは競走馬にも伝わる。

 序列として自分が頂点であると感じる競走馬は調教師、騎手の命令など聞くはずもない。

 能力を高める調教師、勝てるレース運びをする騎手、どちらも受け付けない競走馬。

 日本ダービーはサイレンスサーキットの挫折である。


 超良血馬には、血統を残し繁殖するための種牡馬しゅぼばとしての価値も高い。

 早期に競走馬を引退させ、種牡馬として利を得ようと考えたサイレンスサーキットのオーナーではあるが、素質を見抜いていた登山調教師の進言によりサイレンス サーキットは現役続行。

 それまで在籍していた厩舎を離れ、登山厩舎へと転厩てんきゅうした。


“血統は良くなくても、平凡な力であっても、調教で勝てる競走馬を育てる”

 任された競走馬の能力を最大限に伸ばしてレースに送る。登山調教師の方針だ。

 時にはスパルタとも言われる調教メニュー、業界内での批判も少なくない。

 超良血馬とはいえ、能力を発揮出来ないサイレンスサーキットも例外なく鍛えられた。

 この馬にとっては遠慮のない、初めてのぶつかり合いだったと思われる。


 夏を終え、サイレンスサーキットは逞しくなった。

 ぶつかり稽古の登山調教師、馬の呼吸を読んで騎乗する広井騎手、このあめむちのような環境でサイレンスサーキットはその能力を伸ばし、力を存分に発揮していく。


 十一月一日、一枠一番。

 単勝オッズ一・一倍、一番人気。

 中距離の王者を決める秋の天皇賞。

 全てが一並び。

 約束された一着を祝福するように、サイレンスサーキットのために与えられたような大舞台は整っていた。


 騎手は広井晴信。

 転厩後、この馬と共にタイトルを次々と獲得してきた。

 この日もファンから一番に推された愛馬で大舞台に臨める。

 これ以上ない栄誉、あとは相棒のサイレンスサーキットを気持ち良く走らせてレースに勝つ。


 大観衆の手拍子と共にファンファーレが鳴り響く。

 全馬ゲートイン、静寂に包まれる競馬場。

 ゲートが開くと共に大歓声、スタートから先頭を譲らないサイレンスサーキット。

 その影をも踏ませず、後続をグングンと突き離す。


 サイレンスサーキットが挫折した日本ダービーと重なるような光景。しかし、これはハイペースでも大逃げというわけでもない。

 広井騎手が、サイレンスサーキットを気持ち良く走らせているだけ。

 常識のハイペースがマイペースという韋駄天ぶり。


 人馬一体、呼吸を合わせ一緒に走る。

 レース中盤、会場はお祭り騒ぎだ。

 メインスタンド前、中継の大型ビジョンには先頭サイレンスサーキットのみ映る。二番手以下は遙か後方。

 あとは最後の直線、どれだけ後続を突き放して勝つのか。

 皆の期待が集まる。


 いつも通り単騎で回る最終コーナー、突然サイレンスサーキットが失速する。

「こ、故障発生か?」

 それまで明快なレース実況のアナウンスが乱れ、会場は沈黙する。

 後続の馬に追い越されていくサイレンスサーキット。

 騎手を想ってか、サイレンスサーキットは痛めた脚をブラッとさせながらも、広井騎手を地面に打ちつけまいと倒れずに耐える。

 広井騎手はすぐさま鞍から飛び降り、倒れそうな相棒を身体全体で支える。


左前脚主根骨粉砕骨折ひだりまえあししゅこんこつふんさいこっせつ

 自分の体重を脚で支えられない馬は生きられない。

 サイレンスサーキットは予後不良よごふりょうと診断され、安楽死となった。

 勝った馬が分からないような競馬中継など記憶にない。

 夕方のトップニュースはサイレンスサーキットの訃報を全局が伝える。

 翌日の全紙面もサイレンスサーキットの訃報ふほうが一面だ。


 連日続く報道に変化が現れた。

“競走馬殺し、登山調教の実態” “速度超過、広井騎手の手腕に疑問”

 スターホースの悲劇への憎悪は二人に向けられた。

 転厩後、連勝続きで上機嫌であったサイレンスサーキットのオーナーは、早期に引退させて種牡馬にという選択が正解であったと無念を語る。

 メディアはその無念をも巧みに変換、登山調教師への批判、大舞台の経験が少ない広井騎手への不満を報じ続けた。


 このタイミングに新生類憐みの令の施行も重なり、競走馬保護の機運も高まり、競馬界は一気に消滅へと向かう。

 広井晴信は、競馬界消滅の引き金を引いた戦犯のような扱いのまま、競馬の騎手を引退した。

 サイレンスサーキットで成し遂げたかった想いを残したまま。 


「形は違うけど、和緒は競馬に成り変わった騎馬で、一番人気の騎馬になってレースに勝ちたい。そんな想いで頑張ろうとしている」

 ずっと話を聞いていた僕。


 想いをせること。どこか遠い場所、例えば戻れない過去。

 騎馬をすることでそこに近づいていきたい和緒の気持ち。

 想いを馳せること……僕にとって何だ?


「和緒はサイレンスサーキットが大好きだったし、騎手だった父さんにも憧れていた。世間を見返してやりたいんだとも思う。広井の名前が少しでも良い形で皆の記憶に残っていけるように」

 僕は言葉が出ない。

「騎馬界には元競馬関係者も多く、未だにサイレンスサーキットの悲劇が尾を引いている。和緒の挑む道はいばら道、兄の僕は妹を全力で支えたいんだ」

 甲斐の言葉は胸に刺さる。

 同時に、刺さる言葉——甲斐と違い暴力的ではあるが、その裏に秘めた想いを持つ和緒の顔が甲斐に重なる。


「ヒロインを助けるのは俺でありたい」


 止めようのない、無意識のうちに発したであろう言葉が漏れる。

——あぁ、そうだ。あの時僕は一人で。無理なのに、くやしいだけだったのに。

 主人公やヒーローにはなれない僕が、それでも心の奥底で叫び続ける想い。


「僕のくだらない願望だろ? 昔は厨二病キャラ全開だったんだ。笑ってくれ」

 こなちゃんには屋上で話したが、昔の僕はそうやって一人で強がったのだ。むしろ、そう願っていた。

 自分の黒歴史を甲斐にも知られるなんて。

 振り返りたくない過去を、今日はよく思い出す。

 甲斐が微笑む。


「有太、くだらなくない」

 甲斐のまっすぐな視線。


「和緒と僕と両親だけが知る秘密、有太に一つ教えるよ」

 ここぞと言わんばかりの甲斐の表情と口調。


「母親が付けた妹の名前、広井和緒は誰かの“ヒロイ(わを)ン”になって欲しい、だってさ。くだらないか?」


 それが本当かどうなのかは聞かない。

 一つ言える。

 僕は今こうしてヒロインを助けられる機会を得たのだ。

 それは兄弟が夢を叶える物語。

 主人公は甲斐、ヒロインは和緒。この物語に僕は出たい。

 ヒロインを助けるために必死になれる役があるのなら、僕の憧れる生き様そのもの。兵士A。

 だから物語にはヒロインが必要なんだ。


 なんだ、簡単なことじゃないか。

 これはもう、僕がやるだけやってやるだけさ。

「……本当にくだらない。笑える」

 目を合わせた甲斐と、何だかやっと対等な気持ちになれた。


「甲斐、僕たちは和緒の最高の騎馬になれるな」

「もちろんだ有太。さて、話が長くなった。登山先輩の地獄メニューが待ってるぞ」

 僕の道もいばら道……。

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