第101話、心にあるのは想い人。

「魅皇さん、やっぱり服……着てください」


 俺はそっと彼女の腕を振り払い、背を向けた。緩めていたベルトを誰にも気づかれないようにゆっくり締め直し、深く深く深呼吸を繰り返す。

 俺は何を馬鹿なことしているんだ。こいつは敵だ。倒さなきゃならない敵だ。そして俺には、心に決めたたった一人の女性が居る。もしその人が同じ立場で同じことをしていたとしたら、俺はどんな気分になるだろうか。想像すらしたくない。胸が痛い。痛すぎる。


「やっぱり、こういう身売りみたいなやり方は良くないと思います。魅皇さんは美しいですし、もっとご自身を大切になさって欲しいなって……」


「う、美しい……?」


 少し嬉しそうな声を出す魅皇だったが、慌てて咳払いを挟み声色を戻した。


「ならば尚のこと、わっちに身を任せれば良いでありんすよ。それに、お主も世界征服の担い手になれるのでありんす。お主にとっても悪い話ではないでありんしょう?」


「いや、世界征服の担い手になるのは正直なところ悪い話なんですけども、と、とりあえず見てらんないんで、服着てください」


 そっぽを向く俺に対し、余程の覚悟を決めていたのだろう。魅皇は引き下がれないと言いたげに俺に抱きついてきた。


「わ、わっちの体が欲しいと、そう言ったでありましょう? 今、誰も見とりゃせんでありんですよ。ほうれ、こうして近づけば」


 布一枚すら羽織っていない彼女の胸が、俺の制服越しに押し付けられる。柔らかい感触が、背中に広がるのを感じた。


「ドキドキしている音……聞いておくんなまし」


 後ろから抱きついたまま、彼女は俺の耳元でそっと囁く。その言葉その仕草その状況の全てが、ことごとく俺の理性を崩壊させに来る。


「……っあ」


 思わず身体を震わせると、その振動を受けた魅皇が甘い声を耳元で零す。


 この女、本気で誘ってやがる。


「クソがァ!」


 あぁ、もう我慢できない。なんだってこの女は俺をここまで誘惑してくるんだ。そうまでして、天照大御神の力が欲しいのだろうか。

 俺は振り向きざまに魅皇の両肩を抑え、強く押しのけて顔を近づける。


「ひゃうっ!?」


 魅皇は威厳の欠片もないか弱い声を出してその場に崩れた。俺の目も、暗がりに慣れてきたらしい。魅皇の表情も若干見えるようになった。


「魅皇さん、あなたはたしかに素敵です。素敵だからこそ、自分の体を……大事にしてください」


 そうハッキリ言い、地面に落ちていた和服を拾い上げて彼女に羽織らせてやる。着付けの仕方とかよく分からないから、とりあえず適当に。

 形として見れば、明らかに俺が要求しておきながら、俺が誘いを振っている。酷い男だな、と自分を笑いながら、彼女から背を向けて立ち上がった。


「な、何も見てませんから。今の内に服着ちゃってください……」


「な、なぜ……」


 魅皇は理解が出来ないと言いたげな声を漏らしながら、袖を通して立ち上がる。


「何故って……」


 そんなの答えは一つしかない。


「俺、好きな人が居るんですよ。だから、下手にそういうことしたくないなって……」


 あはは、と笑う俺を、魅皇はどう思うだろうか。きっと幻滅しただろう。卑怯な男と思っただろう。だがそれでいい。こんな形で女性の初めては欲しくない。こんな形で、俺の初恋を裏切りたくはない。それになにより、彼女とは敵対しなくてはならないのだから。


 そんな俺の決意を新たにした表情を、魅皇は心底不思議そうに覗き込んで首を傾げた。


「わ、わっちのことは好きではないのでありんすか?」


「ん……?」


 いや、そりゃまぁ敵だし、なにより魑魅魍魎引き連れてこの世を支配しようとか目論んでるし……。


「好きでは、ないかな」


「わ、わっちの体が欲しいって」


「いやそもそも体が欲しいとか言ってないし……」


「そんな馬鹿なァ!」


 魅皇はよほど俺の返答が想定外だったらしい。両手で顔を覆い、その場で膝から崩れ落ちた。まだ着崩れしたままの服を直そうともせず、はわわと小さな声を漏らす。

 そんな主の姿を見て、火車は焦りを微塵も隠すつもりなく轟々と火を大きくして彼女の周りを回った。


「み、魅皇様っ! お気を確かに! 魅皇様ァ!」


「わ、わっちの、わっちの誘いが断られるとはッ! だ、だってわっちの、わっちから直々の誘いでありんすよ!? この美貌に美を上塗りしたようなわっちの誘いを!」


 魅皇の両腕から生えるビスマス鉱石にも似た鱗が、火車の炎を反射させて彼女の黒髪をより一層美しく映えさせる。

 しかし、それ以上に真っ赤に染った顔が非常に印象深いのもまた事実。余裕気に、そして優雅に俺を世界征服に誘い、極めつけにと部下の前で身を呈して交渉してしまった手前、あっさり断られてしまったことが余程羞恥心を掻き立てたのだろう。そんな震える細身の女性に、俺はなんと声をかけるべきか分からず頭を掻き毟るしかなかった。


「魅皇様、お気を確かに魅皇様!」


 ついでに、彼女の周りをグルグルと回り続けている火車の存在も気になる。あいつが回る度に、魅皇は自分が目交いを断られてしまった事実に気付かされるのだろう。恥ずかしそうに両手で顔を覆い、声にならない声を上げて蹲ったままジタバタとのたうち回る。

 中ボスポジだろうと恐れていた存在が、こうも無防備に可愛げのある姿を晒してくるようでは、俺は本当にどうしたらいいのだろうか。


「魅皇様、魅皇様ァ! しっかり、しっかりなすってください。魅皇様ァ!」

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