第82話、幽霊ビルに潜みし猫、ここに在らん。
「そ、それで本当に行くのですか……松本殿っ!」
俺の制服の裾を必死になって引っ張りながら、出部太田は大声を上げる。
「無理無理無理無理、我、怖いのは苦手なのです! この細柳小枝、怖い場所には行きたくないのです!」
そうだった。こいつの名前は細柳小枝。出部太田ではない。だが外見は明らかに出部太田だ。
そんな丸々と膨れ上がった脂肪の塊は、顔からギトギトとした脂汗を滲ませて、唾まで飛ばして俺の動きを阻止する。
「無理無理無理、我絶対無理ですぞ! 絶対行きませんぞ!」
「別に着いてこなくていいよ、俺一人で行くからさ……」
顔面を涙と鼻水でグチョグチョに濡らしたぬっぺふほふ似の男は、それも嫌だと言いたげに首を必死に横へ振った。
「松本くん一人だけそんな危険な場所に行くのを、我はみすみす見過ごす訳にもいかないのです!」
「えぇ……。大丈夫だよ。俺はヒーローだし、何かあれば戦えばいいし」
「そ、そんなこと言ったって松本くん、戦うのに必要なお金無いのでしょう? 小生知っているのです! 金なしヒーローがどうやって戦うのですか!」
図星だ。グサッときた。心に刃が突き刺さる。割とダメージは大きいようだ。
というか、そもそもなぜこんなことになったのかというと、全ての元凶は今日の放課後に突如聞こえてきた謎の声のせいだ。
女子高生と思しき声色で、幽霊ビルに纏わる噂話を淡々と話し続けた挙句、そこには誰もいなかった謎の一件。完全なる怪奇現象に、教室中は恐怖に包まれた。
そんな空気を打破してくれたのが細柳小枝だったわけなのだ。
「お前の発言でクラス全員騙したようなもんだからさ。お陰でみんな幽霊ビルの噂話はお前の目覚まし時計の音だと思い込んでくれたわけじゃん」
「そ、それは我の正義感の賜物というか……」
そう。細柳小枝の目覚まし時計の音だということで全体的な恐怖を和らぐことは出来た。しかしそれは嘘なのだ。
実際に怪奇現象は起こった。誰も居ないはずの場所から声がした。
「あとは、実際の怪奇現象を倒してしまえばいいってわけだ」
「そんな簡単に言うけど、相手は実態もないのですぞ!」
「ばーか。俺を誰だと思ってんだ。最強のヒーロー、
それに、もし
「いや、だから金が無いのに……」
「お前が居るじゃん。必要になったら貸してくれ」
「ええっ!?」
「だから怖かったらここに財布置いてけよ。ちゃんと怖いやつ倒してやるからさ」
右手でお金のハンドサインをしながらニンマリと笑う俺を、細柳小枝はため息混じりに睨めつけて少しだけ笑顔を見せた。
「しかたありませんな。我も同行しますぞ」
俺の役に立つという事実がそんなに嬉しいのだろうか。彼の足がほんの少し早くなった気がする。
「単純だなお前」
「何か言いましたかな?」
「いいや、特に何も。それより、本当にあの声はお前の目覚まし時計じゃないんだよな?」
細柳小枝は必死に首を横に振った。
「我がこれほどまでにホラー耐性無いことくらいもう分かっているでしょう松本ヒロシくん! 我はあの嘘を通して場を鎮めることだけで手一杯。もうこれ以上あの声について考えたくもないのです!」
「それもそうだな。ということは明らかにあの声は……」
何らかの存在が引き起こした現象なのだろう。
「どう思う?」
という俺の問いかけに対し、細柳小枝は必死に首を横に振る。
「何も考えれません!」
逆に潔い。いや、清々しいくらいにビビりだ。
「俺は、罠だと思うんだ」
会話という概念はもうここに存在しないと思っていいだろう。彼と言葉を交わすことは、容易ではないと思える。なので、鏡や壁に話しかけるのと同様に、自分自身と対峙するための道具として使うことにしよう。
「
「知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない」
「俺が思うに、これは全く別のタイプの敵なのではないだろうか。そう、例えば……」
先日バーニングさんが口にしていたアイツらなのではなかろうか。そう、『魑魅魍魎の
「幽霊ですな!」
「なんで元気ハツラツしてるんだよ!」
「叫んでないと気が狂いそうなのです!」
ということらしい。気の毒だ。
「多分だが、今回このビルに居るのは魑魅魍魎と呼ばれる奴らだと思う。しかも、俺はだいたい想像は着いている。多分だが……」
火車というやつだと思う。ただ気になるのが一つ。
「明らかに罠なんだ。怖い話で誘き出して、人を狩るタイプの罠」
そして、火車はマリーゴールドを燃やした魍魎……。
まさか、人を寄せ集めて燃やし食らっているのか?
そんな事を考えているうちに、すっかり日も落ちて辺りは暗くなっていた。
「さてと、細柳小枝」
「……はい」
「目的地に着いたな」
目の前には、ボロボロに崩れ落ちたビルが見えた。そしてビルの一室から、ユラユラと確かに光が揺らめいているのだった。
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