第113話、紅茶の香りのする少女を欲す。

「もしかしたら危険な場所かもしれないのに……どうして来てくれたんですか?」


 わざわざ聞くまでもない質問だ。それでも、思わず聞いてしまった。好きで好きで仕方の無い憧れの女性が、俺を心配してくれた。それが嬉しすぎるのだ。


「いや、あの……」


 ほら見ろ。佐藤さんも困っているじゃないか。幽霊ビルに乗り込んで迎えに来てくれた人に対してわざわざ聞く必要ないだろ。松本ヒロシのバカバカバカバカ!


「あの……松本さんが居ない夕飯は……嫌だったので」


 佐藤亜月は顔を真っ赤にし、照れていることを全く隠しきれぬまま笑顔を浮かべる。

 かわいい。

 可愛すぎる。


 彼女自身、恥ずかしかったのだろう。全く目を合わせようとせず、紅葉する頬に手を当てたまま視界が宙を彷徨さまよっている。


 彼女は以前、ハナニラという怪人フラワーに襲われたことがある。

 佐藤亜月と、この俺、鬼龍院刹那きりゅういんせつなこと松本ヒロシが初めて出会った時、彼女は無抵抗のまま怪人フラワーに襲われるか弱い少女だった。


 もちろん、彼女の中にはガトーショコラという化け物が住んでいるのは事実だ。

 ガトーショコラはありとあらゆる怪人フラワーをこの世界に召喚し、人を襲わせている。

 それには彼女なりの理由があるらしいことを俺は知っている。

 しかし佐藤亜月本人は全く知らない。

 何も知らない被害者なのだ。

 きっと怖かったはずだ。

 殺されるかもしれないという恐怖が彼女を飲み込んでいたはずだ。

 恐ろしさは今も消えていないだろう。

 現に、彼女の手は恐怖に振るえている。顔面蒼白とまではいかないが、それでも顔色は良くない。

 心を落ち着かせるために持ってきたであろう紅茶のペットボトルも空っぽだ。

 そんな恐怖を押し殺してまでも、この子は俺の安否を確認しに来てくれたんだ。


「佐藤亜月さん……あなたって人は」


 感激のあまり言葉が出ない。


「き、気にしなくていいんですよ?」


 えへへと笑う彼女があまりにも可愛くて、俺の両腕がそっと前に向けて動いた。

 佐藤亜月は震えている。

 傍らには空っぽになった紅茶のペットボトル。

 不安だったことは聞くまでもなく分かる。

 怖かったはずだ。

 恐ろしかったはずだ。

 泣きたかったはずだ。


 それはそうだ。

 あのクラスにいた誰もが、謎の声を聞いた。

 幽霊ビルの噂話を耳にした。

 そんな場所に近づくことすら難しいだろう。


 にも関わらず、彼女は俺を心配し、駆けつけてくれたのだ。

 俺のために勇気を振り絞ってくれたんだ。


 恐怖しながらも健気に俺を迎えに来てくれた彼女を、そっと抱きしめてあげたかった。

 やましい気持ちなど一切なく、ただ俺は彼女を強く強く抱き締めたかった。


 ふと、ガトーショコラの言葉を思い出す。


『あはは♡ アタシじゃなくて、亜月ちゃんに感謝してよね』


 そうか、ガトーショコラが俺を助けに来れたのも、全部佐藤亜月が俺の事を心配してくれたからか。そして幽霊ビルに迎えに来てくれたからか。

 ガトーショコラの言う通り、俺は佐藤亜月に強く強く感謝しなくてはいけないらしい。


「さ、佐藤さん」


「は、はい!」


 顔を真っ赤にしながら、元気よく返事した彼女に、俺は自然と頬笑みを浮かべる。

 あぁ、きっと人を愛おしいと思う感情は今の状態を現すのだろう。

 こんなにも一人の人を愛おしく思ったことは無い。

 こんなにも一人の女性を守りたいと思ったことは無い。

 これがきっと、初恋というものなのだろう。

 俺は今、高校一年生になって、素敵な恋をしている。


「佐藤さん、その……」


 なんだか照れくさい。でもそれ以上に、今こうして二人見つめ合う時間の幸福に包まれていたい。


「俺のために、ありがとう……。迎えに来てくれて……ありがとうございます。凄く、嬉しいです」


「……えへへ」


 照れ臭そうに、彼女は微笑み返してくれた。そんな彼女の小さく震える肩に、俺はそっと手を伸ばす。

 ゆっくり、彼女を抱きしめるために。


「ま、松本さん……」


 多少困惑している様子の佐藤亜月ではあったが、抵抗する様子は見えなかった。


「も、もし嫌だったら……逃げてください」


 もっとかっこいセリフの一つや二つ、言えたはずだろう鬼龍院刹那。いや、無理だ。完全に今の俺は松本ヒロシ。命の危機から救われて、心の底から安堵したただの高校男子。

 かっこいいセリフが何も出てこない。


 だが、そんな俺の素直な言葉で十分だったらしい。

 佐藤亜月は目を瞑り、小さく頷いた。


「は、はい……」


 逃げる素振りは見せない。

 いや、むしろ逆だ。

 俺を迎え入れる体制に入った彼女は、若干両手を広げて座っていた。


「佐藤亜月さん……来てくれてありがとうございます。本当に、嬉しかったです」


「えへへ……松本さんにそう言って貰えて……良かったです」


 可愛らしく笑う彼女の体を包み込むように、俺はゆっくりと腕を伸ばした。


 彼女の髪の甘い香りが、ふっと鼻腔をくすぐる。

 俺はそのまま、ゆっくりと体を前に倒した。

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