26 軋轢の夜(1)

 体を揺すられる感覚に、イサムは眠りから引き戻された。ぼんやりとしたままに薄目を開けてみれば、そこには暗闇しか映らない。まだ朝ではないと思うと、いまだ体を揺すり続けるものを腕で払い、身をよじってそれから逃げる。


「起きてくださいっ」

 そうしてイサムが再び眠ろうとしているところに、そんな声が聞こえ始めた。


 潜めながらも強い声に併せて、体が揺すられ続ける。その動きは強くなる一方で、逃れようとしても寝台の上に逃げ場はない。結果、無理矢理目覚めを促されたイサムは、不快感に苛まれながらも再び目を開けるしかなかった。

 イサムが目を開ければ、揺すっていた何かが体から離れた。目覚めたことで再び寝入る環境が整う皮肉に、不快感は増していく。

 だがそれでも次第に意識がはっきりしてくると、イサムは自分がいまだ横になっていることに気が付いて、慌てて寝台から体を起こした。


「ふがっ!?」

 途端、イサムの口からは奇妙な声が漏れ、それもすぐにかき消えた。


 夜中に起こされたのだから、何か起きたに違いない。イサムはそう思うと、寝台から起きた勢いそのままに、状況を把握しようと声を出そうとした。だがその矢先に、口と鼻が何かによって塞がれたのだ。

 驚き、呻き、混乱の中で抗議の視線を右へ左へと走らせるが、夜の闇に浮かぶものは何もない。両手を使って口と鼻を塞ぐものを剥がそうとしても、それはイサムの力ではびくともしなかった。

 抵抗を続けると、口を押さえる力はさらに強まる。挙句の果てにはイサムの起こした体が寝台の上で再び横にさせられた。


「落ち着いてくださいっ」

 尚も寝台の上で抵抗するイサムに、上から声が降ってくる。


 気が付けば何者かがイサムの体に馬乗りになり、こちらを見下ろしていた。


 この状況で落ち着けるわけがない。目が慣れて、暗闇の中にぼんやりと輪郭が浮かんでくると、イサムはその何者かを睨み付ける。

 只、それで状況が変化することはなく、もはや抵抗しても無駄だと思うと、イサムの体からは自然と力が抜けていく。


「落ち着きました?」

 抵抗を止めたイサムの様子に安堵したのか、再び掛けられた声は穏やかなものだった。


 息苦しさにイサムがいまだ退けられない口と鼻を塞ぐものを手で軽く叩けば、それはすぐに口から離れた。


「はぁ……。何だ、一体?」

 解放された口で大きく一度呼吸をすると、イサムもまた相手に合わせて声を潜めた。


 馬乗りになった声の主には見当が付いている。口と鼻を塞がれた際にあったのは獣化病特有の、獣のようなもっさりとした体毛の感触。意識すれば聞き覚えのある声に、イサムの心当たりのある者は一人しかいなかった。


「すみません。ちょっとだけ付き合って欲しくて」

 それだけ言うと、イサムに馬乗りになっていた者は寝台の上から下りていく。


 そのまま部屋の入口まで進んで振り返ったのは予想通り、同室の少女のパルツィラだった。



「他の街って、どういうところなんですか?」

 話をしながらもパルツィラはまっすぐ前を向き、イサムに顔を向けてはこない。

「……悪い。俺達、森から出てきたから、他所の街を知らないんだ」

「そうなんですか……。じゃあ、森ではどんなところで暮らしていたんですか?」

「う、うん。森の村は、まぁ、ここより人が少ないかな……」

 イサムは内心冷や汗をかきつつ話を合わせるために、以前滞在したガフの村を思い浮かべていく。


 宿泊所を出た二人は時折会話を交えながら、パルツィラの先導で深夜の下層を川沿いに歩いていた。


 多くの者が眠り、起重機も止まったダムティルの夜は静けさが満ちていた。

 夜に声を響かせながら、道を進む二人の手はしっかりと繋がれている。夜目の利かないイサムの歩く速度は遅く、パルツィラに手を引かれてやっと人並みのものとなっていた。

 只、道中を急ぐために繋がれたはずの手は、今イサムが宿泊所へ引き返すことを主張しても許してくれそうにない。


 パルツィラの「ちょっとだけ」という言葉を信じて、ユーラを寝かせたままに宿泊所を出たイサム達だが、既にそれから十分以上は経過していた。

 目的地は何処なのか。それを問おうとするものの、会話は常にパルツィラが主導権を握って離さない。聞く機会が得られず、且つパルツィラの目的地に着実に近付いているだろう状況に、イサムは安易に同行を決めた自分の判断を後悔し始めていた。


 そんなイサムを責めるように、その首元に巻き付いた蛇が締め付けを強くしてくる。イサムが寝台を抜け出すと、蛇は同行するとばかりに巻き付いてきて離れず、そのまま連れ出すことになったのだ。


「私、この街から出たことないんです。獣化病だからっていうのもあるんですけど、他所へ行きたいと思ったこともなかったし」

「へぇ」

「……でもそれと、ここから出ることができないのは別の話ですよね」


 きっとこの街の者ならば、「獣化病を早く治せば、すぐに出られる」とでも言うのだろう。けれどイサムはその言葉を口にすることができず、黙りこくることしかできなかった。


 上層に通う日々の中、イサムは仕事ばかりしていたわけではない。ユーラに請われ、最近獣化病が治った者の話の真偽を探るべく、仕事の合間を見ては会う人会う人に聞き込みもしていた。

 下層で生活していることを枕に獣化病を話題にすれば、言い淀んだり、露骨に嫌な顔する者がいたりしたものの、好意的に話をしてくれた者もいた。只、余所者だらけの上層では、集まる情報は人づてにそんな話を聞いたことのあるといった程度。イサムは話の元に近付くことも、そこへ近付く方法を見つけることすらもできないでいた。


 下層に住まう全ての者が、あの話を信じている。むしろ信じていなければ、下層での日々を過ごせるわけがないとイサムは思う。けれどパルツィラの言葉はまるで、イサムがそれらを調べていることを知って、探りを入れているようだった。

 不用意なことを言えば、取り返しのつかないことになる。それはイサムの杞憂なのかもしれなかったが、星明かりに照らされたパルツィラの横顔はまだ暗く、そこからは何も読み取ることができなかった。


 イサムが言葉を返さずにいれば、会話は自然と終わってしまう。

 耳に聞こえるのは下層を絶えず流れる川のせせらぎと、イサム自身とパルツィラの足音だけになる。

 強調される沈黙に多少の気まずさを感じながらも、二人は黙々と足を進めた。


 そしてパルツィラが再び口を開いたのは、さらに歩き続けて五分ほど経った頃だった。


「ここからは気を付けてください」

「……ここ?」

 足を止めたパルツィラの言葉に、イサムは思わず問い返した。


 そこは下層の端、塩の川の上流だった。地上に向かって高くそびえ立つ崖と、川の流れ出る大きく開けた洞窟の入口がある。その中には何者をも拒む夜よりも深い暗闇だけが只々広がっている。暗闇の中を流れる川は入口まで冷気を運び、流れる小さな水音は洞窟の中でわずかに反響していた。


 何も見えない夜よりも深い闇を目に、パルツィラに握られたイサムの手が震えた。

 パルツィラはそんなイサムの震えに気付いているはずなのに、問いに答えようともせず洞窟の中へと足を踏み入れていく。


「ちょ、ちょっと……」


 イサムは自分の言葉の反響を耳にしながら、パルツィラの後に続く他なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る