第10話、それは佐藤亜月で。

「分かりました、よろしくお願いしますね、佐藤亜月さん。あ、俺の名前は……ってさっき自己紹介しましたね」


 照れ隠しで頭を搔く俺に、佐藤亜月は微笑んだ。


「はい、松本ヒロシさんですね。鬼龍院刹那きりゅういんせつなさんとは呼ばなくてもいいんですか?」


「あはは、ご冗談を。あれはヒーロー活動している時の名前ですし、佐藤さんには、本名で呼んで欲しいな……なんて」


 おかしいっ、今回は無駄に格好つけていないはずだ。それなのにめっちゃ顔が熱い。さ、佐藤亜月はどんな顔を……ッ!? なぜだ、彼女も顔を赤らめている、え、これ脈アリ?


「わ、分かりました。ま、松本ヒロシ……さん」


「は、はい。ありがとうございます……コホン」


 あっ、俺の中で変なスイッチが入ったのを感じる。


「マドモアゼル、俺の事はヒロシって呼んでも……いいんだぜぇい」


 だ、だっせぇー。頼む辞めてくれカッコつけ男子松本ヒロシッ! 本当にダサい。いや、マドモアゼル封印したんじゃねぇのかよ。ってか「だぜぇい」って何だ「だぜぇい」って。お前はどっちかって言うと『だせぇい』わ!


「い、いえ、それはまだ……は、早いかな……って」


 ほらほらほらほらほらほらほらほらッ! 引いちゃったよ、ドン引きしちゃったよ、取り返し着かねぇよ。落ち着け俺、な、頼むから落ち着いとけ。


「ま、松本……くんで、いいですか?」


 顔を真っ赤にして、長く白い髪を弄りながら彼女は顔を上げた。うるうるとした黒い瞳で、じっと俺を見つめてくる。ヤバい、心臓がぶっ刺されたみたいにドキッと大きな音がした。凄くドキドキする。何この子、何この佐藤亜月って生き物。めっちゃ可愛い。


「あっ……えっと」


 不意打ちにも程があるだろ、ドキドキし過ぎて喉が乾燥してしまった。声が出ない。口をどんなにパクパクと動かしても言葉が湧いてこない。むしろ心臓の鼓動ばかり大きくなって、彼女の耳にも届いてしまいそうだ。静まれ、鎮まりたまへ荒ぶる心臓よ。


「だ、ダメ……ですよね」


「だっ、ダメじゃないです。むしろ、う、嬉しいです」


「……松本くん……ですか?」


「は、はい! あの、俺も大家さんのこと、佐藤さんって呼んでも……いいですか?」


 何故苗字を呼び合うだけなのに、こんなに緊張するのだろう、何故苗字を呼び合うだけなのに、こんなに嬉しいのだろう。田舎にいた頃は、男女問わず下の名前で呼ぶのが当たり前だった。これからもそれが普通だと思っていた。でも今は違う。ただ相手に自分の苗字を呼ばれるだけで嬉しいし、俺が彼女の苗字を口にできるのも、嬉しい。


「は、はい。佐藤でも……亜月でも……大丈夫です……」


 え、えぇっ。マジか、マジなのか。いきなり下の名前で……よ、呼ぶか、呼ぶべきか、呼べるのか俺……ッ。


「ご、ごめんなさい。今は……佐藤……さんで」


 俺の意気地無しィィイイ!


「あっ、えっと、はい。よろしくお願いしますね。あの、それと、同い年なので敬語はやめてください。……って私もか」


 照れたように笑う彼女を見ていると、思わずこっちも笑えてくる。清楚で大人しい雰囲気なのに、表情は豊かで、お喋りが好き。間がもたないということも無く、会話が苦手な俺ですら自然とお話が出来る。本当に素敵な人だ。


「佐藤亜月……さん。か」


 本当にいい名前だ。何がどういい名前なのかは分からない。けれど、いい名前に感じる。すごく懐かしくて、昔どこかで聞いた事があるような、そんな名前だ。


「あっ、今私の事甘そうな名前だとか思ったでしょ?」


「へ?」


 突然顔を近づけてきた佐藤亜月に対し、俺はどうしたのかと戸惑い思わず後ずさる。ヤバイヤバイヤバイ。顔、顔近い、近かった。そんな近くまでこられたら、心臓吐いちゃうから。

 困惑する俺に向けて、彼女は少し頬を膨らませて、怒ったように腰に手を当てた。なんでこう一つ一つの仕草が可愛らしいんだよ。誰だこんな可愛く育てた親は。感謝してやる畜生っ!


「私の名前は佐藤亜月です。シュガーでもあんこでもないですからね!」


 しかも怒るところがわけわからねぇ! シュガーやあんこって何だ? だが、本人としては至って真剣なようで、身振り手振りを大きくしたまま「シュガー……ダメー! あんこ……ダメー!」と繰り返している。何だこの生物可愛すぎる。

 ってか、シュガーやあんこってなんの事だ? ……ああ、砂糖小豆ってことか? いや思わねぇよ! 小学生じゃあるまいし。


「あ、いや……なんか懐かしい名前だなって思っただけで」


 むしろ砂糖小豆って名前でも可愛いとは思うが。白い髪と真っ黒な瞳はまるで粒餡の詰まった饅頭のようだ。いや、例え下手だな。


「懐かしい……ですか?」


 頬を赤らめ、嬉しそうに微笑む彼女、いつまでも見ていたい。同い年とは思えない美しさに見惚れる俺に向けて、彼女はどこか表情を歪ませて微笑んだ。その表情は、明らかに違う。先程までの可愛らしい微笑みとは違うものだった。むしろ、もっとおぞましい何かの、不敵な笑み。


「やっぱり、覚えててくれたんですね? 松本ヒロシさん……いえ、ダーリン♡」

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