27 軋轢の夜(2)

 洞窟の中は相当広いらしい。らしいと不確定になるのは、イサムの視界には何も映っていないからだ。先導するパルツィラの姿はおろか空いた右手を目の前に掲げても、その輪郭すら見ることができない。

 只、閉ざされた空間に想像していた息苦しさはなく、慎重に進もうと右手で触る洞窟の壁面の感触がなければ、イサムはここが洞窟だとわからなくなりそうだった。


 そんな光源の全くない洞窟の中を、パルツィラは迷いなく奥へ進んでいく。

 パルツィラの後に続かざるを得ないイサムもまた洞窟の中を進んでいくが、その足取りは重かった。


 洞窟の中も川沿いに進んでいるようで、イサムの耳には下層の街中に引き続き、川の流れる音が聞こえている。

 下層では穏やかな夜を演出していたせせらぎだったが、この場においてはその限りではない。何かの拍子に川へ転落する可能性が恐ろしく、イサムは慎重に歩こうとしてその歩みを遅くしようとした。

 そんなイサムの様子に気付いたようで、パルツィラは歩きながら「気を付けてください」と一声掛けてきたのだが、決して歩みを緩めようとはしない。

 パルツィラに半ば引っ張られるように進みながら、イサムはどういうつもりで言ったんだと困惑しつつ、必死に足と耳に神経を集中するしかなかった。


 二人の間に会話らしい会話はその後もなく、イサムは黙々とパルツィラの後に続いた。


 慎重さに時間の感覚が麻痺したようで、ふと後ろをイサムが振り返ってみれば、暗闇にわずかばかり明るく浮かんでいた入口はもう何処にも見えなくなっていた。

 その光景を目にして、ここに取り残されたら帰れるのだろうかとイサムの心に不安がよぎった。それは今まで歩みに集中することで抑え込んでいた、この状況への恐怖を意識させる呼び水になっていく。


 パルツィラの足が止まったのは、イサムがさらに足取りを重くしたそんな時だった。


「ちょっとだけ、ここで待っててください」

 そう聞こえたかと思うと、パルツィラの手がイサムから唐突に離れた。

「え?」

 暗闇に放り出され、イサムの口からは自然と呆けた声が漏れる。


 イサムの声が洞窟に響くと同時に、洞窟の中には駆ける足音が重ねて響き渡った。近場から始まり遠く離れていくその足音は、間違いなくパルツィラのものだ。


「おい!」

 最悪な想像の実現が迫って、イサムは呼び止めようと声を荒げた。


 だが少し間を置いて返ってきたのは「すぐに戻りますから」という、まるでイサムに配慮しない言葉だった。


 足音が遠ざかり、聞こえなくなれば、辺りは静寂に包まれる。


 訪れたしんとした静けさが、イサムの耳にはうるさく感じられて仕方がなかった。

 暗闇に加えて、二回目となったパルツィラの「ちょっとだけ」という曖昧な言葉への不信感に、イサムの精神はがりがりと摩耗していく。

 パルツィラが走り去ってまだ数分。けれどイサムの思考はいつ引き返そうかと、既にその機会を窺っていた。


 右手で洞窟の壁面を触れたまま、空いた左手を自身の首元へと持っていく。その手の動きに首元の蛇が応じれば、目の利かない中に自分以外の存在を感じて、イサムはほんの少し安心できた。

 後ろを振り返っても、入口はやはり見えない。洞窟の壁を辿れば入口まで戻ることはできると思うが、暗闇にその確証が持てず、それがイサムにすぐ引き返すことを躊躇わせていた。


『……何なんだよ、一体』

 心が均衡を保とうと、イサムの口から日本語での愚痴が漏れる。


 無意識下での呟き声が洞窟に反響し、その音に反応してイサムの体が少しびくついた。

 この場から去るか、留まるか。自身が声を発したことに気付けないほど、イサムはこれからの行動に思考が囚われていた。


 只、考えれば必ず答えを得ることができるわけでもなく、何も選べないままに時が経てば、イサムの行動を待たずして状況は変化する。

 パルツィラの去った方向、洞窟の奥から足音が近付いてきたのだ。


 聞こえる足音は一つではない。イサムは最初、パルツィラの足音が反響しているのかと思った。だがしっかりと地面を蹴る複数の音が、それをすぐに否定してきた。

 一体何人いるのか、無言で近付いてくるのは獣化病の者達だろう。只、イサムをきっと視認できる位置に至っても声を掛けてこない。


 そんな彼らの決して速くない足取りが緊張感を煽り、イサムは高まる一方のそれから声を出せずに唾を飲む。

 足音が止み、辺りを再び静寂が包み込めば、イサムのそれは頂点に達した。


「何処を見ているんだ?」

 沈黙を破ったのは、聞き覚えのない男の声だった。


 声のした方に顔を向ければ、下卑た笑いが洞窟に響く。何人かの声が重なるが、イサムの目にはやはり暗闇しか映らない。それでも探ろうと目を凝らしてみれば、その様子が彼らには滑稽に映るのか、笑い声は一段と大きくなった。


