第8話、それは紅茶の香りで。

 緊張と後悔と恥ずかしさと、また彼女に対して抱く初めての恋心とが不必要なまでに絡み合い、俺の思考が完全に停止してしまった時だった。

 二人の間に漂うぎこちない空気を帯びた沈黙を破るように、大家さんは口を開いた。


「まぁ、鬼龍院……いや、松本さん。とりあえず用意はできてますので、どうぞ中へ」


 鬼龍院刹那きりゅういんせつなの名前で呼ぶようにと散々念押しした過去の俺が憎い。おかげで彼女は偽名で呼ぶべきか本名で呼ぶべきかわからず戸惑っているじゃないか。マジで俺のアホ。

 おっと、とりあえず中に入れと促されている。ここはお言葉に甘えて、いやその前に返事を。


「い、ひゃい、は、はい。ありがとうございます。ま、まちゅもとでいいれふ」


 だっさぁぁぁい……。緊張してるのが丸分かりじゃないか。いや、噛んだことは仕方ない。仕方ないとして、おい、俺よ、松本ヒロシよ。その「はわわ」って顔しながら口元隠すの辞めてくれ。女々しいッ!

 それから俺は彼女に促されるままリビングルームにまで案内され、向かい合う形でソファーに腰をかけた。女の子らしい家だ。長らく大切に使っていたのだろう。綺麗に整理整頓され、清潔感溢れる室内。ソファーやテレビの横には可愛らしいぬいぐるみ。本棚には写真が何枚も立て掛けており、生活感が垣間見得る。


「うふふ、もう、松本さん。そんなにジロジロ見ないでください」


「あっ、ひゃい、すいましぇん」


 噛みすぎである。もう俺の口嫌い。

 それから彼女は、予め用意していたのだろう。綺麗な柄のティーポットに茶葉を入れ、沸騰した電気ポットからお湯を注ぐ。慣れた手つきだ。


「松本さん、アールグレイでいいですか? あ、お砂糖は使います?」


 アール・レイ? なんだそれは。ジェームズ・アール・レイの事だろうか。あの犯罪者の、キング牧師を暗殺した? なんで今そんな話に。これは試されているのだろうか。


「あー、いえ、俺は一応ヒーローをやっていますので、キング牧師の方が好きですね」


「へ?」


「……え?」


「あっ、えっと。アールグレイです、フレーバーティーの一種で、ベルガモットを茶葉に混ぜた物のことをアールグレイと言うんです」


「ほ、ほう。なるほど」


 わからん。


「今回は一般的なキームン紅茶にベルガモットを混ぜたアールグレイにしたんですけれど……紅茶はお嫌いでしょうか?」


「まさか、普段水しか飲んでいないので、そんな贅沢な品を頂いてもいいのかと思いまして……とても好きです、アール・レイ」


「アールグレイです」


「うん、そう。アールグレイ。好きですよもちろん」


 んで結局アールグレイって何だ。


「うふふ、良かった。お砂糖は使いますか?」


「さ、砂糖……そんな高級なもの。ぜ、是非とも頂きたいです」


「はい、どうぞ。アールグレイは熱を加えるとより刺激的な香りになるんですよ」


「あ、ありがとうございます」


 彼女はとても嬉しそうに紅茶入れ、砂糖を添えて俺の前へと提供する。正直紅茶なんて全く分からないが、彼女が優しくしてくれる現状が嬉しくて仕方なかった。ふむ、確かに甘酸っぱいような香りがする。どれ一口……ッ。


「あちっ」


「あぁ、気をつけてください」


 しかも苦い、なんだこれ、香り詐欺じゃないか。甘そうな香り出しておきながら苦いんですけど。と、慌てて砂糖を入れる俺を見て、大家さんは頬笑みを浮かべた。と同時に、俺の脳裏からは彼女をナンパしようとしていた、あのウキウキ気分がどこかへ飛んでいってしまう。すっかり素に戻った俺は恥ずかしさと緊張でガチガチだった。


「それにしても、まさか、鬼龍院さんが松本さんだったなんて」


 うん、その言い方間違ってないけどなんかややこしいな。


「すみません、なんか色々とややこしくて」


 頭を下げる俺に、彼女は慌てた様子でそれを阻止した。


「いえいえいえ、仕方ないですよ」


 俺の目をしっかりと見つめて、どこか嬉しそうに彼女は微笑む。


「ヒーローさんですもんね。正体、隠さなきゃですもんね」


 いや、隠す気とかなくて、ただ鬼龍院刹那のほうがカッコイイなって思ってただけですごめんなさい。中学生入った辺りから名乗りだしたんです。ヒーロー業も去年からようやく真面目にやるようになったんです。なんかとことん嘘で塗り固めた自己紹介でごめんなさい。まさか無駄に格好つけていた男がこんなにも女慣れしていなくて、本名も松本ヒロシとかいう在り来りな名前だなんて思わないよなぁ、幻滅しちゃうよなぁ。しかもナンパするような男がルームメイトになるなんて知ったら嫌だよなぁ。

 そんな風に気を落としていたが、彼女の口から飛び出した言葉は俺の予想と反したものだった。


「でも、私は嬉しいんです」


「へ?」


「だって、私だけは、あなたの秘密を知っちゃってますから。二人だけの、秘密ですね」


 ウインクした彼女を直視出来ず、俺は赤く染った頬を隠すように紅茶を飲んだ。まだ紅茶は苦かったが、少し違う。砂糖のせいだろうか、先程よりも甘く、優しく感じた。

 いつかちゃんと俺の話をすべきだなと思いながら。いつか、俺がヒーローとして未熟であることも、この街に来た本当の理由も、話さなきゃなと。そんな事を、考えていた。

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