第114話、曰く、夢の中の違和感。

 ゆっくりと伸ばした手を、佐藤亜月に巻き付けるようにして、強く抱きしめようとした。

 震える彼女の体を優しく抱きしめようとした。

 大好きな人の温もりを、感じようとした。


 その瞬間だった。


「松本どのぉ ! 無事でしたかぁ!」


 突然、細柳小枝ほそやなぎこえだの声が聞こえてきた。


「松本どのぉ! 松本どのぉ! むぁぁぁぁつむぉぉぉおとどぉぉぉおおおぉぉおんっぬぅぉぉおおぉぉぉぉおぉお!」


 野太い声だ。せっかくのラブロマンス的な雰囲気を一気に破壊する雑音。騒音。爆音だ。


「うっせぇ出部太田!」


「えぇっ!? 酷い!」


 エレベーターの入口に駆け寄ってきた男が、その場でズッコケる。

 顔は涙と鼻水でぐっちょぐちょだ。


きったねぇ! 顔汚(きっっっっっったね)ぇ!!!」


 俺が悲鳴にも近い声で叫ぶと、細柳小枝は顔面から汁という汁をビチャバチャ飛ばしながらさらに泣き声を発する。


「びぇぇぇぇぇぇん!」


「マジで来たねぇしそんな泣くことないだろ!」


「びぇぇぇぇぇぇん! びぇぇぇぇぇぇん! 鼻炎なんです」


「急に真顔になるな! 怖いわ!」


「びぇぇぇぇぇぇん!」


 俺のツッコミを受けた途端、またわざとらしく泣きわめき出す。本当に意味がわからない男だ。いや、きっとわざとやっているのだろう。


「ってかそれよりお前、なんでまだビルに残ってるんだよ」


「そ、そんなの決まってるじゃないですか! 松本殿が心配で、ずっと帰りを待っていたんですよ! 男たるもの、親友のためならたとえ火の中水の中幽霊ビルの中!」


「嘘つけ! お前逃げ帰ろうとしてただろ!」


「そそそそそ、そんなこと」


 なんちゅう慌てふためきっぷりだ。漫画のキャラみたいに汗を周囲に飛ばしている。


「あれ……? 私がビルに来た時は細柳さん……居なかったですよね?」


 ふとそう呟く佐藤亜月。


「はっ!」


 動揺を隠そうともしない細柳と、それに間髪入れず飛び蹴りを放つ俺を見て、彼女は驚きの声を上げた。


「ひゃう!?」


 そのあまりにも場違いで素っ頓狂な声に、男子二人は揃って笑い声を上げた。


「あ、あの……細柳さん、大丈夫ですか?」


「え、ええ……大丈夫ですとも。テレテレ」


「何赤くなってんだてめぇ!」


 さらに追い打ちをかける俺に、どうしてぇ!? と悲鳴をあげる細柳小枝。その平和としか言いようのない空間に、俺は思わず笑みがこぼれた。いや、大爆笑した。


「……松本どの?」


「ま、松本さん?」


 二人の困惑する表情に、俺は尚更笑い声をあげる。


「だ、大丈夫ですか?」


 佐藤亜月が狼狽えながら俺の肩を揺さぶるも、俺は笑い声と涙が止まらない。


 きっと、怖かったのだろう。


 ああ、怖かったのだ。今でも、足の裏がピリリと痛む。ガトーショコラのお陰で傷は塞がった。佐藤亜月のお陰で俺は助けられた。

 もしも、佐藤亜月さんが俺を迎えに来てくれなかったら。

 もしも、ガトーショコラが気まぐれで俺を助けてくれなかったら。

 もしも、魅皇みこの目的が交渉ではなく虐殺だったら。


 きっと今頃、俺は死んでいただろう。

 大都会K市に引っ越してから、たった一ヶ月の間に二度も死を直感するほどの強敵と戦った。

 俺が今こうして笑っていられるのは、もはや奇跡なのかもしれない。


「ど、どうしましょう出部太田さん」


「細柳小枝です」


「松本さんが壊れてしまいました」


「いつもの事です」


 直後、俺の飛び蹴りが見事出部太田に直撃する。


「あー、ちくしょう。笑い過ぎて腹痛てぇ」


 涙を拭いながらそう言葉をこぼす俺と、涙と鼻水を小さなハンカチで必死に拭う細柳小枝。そんな俺たちを見て、恐怖から開放されたのか不安げな表情が無くなった佐藤亜月。


 ん? 待てよ。


「おい細柳。そのハンカチ誰のだ?」


「あ、これは佐藤殿の──」


「──ぶっ殺す!」


 フォース・トランスパンチ!

 全力の恨みを込めた拳がみぞおちを貫くッ!


「グブゥォォオグフゥアァガァァァン」


 相手は死ぬ!


「出部さん!」


 佐藤亜月が悲鳴にも近い声で彼の名を呼んだ。


「……細柳……小枝で…………すっ」


 それが彼の最後と言葉となった。


「ぽくぽくチーン」


「勝手に殺さないでください!」


 必死にツッコミを入れる佐藤さんも可愛いなぁ。


「あ、そうだ佐藤さん」


「はい、なんですか松本さん?」


 産まれたての子鹿みたいな細柳小枝を無視して、佐藤亜月がこちらを振り返った。うん、見返り美人だビューティフォー。この俺様鬼龍院刹那カメラマンが君の美しさを鍵付きフォルダーに入れて差し上げよう。さぁシャッターチャンス! スマホに向かってピースピース!

 落ち着け俺。今彼女の写真が欲しい訳では無い。


「なんで、エレベーターの中で寝てたんですか?」


「寝て……?」


 何の話か分からない。といった表情だ。


「はい。先程まで佐藤さん、エレベーターの中で寝てたような」


 魅皇の居た部屋──確か8万階近くの広い部屋だったか──から外に一歩踏み出した途端、景色が一気に変わりエレベーターの中だった。

 そして俺の隣では、スヤスヤと寝息を立てる佐藤亜月の姿。

 ハッキリ覚えている。

 忘れられない。

 何せ可愛すぎるのだから。


 ところが、佐藤亜月からの返答は意外なものだった。


「私寝てましたっけ……? 私の記憶では、松本さんがエレベーターの中で寝てたんですけれど……」

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