 イサムが緊張と不快感に顔を歪めると笑い声は小さくなる。

 だがその代わりとばかりに、辺りには剣呑な空気が広がっていく。


「あの、この人達は」

 潜めた笑い声の中、場の雰囲気を取り繕うとする声が聞こえた。


 声の主はパルツィラだ。いまだ潜めながら嘲笑を続ける下品な奴ら、彼らと会わせることが彼女の目的だったのだと、イサムはここでようやくそれを察した。

 けれど見ることなくわかる相手方の態度は、明らかに友好的なものではない。


「おい」

 パルツィラの言葉を遮って同じ男の、大きな声が発せられた。


 途端、その声に続いて足音が響いた。それは先ほどとは違う素早い足取りで、イサムへ向かって一直線にその距離を詰めてくる。

 イサムに身構える時間はなかった。

 足音の接近、そして傍に人の気配を感じたと思うや否や、イサムの腹部に鈍い衝撃が走った。


「がっ!?」

「ちょっ、ちょっとっ!? 話が違うわ!」

 イサムが体をくの字に曲げて膝から崩れ落ちそうになれば、パルツィラからは焦ったような抗議の声が上がった。

「これぐらい、こいつがしたことを思えば当然だ」

 パルツィラの声とは対照的に、男の声は落ち着いて冷淡なものだった。


 同調するように、周りからは「足りないぐらいだ」という言葉が聞こえてくる。腹部の衝撃は恐らく殴られたのだろう。その殴り付けた者は既に傍から離れたのか、イサムの近くから上がる声はない。


 顔を伏せて両手で腹部を押さえながらも、イサムは周りの状況をその耳で確かめていた。


 衝撃に思わず声が漏れたものの伴う痛みはさほどない。呼吸が整えば、イサムが落ち着きを取り戻すのは難しくなかった。そして体勢そのままに次の衝撃に備えたがそれもなく、ゆっくりと体を戻していく。


「何か言うことはないのか?」

 イサムが体を起こしたのを目敏く見つけてか、恐らく束ね役なのだろう同じ男の声が飛んできた。


 イサムは背筋を伸ばすと、男がいるだろう方向へ顔を向けた。何かを期待したような男の声に態度で聞こえていることを示しながら、無言で暗闇を睨み付けていく。


 何を言えばいいのか、状況に困惑しているのもある。だがそれ以上に今まで抱いていた不安と緊張が、イサムの中で不快感と苛立ちに上書きされていた。

 さほどとはいえ殴られた腹部はじんじんと痛み、そもそも自分が何をしたんだという思いが渦巻いていく。いきなり殴られるような、そんな恨みを買った覚えがイサムには当然なかった。


「おい」

「ヒュイジ、やめてっ!」

 イサムが返事をしないでいれば、苛立ちの混ざった男の声にパルツィラの声が重なった。


 二人の声と同時に、別の方向から地面を蹴る音が聞こえた。イサムは嫌な予感から、咄嗟に体の向きをその音の方へと変えていく。

 するとそのイサムの動きに合わせて、今まで動かなかった首元の蛇がイサムの体から離れ、闇の中へ飛び出した。


「ぎゃあっ!?」

「ひっ!?」

 蛇が離れた瞬間、自分の目の前で大きな声が上がり、その声にイサムも尻餅をつきながら声を上げた。

「なっ、何だこいつ!」

 目の前で喚く大声に、鋭い蛇の威嚇音が時折混ざる。

「ヒュイジ! どうした!?」

「もうやめてください!」

 離れた場所からは束ね役の男とパルツィラの声、さらに他の何かしらの声も聞こえた。


 さっきまでの静寂が嘘のような喧噪だった。


 もうわけがわからない。イサムは目の前で蛇と格闘しているだろう者から後ずさり、距離を取ると立ち上がった。


 取り敢えずこのまま逃げようかと思うも、四方全てが暗闇に囲まれている。イサムの右手はもう洞窟の壁面になく、何処に進めばいいのかわからない。


 数瞬後、蛇と格闘している前方にいる者が一際大きな悲鳴を上げた。

 何と言ったのかを誰もが理解する前に、その悲鳴に続いて大きな水音が洞窟に響く。


「ヒュイジ!?」

「おいっ、誰かっ!」

 男達の声と共に慌しい足音が聞こえ始める。


 どうやらヒュイジと呼ばれている者が川に落ちたようだ。自分を殴った者がそんな目に遭って、イサムが溜飲の下がる思いを得たかといえばそんな余裕はない。


「よくもやってくれたなっ!!」

 飛んできた怒声はあまりにも予想通りで、イサムはもはや驚かなかった。


 この後の展開は想像に難くない。そしてそれを理解しながら、無抵抗にこの身を理不尽な暴力に晒す気もない。イサムは身構えながらじりじりと声から距離を取り、両手を宙に泳がせては洞窟の壁面を探した。壁面を辿れば入口に戻れるはず。洞窟の構造を無視した安易な発想だったが、他に寄る辺はなかった。


 そんなイサムの宙に伸ばされた手が何か見つける前に、声のした方からイサムへ何者かが駆け寄ってくる。


「パルツィラ、裏切るのか!?」


 近寄ってくる者を止める術はない。自然と身を固くしていれば、足音はそんな声が聞こえるのと共にイサムの前で止まった。


「こんなことのために、この人を連れてきたわけじゃない!」

 すぐ目の前の暗闇から、イサムを後ろ手に守るようにして大きな声が飛ぶ。


 パルツィラのものだろう、濃い汗の臭いがした。それに混ざってほのかに嗅ぎ慣れた、爽やかな果物の香りがイサムの鼻を撫でた。

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